戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
第38話 十ぜえむのおっかあ
山茶花(さざんか)の花咲く生垣の間から顔を覗かせて、十ぜえむのおっかさんが呼んでいた。十ぜえむの家は道路を見下ろした小高い位置にあった。十ぜえむは菱田部落でも、一番の早寝早起で有名だった。祖父の代から丹精家で、辺田部落きっての強固な反対派の農家である。
学生たちはいつも援農に行ったりして、十ぜえむの家とは親しくしていた。それに十ぜえむ一家では、人一倍学生たちの面倒を見ていた関係で、学生たちも自分の家のように、自由に出入りできて我儘もいっていた。
「おめえらこんなに早く……寒いのに……少しあたっていきな」
「ありがとう、おばさん。僕らまだこれから一巡り……」
「ほっじぁおめえらちょっと、こっちへ上ってきな」
十ぜえむのおっかさんがたっていうので、学生たちはぞろぞろと入口の坂を上っていった。
釜屋ではかまどの火が、赤々と燃えさかって、十ぜえむのおっかさんが中腰でしきりに薪をくべていた。それを見た東北大の谷川は、無性に郷愁の念にかられるのだった。彼の生まれは秋田の片田舎で、雪に埋もれた彼の郷里では、今頃、十ぜえむのおっかあと同じように老いた母が、火を燃やし続けているであろうと、ふと想ったからである。彼はかまどの火に郷里の母を憶い、もう一度かまどを見ると、火はパチパチはぜて燃えていた。
「ほら、おめえら寒がっぺ、温っていけ、今日はよ、おら家では祝事があってよ、おこわ(赤飯)炊いただよ」
鼻を衝いて赤飯のむれる香ばしい匂いが、蒸籠(せいろ)から立ち上る湯気とともに伝わってくる。白い湯気は立ち上って、釜場の梁まで届く。梁は煤けて漆黒だ。
この家の家系は寺の過去帳を調べてもわからないほどの、古い年代である。その星霜を経た代々の主婦たちの、朝な夕なに燃やし続けてきた煤煙が、年輪となって塗り込められたものが、この漆黒であろう。
梁から棟、壁一帯は、燻った黒一色で塗り潰され、古色蒼然としたモノクロームだ。しかし、よく見れば微妙な明暗をもってトーンを奏でている。煤け燻った壁に貼られたいくつかのかまどの守り札も、年代を経て真黒だ。すべては辺田部落の縁(えにし)を物語る一つ一つである。朝なタな立ち上る煤煙は、悲喜交々煙となり煤となって、執念のようにこびり着いたものではなかろうか。
しかし、古い家系を持つ十ぜえむの家も、今ほど大きな変動の中に、投げ込まれたときはなかったであろう。空港問題によって部落は二分され、混乱の坩堝と化した。反対・賛成の中では兄弟親戚でも深い溝ができ、口も利かなくなった家もある。
辺田の篠崎竜一の家の父親が死んだときは、篠崎が条件派だというので、部落の者が挙って寄りつかない。そのために葬式も出せず、芝山町から成田市まで運んで火葬にふしたということもあった。
この辺田部落を大学生たちが、朝早くバトロールして歩くなんてことも、前代未聞であろう。
学生たちはかまどの周りに集まって、かじかんだ手を差し延べていた。十ぜえむのおっかあは見る間にお櫃に杓子で、ギューギューと赤飯を積め込んだ。それと一緒に沢庵づけを五、六本も新聞紙に包んで手渡した。
「ほら、おめえら小屋へ持ってって、みんなで食いなよ」
学生たちはさっきから蒸籠でむれる赤飯の香りにむせ返り、腹の虫が泣き続けていたところだった。起きむくれのバトロールはことのほか、腹が空く。
「あばさん、どうもありがとう」
「早起き三文の得というが、これは三文どころじゃないよ。アハ……」
彼等は風呂敷包のお櫃を旗竿に刺して、それを二人で持ちながら、坂を下っていった。
十ぜえむのおっかあはまだ四〇をいくつも越していない歳で気性も明るく気さくだった。小屋に住む学生たちの繕い物まで、面倒を見てやることもあった。そんなおっかあも機動隊に面とぶつかると、まるで見違えるように変わって、機動隊の横暴さを、激しくなじった。機動隊も十ぜえむのおっかあには、手も足も出なかった。
ある目、部落に私服がやってきて通り合わせた学生が、彼等を追い立てた。その時、石を投げたとかで一人の学生に手錠をかけようとした。それを見たおっかあは一散に走って、その学生を私服の手から奪い返した。日頃、柔和な彼女のどこにそんな気迫があったのかと、みな不思議がった。そんなわけで学生たちもまた、十ぜえむのおっかあには、一目おいていた。
十ぜえむの家には芝山中学校三年生になる娘がいた。娘は石井百合子といって、辺田部落少年行動隊の指揮者だった。百合子は県立佐倉高校への進学を志望していた。受持の教師は百合子に対して、進学の障りになるから少年行動隊を止めるように忠告した。百合子はがんとして、いうことを聞かなかった。
団結小屋の木嶋幸一が週に三度、夜に、百合子の学習の世話をしていた。彼は東京生まれで新宿高校から東大教養学部に入った。一〇月八日の第一次羽田闘争に参加し、逮捕歴もあった。木嶋が現地に来たのは、新宿闘争直後だった。今は辺田部落の小屋にいた。彼は英語と数学をよくし、百合子の面倒を見ることになった。
彼の住む小屋は十ぜえむの家からさほど遠くない部落のはずれにある一軒家だった。小屋といっても二戸建で床の間のある家屋で、孫兵衛の隠居家だった。その隠居は数年前に死んで連れ合いの婆さんは本家に帰り、ちょうど、空家になっていた。孫兵衛も反対同盟員だった関係で、学生たちに貸し与えたものである。だから急造の他の団結小屋などとは異なって、造作もよく、隙間風も入らず居心地も良かった。他の団結小屋の者からは、いつも恨まれていたほどだった。
彼等のグループはML派の五人の学生で、自炊し援農しながら生活していた。すでに大学から離れた彼等の生活費はどこからくるのかと、村人たちも不思議に思っていた。
ときには東京からリュックを背負った若者たちが、夜おそくぞろぞろとやってくることもあった。そうすると急に団結小屋ばかりでなく、部落までも賑やかになった。それが夏ならいいが、冬だと一番困るものがあった。それは寝具だった。特にこの地方の冬は、厳寒である。そんなとき、いつも蒲団を貸してくれるのも、また十ぜえむの家だった。そればかりか気を利かして、煮付物や漬物まで届けてくれるのも、また十ぜえむのおっかあである。
菱田の辺田部落は木川武治の出生地でもあり、反対同盟の先鋭部隊のいるところだった。田んぼを前にし後に森林を背負って、部厚な茅葺の屋根のある農家が並んでいて、古い農村特有の雰囲気をかもし出していた。
ある古老の語では、源氏の落武者が山間僻地に隠れ家を求めて、その昔、ここに住み着いたものだともいう。水田を挾んで農家の点在するこの地域一帯を見れば、落武者といわず、山間の水系と地形を選んで、人が住み着いたものかも知れない。
その家系も年代も明らかでないという十ぜえむの家も、多分、そうした謂れを家系に持つ辺田部落の農家の一つであろう。
元は60年安保闘争の第一次ブントの流れをくむ党派の一つだった。その多くは70年安保の際に再建された第二次ブントに合流するが、一部がこれに参加せず、「ML同盟」として組織を存続させた。Mはマルクス、Lはレーニンをあらわし、マルクス・レーニン主義を標榜したが、実際は毛沢東路線で、ソ連と並べて中国を批判していた新左翼の中では「毛沢東・林彪派」とあだ名された。中国の文化大革命の最中にはその影響で大衆的な人気が出て、一時はかなりの大勢力を誇るが、突然にあっさり崩壊して消滅し、現存していない。
私の歳ではもちろん本物をリアルで見た事はないが、援農の時に聞く農民の思い出話でもいつも肯定的に語られていて、農民からの好感度は高かったように思う。それらの話から、温厚・真面目・土着的・ダサイというイメージを持った。まあ、毛沢東主義だしね…。なお、民主党参院議員だった故今井澄医師が、学生時代にML派の幹部だったことは非常に有名。
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