ブッダ「四門出遊」伝説と沖縄のことなど 仏教講座に参加してみた

中村光さん「聖☆おにいさん」ブッダ
聖☆おにいさん」より

 草加です。ちょっと思うところあり、真宗東本願寺主催の仏教学講座を受講しています。ただいまのところ、当時のインドの社会情勢、ゴーダマ青年(のちのブッダ)がなぜ出家しようとしたのか(仏教の出発点・問題意識)まで。
 講師の先生は仏教学の大学教授で、講義レベルは市民向けの教養講座いったところですが、いろいろ刺激を受けています。その感想を書きたいと思います。
 なお、わかってると思うけど「感想」ですからね。「解説」ではないのでお間違えなく(汗)。

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四門出遊にみる「初期ブッダ」の問題意識と私

 ゴーダマ青年(王子)の出家のエピソードには、有名な「四門出遊」の伝説があります。これはブッダの思想をわかりやすく説明するための原始仏教成立時における創作ではありますが、仏教の出発点(=青年ゴーダマの問題意識)が「老・病・死」であったということです。
 ブッタ以降、日本などに仏教が広まる過程では、だいたいが多くの経典の中からその一つを選んで宗派を立てていくわけですが、この青年ゴータマの問題意識がもともとの原始仏教の出発点であり、講座もそこに戻るところからはじめてみようというようなお話でした。まあ初期マルクスみたいな(笑)。

聖☆おにいさん ブッダ

 「四門出遊」の伝説は短いものから長いものまで複数あるそうなのですが、そのうちの一つでは、ゴーダマ王子は老病死で苦しむ人をみて、憂いを得ながら、実はすぐに王子として宮廷での享楽の毎日にそれを忘れてしまう。なかなか出家しない(笑)。というか、若く健康で金にもこまっていない人間なら、他者の不幸にはちょっと眉をひそめつつも、自分がそうでないことに安堵し、とりあえず関係がないと忘れていくほうが普通であろうと。深く悩んですぐに出家してしまうストーリーより、こちらの伝説のほうがリアリティがありますね。

 というのも私は思わず沖縄への本土の犠牲の押し付けの問題、あるいは中東やパレスチナにおけるイスラエル問題を思い出してしまったんですね。本土・日本の人たちの問題への反応も、よくてこんなもんだなと。朝にニュースを見てちょっと眉をひそめても、その日の昼にはもう忘れて飯食っているわけですから。それでも死がかならずいつか訪れるように、9条改憲も現実味をましているわけですが、とりあえずは関係ないと日常にもどっていく。

 ですが伝説(説話)の青年ゴーダマは、四門の最後で出家した沙門を見て「こいつは本物だ!(此れは此れ真なり)」と心で叫んで出家の道に傾いていくことになっています。

 「四門出遊」は伝説ですが、この創作の元ネタと思われるブッダ自身の言葉が残っています(柔軟経)。弟子たちに若き王子であった頃の生活を回想し、自分がいかに不自由のない生活を送っていたか、なのにその恵まれた境遇の中で老病死で苦しむ他者を見ると、嫌悪感・困惑・恥のような気持ちが生まれたと。そしてブッダもうまく言えなかったのかなと思うのですが、そういう思考は「私にはふさわしくない」と感じた。その瞬間に、自身の若さと健康と生の驕逸(きょういつ)が消えたのだと語っています。

 これを私ら程度の俗物レベルに引きつけて考えると、上に書いたような「自分はああじゃなくてよかった」的な、ちょっぴりの罪悪感を含んだ上から目線がなくったということでしょうか。

 思うに沖縄への犠牲やそれに対する抗議を見る時でも、嫌悪感・無関心はもとより、「安保も軍隊も必要だよねー」とか深く考えずに軽く信じていた自分たちの「常識」からくる困惑、あるいは本土の自己の恥や贖罪といった気持ちだけでも不十分なんだろうなと思いました。講座ではまだですが、それはブッダの「中道」概念にもつながってくるのではと想像しています。

既存の「選択肢」をすべて捨てて自由になるということ

 さらに「出家」というと、私たちは「家や身分や財産を捨てる」というストイックな苦行のイメージを持ちますが、本来の意味として、単に家をでて乞食(こつじき)・放浪の身になるというだけではなく、「家や社会的身分から自由になって前にすすむ」というポジティブなニュアンスがそこにあるそうです。現状や伝統にとどまらない、信じて前進するということ、つまり革新です。

 この場合のポイントは、進んだ先に何かの答えがあるという保証がないということです。つまり与えられた道や、あらかじめ存在している意義や正義を「選ぶ」のではない。あるかないかすらもわからないけれども、自由になって自分を信じて進むという道をゴータマは選んだということです。それは他者から自分に与えられた選択肢のすべてを選ばずに捨てるということでもある。

 ここで「月刊コモンズ」のとある学生の寄稿で「選択の自由に甘えるな」という言葉を思い出しました。この寄稿で興味深かったのは、今の世の中には選択の自由が溢れている。そして選択の自由しか与えられない。組合とか反体制運動とか、要するに今よりよいものを作っていこうという気概は容認されない(中二病とか言われる?)。それが当然な社会で育った自分たちの世代には、もはやそういった現状の自覚さえなくなっているという指摘でした。

 よくネトウヨさんらが言う「嫌なら出ていけばいい」という言辞は、私には「は?何言ってんの?」とまったく理解できないものでしたが、なるほどこれはそこからくるのかと。つまり「俺たちは他者から与えられるものを、ただ口をあけて待っていればいいのだ」という主張です。けど青年ゴーダマはそうではなかったということです。

 出家者(沙門)は当時のインドの新ムーブメントであり、ちょっと哲学者の百家争鳴みたいなところがあり、それまでの世襲的バラモンらによる部族宗教からは完全にはみ出した存在でした。
 また、働かない大量の沙門の登場は、インド社会の生産力増大や階級的流動化を示しており、その社会構造の変化によって力をつけた新興勢力が、バラモン僧よりも沙門たちを尊敬して援助していきます。まあなんか哲学者や宗教家というより、ヒッピーみたいな存在だったのだなという感想を持ちました。

 人は生きている限り苦しみ、そしていつか死ぬ。「死を迎えつつある者に希望はあるのか」とはキリスト者の清水哲郎の問だそうですが、人はどんな境遇でも何かを信じ、人生に希望や意味があると思わないと生きていけない。仏教で言うところの「精進」とは、元々はそれを信じる勇気の意味だとこの講座では言います。あるかないかわからないけど、老病死苦さえ克服する道が必ずある。一種の賭けだけど信じる。あきらめない。そのためには国も家族も捨てて悔いがない。そこには厭世的な世捨て人のイメージはないし、選択の自由などという生ぬるいものではないわけです。

せめて伝説の中のチョイ役程度には「本物」でいたいものです

聖☆おにいさん ブッダ

 まあ、家族はたまったもんではないかもしれない(笑)。まさに失敗したらただの(たちの悪い部類の)ヒッピー。ゴーダマは覚醒者(ブッダ)となって家族の元にも帰るわけだけが、このゴーダマが覚醒者となって老病死苦をも克服したことをいかに捉え、解釈したらいいのか、そのことを考えるのが仏教学だということでした。

 まあ、かなり出家者というもののイメージが、ストイックな世捨て人から、ポジティブなものに変化しつつ、社会運動における活動家とくらべてしまいました。いやほんと、ゴータマのとった選択って、どうしても活動家の生き方に重なってしまうよね。家族にとっては迷惑だという点も含めて(笑)。

 逆に本当に社会や家などあらゆるものから「自由」な精神でいるのか、それとも単に組織とかに与えられたものを「選択」しているだけではないのか、それでは活動家とは言えない(少なくとも左翼ではない)と思うので、そういう視点で常に立ち止まって考えてみることは意味があるとあらためて思いました。

 ガンジーは欧米ではゲバラと並ぶ左翼・左派のイコン(聖人)としてあつかわれる場合もあるそうで、それがどれほど一般的な認識なのかは知らないけど、ガンジーが左翼の代表というのは、日本人としては違和感があったりしますよね。けどなんか今回の講座を聞いて、それもなんとなく納得できてしまった。

 まあブッダ(目覚めた人)やガンジーとまではいかないまでも、せめて「選択する自由」に甘えない「現代のゴーダマ青年」と出会った時には、四門出遊で登場するチョイ役(?)の沙門みたいに「本物だ!」と言ってもらえるような自分になりたいです。そのことを心に留めつつ考えて進んでいきたいと思います。

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