「小説三里塚」第三章 闘争(後半)

戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる

第28話 誘惑

成田空港の開港を待ちわびる土建会社社長 ある日のこと、武治の家へ見知らぬ一人の男が訪ねてきた。彼は手土産まで持参した。差し出した名刺を見ると、立川市の清水始という五〇がらみの男だった。彼は三里塚の町で「立つ野屋」という飲食店を営む店主に紹介されてきたというのである。武治は名刺の表と裏を交互にひっくり返して見ながら、この男から以前に一度手紙を貰ったことがあるということを思い出した。

 男は縁先に腰かけると鞄の中からいろんな書類をひっぱり出して、武治の前一面に並べたてた。彼は憶面もなく書類を順を追って、武治の鼻先に突きつけた。まるでこれ見よがしという風情である。
 武治はやりかけた畑仕事もあるので気がかりでならなかったが、てんから断ることもできず、彼のなすに任せていた。

「木川さん、この種のいくさは徹底してやらなければ駄目ですぞ。これはみんな私が今まで手がけてきた業績です」
 今まで依頼され、手がけた土地問題の勝訴した書類だというのである。
 彼は武治があまり気乗りしないのを察してか、顔を武治に近づけ、声を強めた。
「木川さん、何といっても今まで三〇年来の私の経験では……、いくさというものには山場があるということですよ。これを失なうと二度と帰ってきませんぞ」
 彼は武治の顔を覗き込み、武治がどんな反応を示すかを、じーっと見守る表情だった。ところが武治は一向にそれに乗ってくる様子も見えなかったので、彼は手持ぶたさにポケットから煙草を取出して、火を点けた。

「わしは補償目当てに反対しているのでない……」
「それは勿論わかりますが、農民としてまず政府から補償金を充分とる権限があるんですぞ。木川さん」
「……」
「相手は国であり、政府であり、公団です。ちゃんと予算があるのです」と、いって武治の顔をみつめ、返事を待つ様子だったが、武治はそれに一言も答えようとしなかった。彼は煙草を一服喫って煙を吐くと、また続けた。
「これはここだけの話ですが、話によっては幹部クラスは一人一億(*)ぐらいにはなる見込みです。これにははっきりした根拠があるんです」

*当時(1960年代)の大卒初任給が2万円程度なので、現在(2010年代)の感覚では「一人10億円以上にはなる見込みです」といったところか。(草加注)

 一瞬、むっとしたか、武治の表情が緊張した。
「わしは補償金で動く人間ではないんです」
 武治はぽつりといったきり、黙った。
「それでも今より以上の代替地と補償がとれたら、どうですか」
「いや、そんな簡単なものじゃない。そりゃあんたが開拓農民の気持が解らねえから、そういうことがいえるのですよ」
「ええ、それは木川さん、お気持はよく存じ上げておりますが、それに見合うだけの補償を充分とれる方法があると、私は申し上げるのです。これについては戸田委員長さんにも御手紙で詳しく書いて差し上げています」

「金が目の前に山と積まれても、反対同盟の農民は動きませんぞ。これは戸田委員長はわし等よりも、よく知っているはずです」
「だから農民エゴという言葉も出ることで……政府は公共優先を名目に、必ず強権を発動してくるに違いありません。その直前がいくさの勝ち負けの山場なのです。私も木川さんはじめ農民のみなさんに犠牲を払わしたくない一心から、今日お伺いしたのです」
「わしは目のつけ所があんたとは違うんです。補償に目をつけるのじゃなく、百姓を虫けら同然に一方的に踏みにじろうとする自民党政府に対する怒りがあるんです」

 武治の清水を睨む眼光は、刃のように鋭くキラと光った。一瞬、清水はたじろいた。
「……」
「二六年粒々辛苦の農地は死んでも明け渡せませんぞ。清水さん」
「木川さんの巌のような硬いお気持はよくわかる……のですが、それがいわゆる損というものですよ」
「いや損得ではねえ」

 清水は返す言葉もなく、縁先一面に並べ立てた書類を鞄の中に詰め込んだ。そして、再来を約して帰っていった。公団の回し者かあるいは農民を食い物にしようとしている業者なのか、武治にとってこの男の正体が掴めず、不可解でたまらなかった。その後も引き続き何回となく、武治と戸田のところに手紙を寄せて、「最高条件をかちとる方法がある」といってきた。

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