感染拡大が続くコロナ禍の中で

ドクターとナースと診断待ちの大勢の患者たち

by 味岡 修

自分の意思で対応していくことが大切

 経産省前の一隅にテントを張って寝泊まりをしていた頃に、思わぬことに気がついた。それは季節について敏感になったことである。そんなことと言うかもしれないが、暑さ寒さについて、季節の移り変わりを僕らはそれほど敏感に感じるというか、思いはしないできた。特に、都市の中の暮らしというか、生活にはそんなところがある。これは思わぬことだったのだが、季節感というか、季節の移ろいに感じるものが、日本の文化にあることも認識しえた。今年も寒の入りになり、やがては「大寒」に入ろうとしている。それは間近である。

 もう、日常化している座り込みであるが、巷は感染拡大が続くコロナ禍の中にある。政府が非情事態宣言を発出したからではないが、コロナ禍についての対応を意識せざるを得ない。個人的にいえば、かつて新型インフルエンザから肺炎になり、おまけに敗血症までなった経験をかえりみれば、俗にいう基礎疾患を抱えており、感染すればやばいと思っている。だからといって、密を避けてひたすら家に閉じ籠っているということには疑問もあり、結講出歩いてもいる。コロナ以前と日常行動が変ったこともない。

 連れ合いのように仕事に出掛けるという事はないが、コロナ禍が出現する以前の生活形態というか、日常的な行動形態を続けている。頻繁に手を洗いマスクは着用している。世には不評だったアベノマスクも珍重していた。何度も洗って使っていた。今はもう使っていないが洗えばまだ使えるかもしれない。自粛というのは感覚的に受けつけない。自分の判断でしっかり行動する。これが、こういう事態に対しては何よりも必要なのだと考えている。

コロナ拡大の中で感じてきたこと

 コロナ禍というのは何だろうか。政府のコロナ対策についての疑問も含みながらよく考える。新型コロナウイルスが発見されてから、もう1年を経るのであるが、この間に僕が考えて来たのは、何よりも感染の拡大(流行)は抑えたいということだった。新型コロナウイルスが弱毒性のものであろうが、なかろうが、感染すればそれによってもたらされるものは厳しいものであることを想像するからであり、高齢者であり、基礎疾患を抱えていると考えれば当然のことである。

 感染拡大が終息していくことを願ってきた。これは誰しもが願ってきたことだろうが、そう簡単に収まらないとも予測してきた。こうした中で、もし感染すればきちんとした医療を受けたいと思ってきた。その意味では感染の拡大によって医療崩壊のような事態は避けて欲しいと思ってきたし、医療の現状を注視してきた。政府などの医療対策には疑問や不安を持って見て来たし、なぜ、本格的な医療体制の構築に至らないのか疑問を含めて考えてきた。

 そしてさらに、このコロナ禍で生活を直撃され困窮する人々を支援したい、しかし、具体的な方法がなかなか見つからないということも含め、贈与経済的な考えが経済活動に必要なのであり、それがなければ、いくら困窮者に対する対策と言ってもなかなかすすまないのだと考えて来た。社会全体が災害も含めてこうした事態に立ちいったときに有効な動きが取れないのは、等価交換的な経済概念というか、意識が足かせになっていて、贈与経済的な考えが必要なのだと思う。また、集団免疫ができるまで、早くワクチンが開発されればいいと思ってきた。ごく平凡な反応と言っていいのだが、そういうことを考えてきたにすぎないとも言える。

外出(接触)制限に偏った体制

 この間、感染拡大を避けるために、人の接触(直接的な接触)を避けるという事で、様々のことが提示されてきた。不要不急の外出を控えることとか、外での飲食を控える等である。テレワークが奨励され、会議などにもオンラインでやることがやられてきた。僕はやはり面倒なのでオンラインでの会議などはパスしてきたし、僕の周辺での試みは自然に消えた。会議などは参加するまでの手間や面倒を考えればメリットもあるのだろうと思ったが、もう一つ積極的にはなれずにきた。それよりも個人的には感染したら、治療を受けることになるのだから、そのために医療機関だけは受け入れ可能な条件を保持して欲しいと思ってきた、

 コロナの感染拡大の中で僕が考えてきたことは、割と単純な事である。それは新型コロナウイルスに人々が怖れを持ち、恐怖感を抱くのは自然であるが、それが高まり恐怖が共同的(共同幻想的)なものとなること、その事によって引き起こされる事態は避けたいということだった。
 新型コロナウイルスの出現が人々を怖れさせ、恐怖させるとしたら、それは自然である。問題はこの恐怖感や怖れにどう対処するかだ。このために歴史的に感染症と呼ばれるウイルス(病原菌)の出現にどう対応したかが、参考になるのだと思う。

 この怖れや恐怖に対応するにまず必要なことは、このウイルスの正体を科学的知見において明らかにすることであり、その事によって過剰な怖れや恐怖から解放されることである。コロナウイルスという相手を知ることであり、そこから発生する無用な怖れや恐怖をとりのぞくことだ。もちろん、科学的知見がウイルスの実態を解明することは容易ではないし、限界を持つものであるにしても、さしあたってはそれが有効な方法であることは明白である。
 次にそれを情報として正しく伝えることが付け加わる。これは公的なものが果たすべき最低限の役割と言えるかもしれない。科学的知見による究明とその正確な情報というのは誰もが当たり前のことだというかもしれないが、現代の政府がそのように機能しないことは明瞭だし、それはよく知っておく必要があることだ。

転換を迫られる安全保障の政治哲学

 感染者の治療と感染防止のための行動といったものが、既に述べたウイルスの科学的究明という上に立てられるべきものである。先のところで何故に医療体制が構築されないのか、何よりもそれが第一に考えられないのか、という疑問を呈しておいたが、これは新型コロナウイルスのようなものの出現を、現未来の問題として、現在の政治が考えられないということにあるように思う。これはコロナ出現で明瞭になったことのように思うが、既に原発問題や気候変動問題においても出てきていた問題なのである。

 それは命というか生命の問題、その安全保障の問題は国家間対立、つまりは戦争の問題であるということが長くつきまとってきたことであり、この思考の枠に現在の政治的思考が呪縛されているということに他ならない。これは安倍晋三にとって生命を守るという事は、他国の侵略からまもるということであって、コロナのようなものに対応することなど及びもつかなかった。彼には武器や軍人のことしか頭にないのである。これは現在の政治哲学の問題でもある。原発問題の時にこれは政治哲学を要する問題だと言われたが、同じことがコロナ問題についても言われるべきことなのである。

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公的医療体制よりも個人に「接触制限(自助)」を迫る政治

 医療体制の問題は最低限の問題というか、どうしても確立しなければならないものだが、それよりも感染防止のために「密」とよばれる人間的な接触を制限するという事が出て来る。接触を制限することは、感染症との闘いの歴史の中で生まれた古典的な方法であろうが、これは一般的にいわれているように経済活動を停滞させ困難に陥れるだけでなく、人間的所業の問題に重大な問題を投げかけるのである。こういう問題は随所にみられるが、接触の制限ということが、感染防止のための根拠を持っているのか、それはどの程度の範囲なのか、未だ明瞭ではないということがある。

 非常事態宣言というのは接触という行動制限の提起でもあるが、ここでの最大の問題はそれがどこまで感染防止に有効なのかの根拠である。確かに接触の制限は、過去の感染症との闘いで経験してきた知恵のようなものだが、そこでは疑問となることも多々あったのである。かつて僕は結核で隔離された病院にいたことがあるが、感染防止のための隔離策の問題も知った。感染をさけるためには接触を制限するというのは基本的なことのように考えられているが、ここはかねてから問題点も多い所であり、接触の制限を最低限にするための努力もいるところである。

 どんなに接触を制限しても簡単に感染することもあれば、頻繁に接触していても感染しないこともある。それがウイルスであるし、実はそれが人から人へと感染して行くときの実態ではないのか。そうであればこそ感染した場合の医療ということこそが重要なのである。医療崩壊を防ぐために感染を防ぐ、そのために接触制限という理屈は合理的に見えてどこかまやかしがある。ここのとこを僕らはよく考えるべきではないかと思う。

コロナへの恐怖心から「接触忌避」の共同幻想化へ

 最後に一つだけ気にかかることを書いて置く。接触を制限することで感染防止とするということには、感染が接触によって行われるということが前提になっている。本当はどういう接触が感染の契機になり、どういう接触は制限するべきか、具体的な検討がいる。ここは難しいところだが、僕は接触が容易に感染に結びつけられているところに、新型コロナウイルスの出現の恐怖感がそこへ転移しているように思える。接触が感染と安易に結び付けられている、言ってみれば共同幻想化しているように思う。
 新型コロナウイルスの出現がもたらす恐怖、その恐怖が共同的なものに転移しているのではないか。だから、感染を恐れることが接触を恐れることになっている、人によって感染することを、あるいは感染したことを怖れ隠そうとする。

感染は恥でもなければ世間に隠すようなことでもない

 感染は自然現象であり、接触は経験的にその契機が多いという事にすぎない。感染したからといって恥じることでもなければ、怖れることでもない。隠すべきことではない。また、感染者を差別すべきではないし、それは馬鹿げたことである。感染は自然現象に属することであり、堂々と治療を受ければいいことだ。治療体制がないことは問題だが、その「責任」も公的機関が問われるべきものなのだから。
 接触と感染という曖昧な、明確にされていないところを共同幻想化しているのは危険なところである。人々がコロナに感染することの病的な怖れより、世間的関係を恐れるというのはとんでもないことだが、それはコロナがあぶりだしている社会的病理なのだ。僕らはこの辺に注意を喚起するべきだ。

三上治(味岡修)

霞ヶ関の風景(wikipediaより)

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。