by 味岡 修
「なんとなしに来てしまった大晦日」。もぐもぐとつぶやいているのだが、それにしても一年が経つのは早い。いつものセリフながらそんな思いがしてならない。コロナ禍の下での新年、どんなものになるのやら。巷のスーパーなどはにぎわっていたけど、政府などの呼びかける静かな正月になるのか(?)。友人のハガキに親しい人が亡くなって寂しいとあったが、本当にそうである。今年は友人の野辺送りをした。寂しさが遺る、それを否応なしに実感する年の瀬である。
正月には息子が孫を連れてやってくる。経産者前にテントを張って生まれた孫だが、上の子は来年小学校の三年生になるし、下の子は一年生である。孫たちはこれからの世代の出現であり、その感慨を持ったのだが、僕のやってきたことは孫たちに伝わるのだろうか、それは可能なのだろうかと考えることも多くなった。このことは同時に僕の祖父や親父たちは僕らに何かを伝えようとしていたのか、あるいは伝えたかったのだろうか、と思うことに重なる。想像するしかないのだが、これは僕らが孤独から救われて、癒されていることでもあるのだが、こんな自問が増えた。
この十年、経産省前にテントを創り、座り込みを続けてきたことも孫たちにどう伝わるのか、伝えられるのか、死者たちはどう考えていたのかを繰り込みながら、考え続けることになるのだろう、と思う。それはテントや座り込みの10年近い歳月が僕らにもたらしてくれている厚みのようなものだろう。
菅首相が脱炭素社会を提起し、そこで原発の推進を掲げることで、これまで沈黙しながら、陰で原発推進をやってきた原発推進派が活気づいている。福島原発事故以前に民主党政権が提起していた原発推進に舞い戻ったような動きである。冗談じゃないよと言いたい。
原発がクリーンなエネルギ―であるという問題は核のゴミ問題を含め検討され、否定されてきた、この議論を無視した話である、10年目を迎える「3・11」を目に僕らはこの動きに対応して行かなければならない。来年のことをいうと鬼に笑われるらしいがそんなことはかまっていられない。来年は原発推進の動きに立ち向かう年になると思うが、月並みだが、頑張ろうぜと言っておこう。
三上治(味岡修)
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