見えにくい国家の歩みを見続けなければならない

立憲主義

by 味岡 修

 今年の桜は咲くのも早かったが散るのもまた早いのか。先週の日曜日(3月25日)には座り込みの後に、日比谷公園で花見をした。桜は満開だったが、来週に花見を予定している人たちも多いのだろうという話もあった。まだ、誘われている花見もあるが、葉桜の下での花見もいいのだろう、と思う。桜は散っても街のあちらこちらでは小さな草木も花を咲かせている。散歩の道すがらプランタの草花に水をやっている人に声を掛けると笑顔の返しがある。

 そんなこころのなごむことがあるのだが、一方ではこんなことも気にはなる。国家の動きについてだ。昭和8年、ということは、1933年に日本が国際連盟を脱退したころのことについて歴史探索家の半藤一利は次のように語っている。

 「つまり、時代の風とはそういうものかもしれない。平々凡々に生きる民草の春は、桜が咲けばおのずから浮かれでる。国家の歩みがどっちに向かって歩みだそうと、同時代に生きる国民の日々というものは、ほとんど関係なしに和やかに穏やかにつづいていく。じつはそこに歴史というものの恐ろしさがあるのであるが、いつの時代であっても気がついたときは遅すぎる。こんなはずではなかった、とほとんど人々は後悔するのであるが、それはいつであっても結果が出てしまってからである。」

半藤一利『B面昭和史』 平凡社

 僕は桜が咲けばおのずから浮かれ出る民草のひとりである。そして、浮かれでるのはいいことだと思っている。それなりの理由があるのだと思っているが、同時に国家の歩みに関わる民草でもありたいと思ってきた。花見で浮かれるのと、国家の歩みに対抗していく、そして、結果が出て後悔するということはしたくないと思ってきた。花見に浮かれていないで、国家の動きに対応しろというのではなく、僕は両方をやりたいのだし、それが大事なことだと思ってきた。花見もし、国家の動向を認識し、それに抗う行動も同じこととしてやろうとしてきた。

 それでもここで半藤氏がいうように国家の歩みは民草の一人としての自分とは関係のないとことで進んでいくということを否応なしに認めざるをえないという思いに囚われる。そんなこともある。国家の歩みを認識し、抗い続けたいのだけれど、それが僕らの意思する通りには行かないし、国家は暴走も含めて僕らの手の届かないところで動いて行くことを見ながら、どう闘ったいいのかの自問を繰り返している。なかなか、自答は出てこない。

 そんな日々なのだが、先週の花見の頃に新宿で、何千人かの人が安倍政権に抗議する集会を持ったことはうれしかったし、僕も身はともかくこころはそちらにも参加していた。そんな気分だった。しかしながら、僕は時折、ここで半藤氏が懸念するように結果が出てから気がつくということにならないということは難しいのだと思っている。国家の動きを認識し、それを論評し、行動をしていくことは手放さないでやっていくほかないのだと思う。

 国家(権力)の動きを監視し、それに批判を加えるのはジャーナリズムの仕事であり、メディアの仕事だと言われてきた。だが、僕らはそんなことは期待できないし、期待はしない。自分でやる、自己でやる、それが大事なことだと思う。そのとき必要なのは見え難い国家の歩み、それに対抗していく構想の提示をぼくらは想像力を駆使してやることだ。想像力が働く、契機やヒントはどこにでもあるが、とりわけ歴史には豊富にある。考え、考え続けることで国家の歩みに抗して行きたい。

 この間、森友学園の国有地不正取引問題が取り沙汰されてきた。これは一つには安倍夫妻の犯罪であり。もう一つはそれを庇ってきた官僚の犯罪である。僕らはこれを見ながら日本の官僚を含めた権力の存在様式が露呈されるのを見ていた。暴走する国家(権力)の構造、そのあり様を見させられてきたと言える。これについては詳しく論じないが、僕が気になっているのは、こういう問題の動きをよそに進められよとしている憲法改正の動きである。

 憲法改正は自民党の長年の方針だったし、特に安倍晋三は最大に政治目標だったから、議会での発議の可能性(三分の二以上の賛成の確保)がある以上、そこに政治的な的を絞ってくることは分かる。憲法9条の改正が目的であることも。ただ、この改正において憲法9条の第二項、いわゆる戦力不保持、交戦権の否定を眼目にするものと考えられてきた。これは自民党や保守の憲法改正の眼目だった。これはよく知られていることだし、自民党の憲法改正草案もそうである。

 昨年5月に安倍首相が打ち出したのは従来の憲法9条の二項の改正ではなく、憲法9条の第一項、第二項はそのままにして「自衛隊の明記」を加えるということだった。この変更は何故出て来たのか。それを安倍は明瞭に説明してはいない。彼はこれを自衛隊についての違憲議論があるからこれを払拭するためであるという。安倍は現行の自衛隊が合憲である(憲法は自衛の軍は否定していない)という憲法解釈にあり、仮に彼の憲法改正論が国民投票で否定されてもこの憲法解釈は否定しない、という。そしたらなんのための憲法改正から不明瞭なのである。

 自衛隊違憲論は自衛隊の存在否定論と同じように憲法を超えたレベルである議論であり、そんなことは憲法改正と関係がないことだと言える。彼は「憲法に自衛隊を明記」する理由、その政治的理由を説明しない。自衛隊違憲論を払拭するために、憲法を改正するということを超えた目的というか理由があるはずだ。彼はこれを隠しているというか、説明はしていない。

 このことは「憲法9条」に「自衛隊の明記」という改憲論が分かりにくい事態を生んでいる、これは彼の政治的な戦略であり、戦術であるのだろうが、僕らは政治的想像力でここを突破しないといけない。「自衛隊の明記」は現に存在する自衛隊の憲法での容認ということを超えたことが意図されているのではないか。自衛隊は「自衛のための軍」として組織されたが、現在では他国家の侵略ということが、とりわけ主権国家間の侵略(戦争)ということが明瞭ではなく、イメージし難いように、自衛という事も、自衛の軍ということもイメージをしにくい。これは現代の戦争という戦争の歴史性によることである。

 ただ明瞭なことは、自衛の軍ということが、自衛の戦争のイメージの曖昧さによって、精神性を欠如させている。それはある。自衛隊は装備という点でいえば世界の第何位かの存在かもしれない。しかし、軍としての精神性(共同意識)は低い存在だと思う。これは僕の推察だが、あまり的を外していないと思う。そこが、自衛隊の存在の救いだと僕は考えるが、安倍は正反対であり、自衛隊を変えたいと思っている。かれは国家の軍として、国家意志の体現者として自衛隊として精神性を持たせたいのである。

 こういうことに着目していたのは三島由紀夫だった。安倍もまた、自衛隊に精神性をもたせたいのであり、その道として「自衛隊の憲法明記」を構想しているのだ。これは憲法9条(一項。二項)の非戦意識を無効にする狙いはあるが、それ以上に国家の軍に自衛隊を変えようとしているのだ。自衛の軍ということでは国家意志の軍にはなり切れないという限界を憲法に明記することで変えようとしている。

安倍の憲法観
自民党の改憲案

 安倍はいわゆる立憲(権力の乱用を制限するという考え)という考えはない。彼にとって憲法も、法律も権力を縛り、制限するものとしてはない。彼にとって憲法や法律は統治の手段であり、道具であり、その意味で憲法を利用しようとしている。(中国の法家の思想を踏襲しているのではないか)。立憲的な考えであれば、「自衛隊を明記」することで、自衛隊の存在を高めようとする発想は出てこない。権力としての自衛隊(軍)を縛る、制限するという考えは出てくるだろうが、それは自衛隊が国軍としてある場合であり、現在のような場合にはそれを憲法に記す必要はない。(安倍は立憲主義ではなく、統治の手段としての憲法という立場からこれを考えている。これもわかりにくい理由である)。

 それ以上に現代世界では国家の主権としての戦争が困難になっているという歴史的現実の認識が安倍にはない。彼にとって戦争は国家と不可欠な関係にあるという考えに立っており、「戦争ができる国家」というのは前提的なことだ。第二次世界戦争がもたらした国家にとっての戦争の変化ということを考えていない。これは、アメリカ占領軍が日本弱体化戦略で持ちこんだものという認識しかない。

 安倍にはまともな戦争観はみあたらないが、彼は国家(戦争)こそが、日本の近代社会を創り出してきたという考えに無意識も含めて帰っているように思う。彼は戦争を国家の根本に据えることで、現在の行き詰まっている社会を抜け出すという構想に足を踏み入れているのではないか。そこに足を踏み入れている。日本の重工業の動きが背後にあると言える。原発固執が潜在核武装の固執にあることもその一環である。戦後の否定と戦前の復帰はこのように構想されているのである。

 ここは僕らが見えにくい国家の動向であり、僕らの日常的な感覚ではとらえにくいとことだと思う。ここは政治的想像力を使ってみて行かなければならないところではないか。(三上治)

日本の軍需産業(死の商人)
   

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。