レーニン『帝国主義論』ノート/谷川 昇

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議会を支配する各業種の独占資本(アメリカの風刺画)
議会を支配する各種産業の独占資本(アメリカの風刺画)

< 目 次 >
解説っぽいもの(草加耕助)
『帝国主義論』ノート/著:谷川 昇
 一、はじめに
 二、『帝国主義論』が執筆された時代的な背景
 (イ)レーニン『帝国主義論』の位置
 (ロ)第一次大戦と「革命的祖国敗北主義」の立場
 三、金融資本の成立
 (イ)株式会社と銀行
 (ロ)鉄工業の発展と独占体の形成
 四、帝国主義間戦争が必然化していった歴史的な過程
 五、帝国主義国内での階級関係の変化
 六、『帝国主義論』と現代の世界
参考リンク

解説っぽいもの(草加耕助)

レーニン似顔絵

 さて、ここまで見てきたような、マルクスが生きた19世紀イギリスの資本主義分析だけでは、身近な資本の仕組みはわかっても、なかなか今の世界情勢全体が理解できないよね。それはレーニンの時代でも同じであって、当時の左翼でも「マルクスはもう古くなった」という人はいたんだよ。

 そんな時代に出てきたのが『帝国主義論』(正式名称:資本主義の最高の段階としての帝国主義(平易な概説))だった。工場などの産業資本家が支配するマルクスの時代と、株式会社という形態が登場し、銀行などの金融資本が支配するようになった現在までの資本主義の違いを分析したレーニンは、当時の世界情勢を見事に説明して見せた。

 これでかなり私たちが知っている現代世界に近づいたけど、それは第一次大戦当時の話。列強が派手に植民地の分捕り合戦をしている世界。本当に今の世界でストレートにそんなことがおきるんだろうか?それに帝国主義は植民地を争って争闘するどころか、今やアメリカを核とした世界的な軍事同盟を結び、共同で反帝勢力を押さえ込む布陣だ。その違いは何?なんでこうなった?そのあたりのことも本稿はちょこっと分析してくれている。

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『帝国主義論』ノート/著:谷川 昇

原題:レーニン『帝国主義論』と現代世界
初出:「闘う労働者」1985年3月1日号 (戦旗社)より

一、はじめに

レーニン「帝国主義論」初版の表紙

 われわれは日常的にも、日本帝国主義とかアメリカ帝国主義とかいう言葉をよく使う。つまり、われわれは帝国主義とは何なのかについて漠然とした観念をもっているはずなので、そこからはじめたいと思う。

 帝国主義について簡潔に説明したものとして、『現代用語の基礎知識』から引用してみよう。

「広い意味では征服による領土の拡張で、侵略主義をいう。この種の帝国主義はローマ帝国にも封建国家にもあった。しかし、今日の通用語では資本主義の高度の段階に達した場合の侵略主義をいい、金融資本が国内市場を独占するだけでは満足せず、国際市場を独占するため後進地域を侵略し、植民地を奪い合うため軍事的行動を伴う政策をいう」

 こうした帝国主義のイメージにあうものとして、われわれが直ちに思いつくのは、第一次・第二次の世界大戦での列強の政策であり、日本もまた中国をはじめとするアジア各国への侵略・植民地化政策をとっていったことなどである。

 ここでわれわれはこうした帝国主義をさらに明確にするものとして、レーニン『帝国主義論』に学び、帝国主義の経済学的規定を基礎として帝国主義戦争の必然性などの諸点(政策・イデオロギー・階級関係)について対象化していきたい。
 そして最後に、レーニンが分析の対象とした当時の帝国主義と、現代の帝国主義ではどこがちがうのか、言いかえれば現代の帝国主義は、どのような要因に規定されて、どのように形態変化をとげたのか、について部分的ながら見ていきたいと思う。

二、『帝国主義論』が執筆された時代的な背景

(イ)レーニン『帝国主義論』の位置

1873年の世界大恐慌 ウィーン証券取引所
1873年の世界大恐慌(ウィーン証券取引所)

 一八七三年全世界をおそった大恐慌と、それに続く二〇年にも及ぶ大不況をつうじて、資本主義は新たな政治的・経済的発展傾向を示すようになる。
 それ以前の資本主義は、イギリスにおいて典型的に見られたように、いわゆる自由競争が貫徹され、全人口が三大階級(資本家・労働者・地主)へと分化する傾向を見せ、また国家権力も「夜警国家」として経済過程に介入しない、いわゆる自由主義の時代であった。これがマルクスの生きた時代である。ところが十九世紀末になると新たな傾向がそれにとってかわられることとなった。

例をあげれば、

  1. 独占体の成立により、自由競争が阻害されるようになったこと。
  2. 国家権力が財政政策を展開するなど、経済過程に介入するようになったこと。
  3. 農業に資本家的経営が普及していくのではなく、農民経営が残存していった。つまり農民層は、農業資本家とプロレタリアートヘ必ずしも一方的に分化せず、滞留していったこと。
  4. サラリーマン・官吏・軍人といった所謂新中間層が増加する傾向があらわれてきたこと。

等である。

 こうした現実は、たしかに一時期のイギリスのように資本主義が純粋な発展をとげるというマルクスが『資本論』を書き上げた歴史的背景とは全く様相を異ならせるものであった。こうしたなかでマルクス主義の理論家、とりわけドイツの社会民主主義者のなかで激しい論争がおこなわれた。

 まずベルンシュタインに代表される修正主義者たちは、いわぱ「マルクス葬送派」へと走り、漸進的な改良闘争を唱える立場へと堕していった。他方カウツキーに代表される「正統派」は、マルクス主義の正当性を主張しつつも、前述の新たな傾向を対象化するようなマルクス主義理論の発展をなしえたとはいえなかった。あくまでも『資本論』をそのまま現実にあてはめようとしたのである。

 こうした論争のいわば最後の位置にたち、帝国主義をその段階の特殊性において総体的にとらえたのが、レーニンの『帝国主義論』であった。

(ロ)第一次大戦と「革命的祖国敗北主義」の立場

第一次世界大戦
第一次世界大戦

 レーニンが『帝国主義論』を執筆したのは、一九一六年の春のことであった。この時期は、一四年から始まった第一次世界大戦のさなかであり、この戦争をどのようなものとして対象化し、それに対してどのような立場をとるのかが社会民主主義者に鋭く問われていた。

 しかし当時の社会主義運動の主流であった第ニインターナショナルは総じて翼賛化し、帝国主義の戦争を事実上支える左足となっていったのである。例えばドイツ社民は、ドイツ帝国主義の戦時国債の発行に議会で賛成投票をしていったのである。
 こうした状況のなかにあってレーニンは、いかなることを課題として、いかなる立場をとっていったのか。このことを結論を先取りして述べてみよう。

 レーニンが『帝国主義論』において課題としたのは「戦争の真の社会的な性格、より正確にいえば真の階級的な性格がどんなものであるか」(序文)を分析し、暴露することであった。そして「1914―1918年の戦争は両方の側からして帝国主義的な(すなわち侵略的な、略奪的な、強盗的な)戦争であり、世界の分け取りのための、植民地と金融資本の『勢力範囲』の分割と再分割、等々のための戦争であった」と結論し、総括したのである。

 こうした分析にたち、レーニンは「帝国主義戦争を内乱へ」転化するという革命的祖国敗北主義の立場をかかげていった。すなわち各国のブルジョアジー共が自らの利権のためにプロレタリアートを動員し戦争を起こすのに対して、プロレタリアートが国際的に連帯し、ブルジョアジーを打倒することを提起していったのである。
 この祖国敗北主義の立場こそ、それぬきには二月革命後も戦争をつづける臨時政府の打倒を提起した「四月テーゼ」もなかったであろう、ボリシェヴィキの戦略的核心をなしたのであった。

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