こういう時だからこそ、3・27三里塚へ結集しよう

投稿者:草加 耕助

◆震災と原発爆発事故による心の動揺

10・10三里塚集会 3・27三里塚闘争(⇒詳細こちら)は震災と原発爆発事故の前から決まっていたものです。震災と事故の直後には、私も当然に予定通りに開催され、そこに結集するのが当然であると考えていました。しかし数日がたち、だんだんと震災の被害と事故の深刻さが明らかになってくるにつれ、私の中にも迷いと動揺がありました。とりわけ原発事故はまだ事態がどうなるかわからず、場合によっては集会結集どころか「生き延びる」ことが関東以北の人間の一番の課題になるかもしれません。

 ニュースを見るたびに事態は悪化するばかりでわきの下に冷や汗が流れました。やがて私は最悪の場合でも運命は運命として受け入れ、最後の最後までこの地に残って、より弱い立場の人たちの避難のために尽くそうということ、それまでは徹底的に「普通」に生活をしよう、絶対に慌てたり買占めなんてしないでおこうと、その二つのことを決めました。そしてそんな気持ちでいた私にとって、三里塚に限らず「集会結集」の呼びかけというのは、やや浮世離れしたものにも感じられたのでした。

 実際、代々木公園で予定されていたWORLD PEACE NOW 3.19は、「震災および原発の爆発事故の影響にかんがみ」中止となりました。中核派などは、3・20渋谷デモの報告記事の中で、WPNの集会中止は世の中の「自粛ムード(=挙国一致体制作り)」に屈服したものであるかのように主張しておられます。その批判が正しいかどうかは今後のWPNの態度によって明らかになるんでしょうが、現時点で私には、とりわけ今も続く原発事故の危機的な状況を、WPNが重く深刻に考えているがゆえの判断であるように感じました。

 もしそうだとすれば、このWPNの感覚のほうが、当初の私の感覚に近かったのです。また、実際問題として「集会どころではない」人が身近にもおられたでしょうし、まずそういう身近な人たちを助けたいという気持ちもあったでしょう。ですから、まるで営利団体と同じ感覚で、「不謹慎」だから「イベント」を中止したようなものと決め付けるのはまだ早計だし、そういうところまで慮れないようでは人心も離反しかねないように思います。まあ、いつもの私の感覚なら、たかがこれくらいの「批判」なんて別に何とも思わないんですが、ちょっと時期が悪いということはあると思いました。

◆左派としての事態の把握と行動方針の問題

 まあ、それはともかく、そういう精神状態でいたものですから、ひょっとして3・27三里塚も原発事故の様子を見ながら延期になるのではと思いました。参加を予定していた人でも、結集が困難な人もいるでしょうし、参加者も当初の見込みよりだいぶ減るかもしれません。たとえ参加できない人がいても、それを責めることもできませんしね。さらに、統一地方選挙でも各陣営が宣伝カーの使用をとりやめるような状況の中で、震災と原発事故の前から予定されていた反戦集会が、あたかもKY(空気読めない)なものとして保守反動派に攻撃されてしまうのではないか、それを打ち破るにはどうすればいいのか、そんな心配も正直ありました。

 結論から言いますと、要するに幅広い意味での左派全体として、今回の事態をどのように把握し、どう行動するべきか、突然のことでその整理に数日の時間が必要であった、そしてその結果として分岐が生じつつある。そういうことだと思います。私の当初におけるこういうモヤモヤした気持ちというのも、その脈絡の中で考えると自分なりにはっきりするものがありました。

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◆反戦闘争継続に対する不誠実な揶揄に接して

 本当に地震からまだ2週間しかたっていないとは信じられない。もう半年くらいたった気がします。その反面、まだ数日しかたっていない気もします。時間的な前後関係もあやふやなくらいに混乱しているというか、同時一体的に自分の中に入ってきたというほうが正確なのでしょうが、思いつくままに書いていきますと、おそらく最初にこのモヤモヤした気持ちに変化が生じたのは、共産趣味系の掲示板において「3・20渋谷反戦デモ」を予定通りに実施しようとする中核の中央派に対し、KYであるかのような(私からみれば)揶揄じみた表現を使った批判を見たことがきっかけだったかなと、あとから振り返ると思います。

 まあ、中核派(特に中央派)は、左派市民運動の中ではすごく嫌われていますからねえ。それを受けて共産趣味者の間では嫌われているを超えて揶揄の対象にされているところもあります。それにはそれなりの根拠ももちろんあるわけですが、ちょっとこれはないんじゃないかと思いました。最初のモヤモヤした気持ちからすれば、地震前からの内容のままで突っ走ることには、私なりの危惧もありました。震災直後に中核派が出した声明も、「え?これが党中央の公式の『声明』なの?」と思うくらいこなれてないものでした。

東北大震災 でもねえ、やはりだからと言って、震災後もそれ以前からの反戦運動を継続しようとする部分に対し、こういう保守反動派とあんまり変わらないような方向からの批判はないんじゃないないかと私は思いました。特に東北大学の学生さんなんて、被災地の学内で「炊き出し」とか手作りでやっていて、なおかつ3・20渋谷デモにも政権の原発政策を批判し、被災地から結集しようとしていました(ブログの震災写真がすさまじい)。まあね、これも確かにこなれてない運動だと言えばそうだし、批判しようと思えば批判もできるでしょうが、それにしても未曾有の混乱の中で手探りでやっている人に対しては、ちゃんと正面から真摯に批判してあげるべきで、こういう上から目線で見下したような「批判」はないだろうと不愉快に思ったわけです。

 ですので、別に同派を擁護する気持ちはありませんでしたけど、いくらなんでも、ご自分がどんな立派でものがわかった人間なのか、あるいはご自分は被災者のために何をしてらっしゃるのか、詳しいことは存じませんが、被災地の中でも反戦闘争を継続する学生、すなわち被災者そのものに対してまで、「被災者救援はどうした」と言わんばかりの揶揄はないんじゃないでしょうか。それは、自分では北朝鮮民衆のためには指一本も動かしていないくせに、その民衆の苦しみに便乗して「北朝鮮はどうしたwwwww」と書く人でなしのネトウヨの感性と、いったいどれほど違うというのでしょうか?私は「行動していない」人をいちいちつかまえて非難しているのではありません。いくら中核派が市民運動から嫌われているといっても、人の苦しみをネタにそういう風潮に便乗し、自分のことを棚にあげて他人にだけ要求する。そんなネトウヨ的な感性が不愉快であると(ご本人に気を使いつつ遠まわしに)表明したにすぎません。自分が正しいとも間違いのない存在だとも思いませんし、単に「もう一つの感想(主観)」として並べておこうと思っただけのことです。

◆3・20渋谷デモが受け皿となった人々の事例

 まあ、この件はしょせんはその程度のものとして終わりなのですが、それに続いて今度は上記の掲示板とはまったく逆に、別の掲示板で唐突な「3・20渋谷反戦デモの告知」がありました。面識のある方の投稿でしたが、やはり掲示板の趣旨違いの投稿でありましたので、今度はそちらに「ちょっと違うかも」という苦言を書き込みました。するとこれも先の揶揄を書き込んだ人とはまったく逆に、決して開き直ることもなく、その方から実に丁寧で真摯なお詫びのメールと、掲示板でのレスをいただきました。その中で、実は事前に管理人さんに許可を得た上での投稿であったことを知り、大変に恐縮しました。この方は中核派のメンバーでもなんでもない方でして、また、私信ですので詳しい内容は書けませんが、返信の中で、震災後の苦しい生活、怒りと危機感、その中でやむにやまれず3・20渋谷デモに参加しようと思った経緯なども簡単に書かれていました。そういうことを知ってから3・20の告知を読みますと、まったく違って見えてくるから不思議です。

 同じようなことはdoragonsさんが会員日記で書かれています(⇒「3・20渋谷反戦デモに参加して」)よね。他にも渋谷デモに参加される(された)方の感想や思いなどを読みまして、私もかなり印象が違ってきました。いわば3・20渋谷デモが、震災被害と原発事故の中で、「この怒りをどこに持っていけばいいのか」という方の受け皿になっている事例があるんだなあと感じました。これは3・20(=反戦闘争の継続)をあたかも「KY」扱いした人にとっては大きな教訓であると思います。だって、私がどう思ったかなんてことは関係なく、呼びかけられた対象である人たちがどう受け止めたかということが重要なのですからね。また、doragonsさんが「菅民主党政権が自民党や公明党へ大連立を呼びかけ、(震災前からの反動法案が)容易に通過してしまう危機感を持って、参加する事を決めた」という感覚は鋭いなあと思います。反戦派だけが一方的に「自粛」しているうちに、政権側だけがどさくさまぎれに大政翼賛会を作って、震災前からの反動法案や基地建設、三里塚での土地取り上げなどを推進されてはたまりません。

◆労働者・農民・市民の力による被災者救援運動を

 この過程の中で、三里塚反対同盟が「被災者の皆さんのために何ができるかを真剣に考え、被災地救援のために行動を起こしたいと思います」(3月16日)と訴え、「労働者・農民・市民の力による被災者救援運動」を呼びかける声明(3月18日)を出して、「被災地支援、すべての原発の即時停止と速やかな情報開示、住民を犠牲にして利益を追求する政治と闘おう」を大きな柱として3・27三里塚闘争を闘う方針を提起しました。これと同時に、動労千葉も東日本大震災救援対策本部を設置し、「全力で支援の力を集中しよう」という方針を出します(3月16日付『日刊動労千葉』)。

3・20渋谷デモ そして問題の(?)3・20渋谷デモは、両団体の決定を受ける形で、「被災地支援・反原発・反戦デモ」として開催され、集会にむけて全国から集められた救援物資が被災地からの参加者に託されました。報告記事などを読んだ感想では、この方針のおかげで、参加者も発言者もわりとのびのびと自分の怒りや問題意識を表現できたのではないのかなと感じました。何より驚いたのは、「震災後初、都内で1000人規模の反原発集会」という形で報道されたことで、まあ、このタイトルで紹介されただけでも意義があったなと思います(ただしその後、いつの間にか「渋谷でデモ…中国メディアが注目」などというネトウヨ釣りの釣り堀(笑)みたいなタイトルに変更され文章もちょっと変わっています)。

◆吉川千葉県議のいわき市救援活動に接して

 さらに、このブログでもすでにご報告させていただきましたので詳しくは繰り返しませんが、19日には「市東さんの農地取り上げに反対する会」のご好意で、吉川さんのいわき市救援活動にほんの少しでも参加させていただくということがありました(⇒報告記事1画像報告)。これはネットで見たとか文章を読んだとかではなく、自分の体で体験したことでもありますので、吉川さんの活動は自分にもかなり大きな印象を残しました。

 これらの経緯や体験を通じて、自分の中でモヤモヤとしていたものが、なんとなく形になってきたのではと感じています。被災者の知り合いの声を聞いても、やはり左派のとるべき方針として「最後まで残る、断固として普通に暮らす」だけでは不充分だし、その延長線上で3・27三里塚に参加するだけでは足りないのではないかと思い始めました。原発災害は日本や世界の総力戦で押さえ込まないといけないのは事実だし、被災者の救援に立場の左右なんて関係ないのもその通りであって、そこは変更するつもりはありません。ですが、今の日本の支配層は誰なのか、そのことを考えれば、安易な「挙国一致」に引きづられていては、左派「だけ」が口をつぐんで意見を変えることを強要され、どさくさまぎれに反動的な国民統合や治安立法、戦争政策が一気に推進されてしまうかもしれません。

 そのような状況では本当の意味で「右も左も関係ない」とは到底いえません。沖縄の新基地建設や祝島など原発の新規建設、まったく無駄な成田空港の第3誘導路建設などは最低限でも、一時中止(休戦)して、そのお金を被災地支援に振り向けるべきです。そこにみんなが協力してはじめて「右も左もない」といえるのです。こんな時にまで強行するなんて許されません。吉川さんもいわき市の救援活動をするにあたり、政府や警察の災害対策本部、柏警察署にも申し入れを行い、協力を要請・要求してそれを引き出し、民主党議員などからも意見を聞いて対話もされていました。

 震災直後の中核派の声明のような、よく言えば原則的で悪く言えば硬直した態度では事態に対応できないと思いますが、同時に、菅内閣に「おまかせ」で後から批判するだけではなく、結局は吉川さんのように民衆の側からどんどん攻勢的に提起して行動していくしかありません。ましてや「自粛」なんてとんでもない。そうでないと、また「拉致問題」みたいに、これを奇貨として政治的運動に利用(悪用)されてしまいます。左派は「自粛」や「挙国一致」に巻き取られてしまってはなりません。

◆再び言う。こういう時だからこそ、3・27三里塚へ結集しよう

 と、いろいろ長々と書いてまいりましたが、まだ私自身もスラスラ「こうだ」と整理して(抽象的・理論的に)書けるようなものがあるわけではないのです。おそらく今後、具体的な事例などに接し、かかわり、考えていく中でしか生きた考えは生まれないと思いますが、とりあえずは反対同盟の提起されている3・27三里塚闘争の課題(労働者・農民・市民の力による被災者救援運動・すべての原発の即時停止と速やかな情報開示・住民を犠牲にして利益を追求する政治の転換)を出発点にして考えていくことになると思いますし、そうするべきだと今は思っています。「断固普通に生活する(=震災前の主張と予定を貫く)」ということではなく、、今こそ3・27に積極的な意識をもって参加したいと思います。そしてその経験を糧にして、またもう一度考えていきたいと思っています。

 もう一度タイトルに戻って、「こういう時だからこそ、3・27三里塚へ結集しよう」と訴えるゆえんです。

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