2007年7月22日、京都でおこなわれた「戦争とピンハネに抗議する『ただのデモ』」に行ってきました。
京都の反戦生活と、その周辺の人々による単独デモでしたが、参加者は工夫をこらした「異形の集団」が多く、集会中も「いったい何の集まりですか?」と興味をもって話しかけてくる人が多かったです。
デモは50人弱くらいで音楽をかけながら出発しましたが、途中で沿道から10人くらい飛び入りで合流してくる人がいたりして、大声で叫びながら不思議な踊りを踊るなど、かなりの異空間を現出させていました。
呼びかけ文「反戦と生活」
【反戦】
ほんの少し、思い出すだけでいい
イラクに自衛隊が派兵されたのは「大量破壊兵器がある」と小泉首相が決断したからであった。いまではいいだしっぺのアメリカですら否認されたこの嘘を、いまにいたるまで日本政府は撤回していない。いまでは明白な事実すら認めない政府に、これ以上期待できることは何もない。
過去に向き合う態度と、現在へ向き合う態度が、はっきり同じなのを私たちは目の当たりにしている。戦争犠牲者への冒涜は、いまを生きる私たちへの攻撃でもある。過去の悪を認めないものは、いま悪を行おうとするものだ。
もはや、イラクの大統領ですら、自衛隊による支援よりも開発を中心とした支援を要求している。ところが、政府は派兵を延長する改正イラク特措法を数の力で通しきった。
軍隊を運営するのはいつも税金だ。そして沖縄の土地を戦争のために提供することで米軍の活動を手助けし、「思いやり」予算として毎年献上している二千億円以上のカネも税金だ。基地には野球場、映画館、フィットネスクラブがある・・・なぜそれは私たちのものではないのだ?国が福祉予算を減らすとき、働くものの首を切るときの決まり文句がある。「予算がない」。もううんざりだ。
たとえ力が弱くとも、どれほど声が小さくとも、声をあげることこそが重要だ。私たちの生活はいまや<戦場>へと引きずり込まれているのだから。被害者として、加害者として。
【生活】
先月、ひとりの老人が住民税が高すぎるといって、市役所で刃物を職員に突きつけたという。なるほど彼は法を犯した。しかし、それに先んじて、今の体制により、合法性の名の下に人間の生存がおかされたのではないか。たとえ、すべての法が彼を非難しても、私たちが彼を批判するのは一番最後だ。口を開くなら、まずまっさきに批判しなければならない体制がのさばる限り。
足の引っ張り合い、ねたみ、抜け駆け、チクリ、へつらい、いびり、八つ当たり…貧しさが新たな貧しさを生みだしている。私たちは経済成長を続けることで、ここまでみじめになってしまった。
この社会に生きてどうしようもない孤独を感じているとするとそれは正しい。今の社会は孤独を「自立」といい、そこであがく人間を「競争」しているといい、そこであがるうめき声から搾り取ったものを「利潤」として賛美する社会だからである。
ここまで社会を変えてきたのは誰か。戦後異常なまでの長期間にわたって国家権力を握っていた政府は誰の政府なのか?
私たちに変えられることはまだまだ多くあるはずだ。なぜならこうした社会を支えてきたのは私たち自身だからだ。
私たちに必要なことは、ほんのすこし思い出すことと、想像してみること、そしてわずかでも声をあげることだ。
ゴミはゴミ箱へ!
<なかまたち>は街頭へ!
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