閑散たる霞が関にて コロナウイルスと歴史の教訓

霞ヶ関の風景(wikipediaより)
霞ヶ関の風景(出典:wikipedia

by 味岡 修

ウイルスが出現させる光景

 春めいた季節は僕らのこころをうきうきさせてくれる。自然に笑みがこぼれるという、そんな気分に誘われる。いつもならね、とつけくわえるべきか。そういえば、ここから目に入る街路樹はまだ寒々としたままだ。見るものの気分の結果かかもしれないと思うが、外務省前の早咲き桜もいつものような華やかさがない。

 これらは新型コロナウイルスに侵された結果であろうか。新型コロナウイルスは新たに出現したウイルスという病原体であり、それに感染すれば肺炎という病気、つまりは身体を病ませる。と同時に僕らの心を悩ませる。不安や心的恐怖である。そして様々の光景を出現させる。

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冷静に歴史の教訓に思いをはせよう

新型コロナウイルス「SARS-CoV-2」の顕微鏡写真
新型コロナウイルスの顕微鏡写真

 新型コロナウイルスはこれまで出現した人に感染する新型ウイルスとしては七番目のものといわれる。これまで発見された内で1~4までものは風邪の症状を示すウイルスだが、その後に発見されたSARSとMERSは病原性の高いウイルスであり、新型コロナウイルスは病原性でいえばその中間であろうと言われている。しかし、それに感染し、肺炎になれば死にいたる症状をもたらすかもしれない。そして、現在ではその正体と有効な対応策(薬も含めて)の解明が出来ていない以上、人々に不安感や恐怖感を抱かせることは自然である。

 問題はそれに対応するときの行動であり、対応である。僕らは人類が新たな病原の出現に直面したときの歴史経験を持っている。例えばペストなどである。また、感染ウイルスの出現だけでなく、震災などの自然災害などに見舞われたときのこともある。関東大震災などである。ある意味では戦争にいたる事件(9・11)もその一つだ。

情報開示と自由があってこそ

残念なことだが政治の発する情報を常に疑って行動するしかない

 僕らが新たな感染ウイルスの出現に不安や恐怖を抱くことは自然なことである。それにはその正体を知り、それから導き出された行動を体得することがそれに対する有効な対応である。それには科学的な病原ウイルスの発見と対応策(予防も含めた医療対策)が重要である。我々が自然に持つ不安や恐怖から感情的に行動することではなく、科学的な知見に基づいて冷静に対応することといえようか。

 この場合に何よりも大事な事は情報ということである。なぜなら、情報によって僕らは感染ウイルスの存在を知るのだからである。その意味では情報が何か歪められるとか、恣意的な思惑で隠ぺいされてはならない。科学的な知見が情報として伝えられるためには情報の自由ということが重要であるのはそのためである。科学と自由は不可分な関係にある

 その意味で僕らはこの感染ウイルスを伝える情報のキーにある権力やメデイアに注目するのは当然である。残念ながら、僕らは政治やメデイアの発する情報を疑い、それを鵜呑みにするのではなく、自分で考えるべく務めるしかない

社会の文明度が試されている

 僕らは社会的な存在である。だから、病原ウイルスの出現は僕らの社会のなかの行動や関係に反映してくる。なぜなら、病原ウイルスは社会関係を通して感染を広げるのだからである。

 病原ウイルスを隔離するというのは古典的ともいえる基本対策なのだろうが、病原の正体がわからず、そこから生じる不安や恐怖によって人々を隔離するのと科学的知見によってその措置をとるには大きな違いがある。それは文明度ということになるだろうし、文明度というのはその程度のことである。だが、さしあたってはそのことが重要なのである。

 僕等は政府がこういう対応において成功裡にことを進めてきたと言えない。水際作戦という初期対応、感染者に対する医療対応(理療体制の対応も含めて)が十分であったとはいえない。習金平の訪日を抱えて中国への配慮や、オリンピックへの波及を恐れたことなどの要因があり、対応を遅らせて来たのではという推測は当たっているだろう。

人は自由と情報があれば合理的に考えられる

 コロナウイルスの感染拡大を防ぐにはどうしたらいいのだろうか。個人的には手を洗うなどの衛生措置をとること、万一かかったときのための自己免疫力を高める努力を日常生活においてやるしかない。感染は人の接触から生じるから、接触しないようにというのが、今、取られている様々のイベントの禁止や自粛措置である。学校の一斉休校もその一つである。

非正規労働者への差別が「コロナ対策」で露骨になってしまった(東京新聞

 だが社会的な接触を大規模に断つということが果たして有効なのかどうかはわからない。一方で消費構造の大きくなった現在の社会では基礎的な生産領域を除いても、その社会経済的な影響ははかりしれない。これはコロナウイルスの感染による病状よりも深刻な社会的病状をもたらす。失業や生活破綻という社会的な死をもたらしかねないのである。

 ゆえにこうした措置が合理的であるかどうか、医学的予防措置として有効であるかどうか、充分な検討がいると思う。今は政府が権力を担保にした行為として提示しているのだが、それだけの合理性があるかどうかを突き詰めた末の苦渋の決断とは思えない。そう思っているのはわたしだけではないはずだ。

 僕らはもっと合理的に考えられる。社会のそれぞれの場面で人々はぎりぎりまでそれを突き詰めて対応すべきだし、政府の命令など疑って、少なくとも自分の頭で考え抜いた判断に基づき行動するしかない。こいう場面でも自発的で多様な工夫をもちよること、そうすれば生活の知恵というか、日常的に磨かれた人々の知恵が生きてくるはずである。

強権とそれへの隷属が人々に混乱をもたらす

 政府は今回の新型コロナウイルスを新型インフルエンザ等対策措置法の対象に加える改正法を成立させた。これは首相が新型コロナの蔓延時に「緊急事態宣言」を出せるようにしたものである。こういう緊急事態法が必要なのか。こういう強権的な措置が、コロナウイルスの蔓延を防ぐ措置として有効か考えてみるべきである。

 そんな必要はないのである。僕はそう思う。人々は納得できる、合理的根拠があれば、蔓延を防ぐ様々な行動をとる。ある意味では犠牲的な私的利害を超えた行動である。時に必要な社会的行動を、私的な、あるいは自由な行動がそれを妨げるというのは権力の描く妄想である。反対に私的な自由な判断が妨げられることにおいてこそ様々な行動がでてくるのである。

関東大震災時 朝鮮人虐殺の追悼碑

 僕らは権力の出してくる方向に隷属する人々の病理が出てくることを警戒しなければならない。関東大震災における戒厳令と人々の行動を見ればことは明瞭ではないか。権力のもたらす情報や、ある種の方向に人々を領導しようとする措置が、科学性や合理性を持たないことが問題であり、それを自由に批判し、異議申し立てのあることが重要である。それが緊急時の歴史的教訓である。それを隠蔽し、封じる権力の意図は逆なのである。

( 3月8日記:三上治)

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。