by 味岡 修
世に常習犯という言葉があるが、森喜朗は政治的な問題発言を繰り返す常習犯の一人に違いない。彼は元首相で東京五輪・パラリンピック大会の組織委員会の会長である。彼は今、3日の日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議会で女性を蔑視した発言、「女性が多いと会議に時間がかかる」をしたとして批判されている。
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誰もが「謝罪の言葉」だけですまそうとする常套手段
この発言は大会の組織委員会を構成する女性の理事たちに対する日頃からの嫌悪感があってそれが会議の発言として出たのだと思う。森には女性蔑視というか、差別意識があって出たのだと思うが、こういう人物を大会の組織委員会の会長にすることがお粗末というか、問題なのだと思う。その意味では彼は会長なんてやめるべきだし、やめさせるべきである。だが謝罪の記者会見でごまかし、後はホトボリがさめるのを待つという常套的な処置をするのだろう。
誰も「森の発言は許されない発言」だと言って謝罪するが、それだけのことである。菅首相にしても、山下泰裕日本JOC会長にしても、謝罪の言葉を言うが、それだけで済まそうとする。これは彼等が女性のみならず日本の国民をなめているからだが、彼等も森発言の問題性を分かってはいないのである。これがわが身に及ぶべき問題の発言だと受け止めてはいないのである。
森の今回の発言の背景にはオリンピックやパラリンピックの開催を中止せよという世論に対するいら立ちがあったのだと思う。僕はこの発言を聞いて、去年、オリンピックの見直しについて最初に発言したのが山口香(元柔道選手で現在のJOCの理事)であることを思い出した。彼女への意趣返しというか牽制があったのかと想像した。というのはオリンピックの再度の見直し〈中止も含めて〉、提言が出て来るとすれば山口さん当たりの女性委員からだろうと思っていたからである。僕は期待を含めたそんなことを考えていたからだ。
この森発言を「またやらかした」という批判にとどめないで、深く持続的な批判をやらなければいけないと思うが、それにはこの発言の問題性をどう見るかが重要なのだと思う。馬鹿な政治家が常習犯的にやる発言には違いないのだが、これが何を意味するかを僕らは見なければいけない。そうでないとこの発言を深く記憶にとどめ、持続的に批判をやっていくことにはならないと思う。
五輪組織委の運営実態を示す「わきまえた人」発言
今回の発言が女性蔑視をあらわしたものとしての批判がある。これは当然のことだが、もう一つ、ここで見逃せないのは会議についての彼の考えである。女性が参加すれば会議の時間が長引くだけでなく、「わきまえた人」の発言でないとスムーズにことが運ばないという趣旨の発言であった。
これはオリンピックの運営や進行を決めて行くものとしての大会実行委員会が機能していないことを意味する。オリンピックの中止も含めた決定が、我々によく見えないだけでなく、森喜朗らの独善的な判断でことが進められているということであり、その姿をかいま見せているという事である。
オリンピックの中止を望む声がこれだけ高まっても大会の運営者(大会実行委員会)はそれをどう受けとめているのか、伝わってこなくて、森喜朗らが独断でことを決めようとしているとしか見えない。これは大会実行委員会がきちんと議論をし、そのことを踏まえて事を決めていこうとしていることがみえないということなのだ。
大会実行委員会はオリンピック開催の可否も含めた決断(判断をする機関)である。だがそのように機能してはいない。大会実行委員会はオリンピックを開催する公共的な機関であり、社会的・政治的機関であるが、そのようには機能していないということだ。それは女性が参加すると議論が活発化し、スムーズにことが運ばないという発言に見られるように、議論を前提として物事がすすめられるという基本的な考えが森にはないことを意味する。
近代政治とは「権威から議論へ」である
ここで横道にそれるかもしれないが、一つの考えを提示したい。それは近代とは政治を「慣習による支配」から「議論による統治」に変えたことであるという見解である。これは三谷太一郎が『日本の近代とは何であったか』(岩波新書)で提起していることであるが、日本の政治を考えるにはいい考えであると思えるところがあるのだ。
これは前近代から近代への変化を政治的変化に着目した議論である。彼はマルクスが商品と価値の分析による資本制生産様式(社会)の変化で近代を説明したことに対して政治的変化に注目した説明をみつけだしてきたのだが、これは近代を説明する以上に日本の政治を説明する考えと言ってよい。
ここでいう「慣習による支配」というのは伝統あるいは権威による支配というと分かりやすいかも知れない。「議論よる統治」というのは「議会という形態」の政治というと分かりやすいし、民主主義というと分かりやすいかも知れない。憲法による政治、憲政が近代政治であるというが、日本近代はヨーロッパ近代制度を移植したとき、政治的には憲法を創り、議会制度を取り入れた。政党政治も模倣した。ということは形態的には近代政治を創り出したという事になる。しかし、この日本の近代政治が形態的にも極めて異形であったことは論をまたない。
権威による政治を引きずり続ける日本の政治
それは国体(天皇統治)ということが大きな支配力を持っていたことがある。天皇の統治は「慣習よる支配、あるいは権威よる統治」であり、「議論による統治(民主主義)」は補完的なものとしかならなかったのである。「議論による統治」には国民の意志が登場すること、議論よる政治的なものの決定という二つが必要だが、天皇の統治はこの二つと対立するものであった。とりわけ敗戦までの日本政治は「天皇の統治」が強く、ここでいう「議論による統治」も不全な状態だった。日本の政党政治の戦前・戦後の歴史を見れば明瞭なことである。
戦後の日本政治は国体(天皇の統治)を後景にした。そうであれば、政治は「議論による統治」ということが進んだのであろうか。国民の政治意志が政慣習による支配、権威による統治から、「議論のよる統治」に変わったのだろうか。この前提には国民の意志(主権)登場が必要であるが、その闘争は敗戦期と1960年代に二度に渡って敗北に遭遇した。その意味では「公論による統治」ということは歪められたものとしてしか存在せず、「権威による統治」は大きな力を持って存続してきた。
日本の官僚組織はかつての天皇の官僚のような「権威による統治」をつづけているし、議会は「議論のよる統治」の形式はともかく、それを実現したとは言いがたい。民主主義は制度や形式はともかく、その実態としては成熟したとはいえないのだ。
草の根にまで浸透している「権威による統治」
日本の議会の体たらくはそれを示しているが、日本の社会においてもそれは成熟したと言えない。企業や社会団体はそれぞれに統治(政治)を必要とするが、その統治の様式は大きな政治基盤をなすものだ。かつて草の根までの天皇制が浸透しているといわれたが、これは草の根、つまりで社会での政治では、「慣習による支配(権威による支配)」ということが根強く残っていて「議論による統治(民主主義)」は浸透しないできたのではないか。社会的な団体などで議論によってその方向が決められて行く事態になっていないことがある。いろんな団体での会議がどうあるかを見ればことは明瞭である。
今回の森喜朗の発言だが、それは彼が「慣習による支配(権威による支配)」という政治観に骨まで支配されている政治家であるということを明瞭にしたことだ。その彼が「政治力を持っている」とよく言われるが、それは「権威による政治」が日本の政治の中で「力を持っている」ことの証明のようなものだ。
彼は会議やそこでの議論が嫌いなだけでなく、それが政治の重要な性格規定をなしていることがわからない。政治的決定は議論をどう経るかということが大事であり、民主主義は手続きというがそれは何処まで議論をへたかというという事なのである。僕らの野党に対する不満(期待)はどこまで議論を展開できるかという点にある。
森喜朗は会議など嫌いであり、自分の意見の承認のためにやらざるをえない手続きにしか思ってはいないのだろう。様々な意見を議論してすりあわせ、物事を決めていく、そういうことが統治ということの根幹をなすという考えと、「わきまえた面々」の会議というのは程遠いというか、対極の考えである。会議はあらかじめ決められていたことを形式的に承認する場でも機関でもない。そうであるのは「権威による支配」という政治(統治)が支配的な社会においてである。
「権威主義」に対抗して「議論」を組織しよう
僕らは安倍政権という議論らしい議論を存在させない政権に長く付き合わされて、うんざりしてきたが、森の発言にあらためてそれを見たと言える。これは日本の政治を支配している病理、その現状を見ていることになるのである。
日本の権力機関としては「議論など」は不在というか、とりわけ国民の議論から遮断されている官僚機関がある。国会は議論の場として機能してはいない。現在では議論できる場はどんどんとなくなっている。そして、それに比例するように「権威主義」が浸透している。
だが森発言に対する人々の反応をみれば、「議論よる政治」の基盤はあるように思う、議論を組織しよう。その場を絶えず作ろう。「慣習の支配(権威よる統治)」と、あらゆる場で闘うことは切実なことだ。議論を組織することはたやすいことではないが、それが「権威による政治」に対抗して行く道である。
味岡 修(三上 治)
※見出しは旗旗でつけました。
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