昨年革共同中核派から分派した「革共同再建協議会」というのがあります。運動関係者以外の方にはあんまり馴染みがないでしょうが、中核派の拠点の一つである関西地区を中心として、多くの西日本各県連組織の半数以上が参加した大きな分派です。一時は西日本以外にも波及しそうな勢いがあって、中核派結成以来の危機だったかもしれません。俗称では分派のほうを「関西派」、党中央を支持して残った部分を「本部派」などと言ったりしています。
さて、この関西派が、中核が80年代に行った、第四インター派へのテロ行為を自己批判する声明を発表しました。実はこのインターへのテロを頂点とする、80年代後期の恫喝政治のために、中核派系列は左派市民運動からは猛烈に嫌われまくり、今もって共闘関係から排除されているという現状があるのです。
くわしくは拙ブログの「中核派について」、および当時の戦旗派の現状分析と総括に書かれていますので是非ご覧ください。
ですから、いかに分派とはいえ、中核派系列がこれを大衆的に自己批判して「誤りだった」と認めて謝罪することは、今後の流れによっては左派運動の地図を塗り替えかねない大きな事件となる可能性もあり、私を含めた多くの人々が中核派系列に対して謝罪と自己批判を求め続けていたものでもあります。
ただし、今回の自己批判は、当時の一連の恫喝・内ゲバ政治のうち、インターへのテロ行為だけに特化して謝罪するものです。当のインターがこれで納得するかという問題以外に、私も含め、中核の恫喝政治に呻吟してきたインター以外の多くの左派運動経験者にとっては、ちょっと納得できないものになっていると思います。中核派は自分たちがそういう大衆に与えてきた苦しみや辛さ、恐怖と屈辱、怒りや憎しみ、そして左派運動全体の混乱や停滞というものを、全く軽くしか考えていない、甘く見ている、なめていると思います。
ネット上の反応をちらほら見る限りでも、今までは皆が黙っていたのに、一斉に自己批判の不充分点の非難をはじめる論調のほうが目立ちます。いわば「拉致を認めて謝罪した後の北朝鮮状態」です。ただ、私はこのような声明が出されたことは大きな一歩であることは確かだと思っています。だからまず、批判する前に「一歩を踏み出した」「やっと入り口に立った」ことを評価したいと思います。関西派はここで「こんなはずではなかった」とばかりに踏み出した一歩を引っ込める「その後の北朝鮮」みたいな対応をとっては絶対にいけません。それではかえって泥沼にはまります。
そして実は私が一番心配しているのはむしろ本部派のほうなんです。この自己批判を「塩川派(関西派への蔑称)の反革命集団への転落の証拠」として批判しはじめ、またぞろ昔の「脱落派(インター等への蔑称)粉砕」に先祖返りしないかという点です。「こんな反革命の脱落派に頭を下げて許しを請う塩川一派」というわけで、そのとばっちりを受けて、三里塚をはじめとする左派運動が大混乱させられてはたまりません。本部派も、支持者らの空気を読んで(関西派への対抗的な動機にすぎないものであろうと)自己批判を検討するような形になればいいのですが(無理かなあ)。
またくわしい論評についてはゆっくり書きます。この自己批判文もそのうち関西派のサイトで読めるようになると思いますが、現時点では一部しか掲載されていませんので、速報として以下にに全文を転載保存しておきます。
1984年の第四インターに対する軍事的せん滅戦にかんする自己批判
革命的共産主義者同盟再建協議会
(一)
革共同関西地方委員会は、昨年7月27日に行われた革共同政治集会において、先制的内戦戦略の第二段階(フェーズⅡ)の厳格な総括を行うこと、とりわけ 80年代後半の革命軍戦略の問題性を明らかにするとともに、84年の第四インターに対する軍事的せん滅戦を反省的に総括することを提起した。
この提起を受けて行われた組織的な討議に基づいて、革共同再建協議会は、われわれが84年に第四インターに対して行った軍事的せん滅戦は、明らかな誤りであり、そのことによって階級闘争全体に少なからぬダメージを与えたことを率直に自己批判する立場を、昨年12月7日、大阪府下で開催されたKCM(関西共産主義運動)シンポジウムにおいて明らかにした。
(二)
革命軍は、84年1月9日、1月10日、7月5日、7月14日に第四インターに所属する8人に対してせん滅戦闘を行った。
われわれは、当時、三里塚芝山連合空港反対同盟の83年3・8分裂を転回点として、第四インターが、『日帝・空港公団の二期攻撃=反対同盟破壊攻撃の先兵』へと転落したと規定した。
そして、一連の軍事的せん滅戦を、「83年の5・29仙台と7・1大阪における第四インター白色行動隊による暴行と28名のわが同志の権力への売りわたし行為、11・20脱落派による岩山記念館破壊と当直員に対する殺人的襲撃、その他三里塚現地におけるわか同志たちへの脱落派の31件のテロ・リンチ行為に対する等価報復の権利」(『共産主義者』第60号「革命軍アピール」)の行使であるとした。
(三)
83年3・8分裂の直接の契機は、前年の年末に突如浮上した一坪再共有化運動」であった。
当時、空港公団が成田空港二期工事の着工に向けて「一坪共有地」の買収を開始したことに対抗して、反対同盟は共有地の名義を同盟員に書きかえる活動を進めていた。
ところが、「一坪再共有化運動」は、これとは反対に、一坪共有地」の共有権をさらに切り分けて、一口1万円で売却して総額1憶5千万円を得ようとするものであった。これが、反対同盟の「農地死守・実力闘争」「二期阻止・空港廃港」という基本路線を否定し、「空港との共存」へと路線転換を意味することは明らかであった。
当然にもこのような「再共有化」にたいして、二期工事敷地内の反対同盟農民から、「共有地を不特定多数に売るな」という強い反対の声が上がった。
ところが、「再共有化」推進グループは、敷地内農民を支持する立場をとった北原鉱治事務局長を、「中核派に引き回されている」と誹謗中傷し、一方的に「解任」を決議した。そして、83年3月8日、「同盟総会」なるものをでっち上げて、反対同盟の分裂を強行したのである。
「3・8分裂」から26年が経過した今日、国家権力による二期工事敷地内・市東孝雄さんへの農地強奪攻撃の切迫に対して、反対同盟は、一歩もしりぞくことなく「農地死守・実力闘争」の旗を高く掲げて、日本帝国主義を揺るがす決戦に挑んでいる。
この事実が示すように、われわれか「一坪再共有化運動」に反対し、「農地死守・実力闘争」「二期阻止・空港廃港」という基本路線を、反対同盟とともに守り抜いてきたことの正義性は、ますます明らかになっている。
(四)
以上の経過を踏まえるからこそ、われわれは、第四インターせん滅戦が誤りであったことを明確にするものである。
なぜならば、「3・8分裂」という日帝・国家権力の全体重をかけた三里塚闘争圧殺攻撃を、日本階級闘争が真に乗り越えていく道は、労働者階級・人民大衆自らが反対同盟農民の闘いの正義性に依拠し、「一坪再共有化」推進グループによる三里塚闘争からの逃亡とその破壊を圧倒的な弾劾の声で包囲し、二期決戦に向けて敷地内反対同盟を先頭にした広汎かつ強固な大衆闘争陣形を形成するという闘い方をするべきであったのであり、それ以外にはなかったはずだからである。
われわれは、この労働者階級・人民大衆自身による壮大な事業を、「軍事的せん滅戦」によって代行しようとした誤りを率直に認めなければならない。このようなやり方は、労働者階級自身による政治と暴力の奪還を阻害することにしかならないのである。
当時われわれは、「先制的内戦戦略の第二段階の戦取」として「革命的武装闘争を基軸とする三里塚二期決戦を突破口に国家権力との対峙段階を戦取し、階級闘争全体の革命的転換をかちとる」(82年1・1政治局アピール)と主張していた。
これは《労働者階級の階級的決起を基礎にして国家権力を打倒する》というのではなく、《対国家権力の武装闘争に、労働者階級全体を巻き込んでいく》という転倒した発想であった。こうした発想の中に、「革命党のたたかい」を優先させ、革命の主体としての労働者階級・人民大衆の存在とそのたたかいを軽視する傾向が色濃くにじみでていたのである。
(五)
もとよりわれわれは、カクマルのような民間反革命勢力との内戦に、労働者階級・人民大衆が立ち上がることや、反革命分子に対して赤色テロルを行使する権利を、断じて放棄するものではない。
しかし、84年第四インターせん滅戦は、労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線的対立を、相手を「反革命」とまで規定し、組織的な暴力を行使することによって、決着をつけようとするものだったのであり、そこには、われわれがいまだにスターリン主義の「粛正の論理」を真に乗りこえていないという間題が突き出されているのである。
本来、革共同の反スターリン主義の核心は、スターリン主義を「一国社会主義を本質とする国際共産主義運動の疎外態」と規定し、それを打倒対象として措定しただけでなく、われわれ自身もふくめた党と共産主義運動が「専制と粛清」のスターリン主義的変質をきたす危険とたえず闘うことを明確にしてきたことにあったのである。
われわれは、その思想的核心を後退させ、空洞化させてきたということを痛苦の念をもって確認しなければならない.
(六)
われわれは、84年第四インターせん滅戦を総括し、その自己批判を明かにするまで、25年もの歳月を要したことを、反対同盟をはじめ、これまで三里塚闘争に心を寄せ、いまもたたかいを担っているすべての人々に謝罪する。
われわれは、世界が新たな激動の時代を迎える中で、とりわけ三里塚闘争が、市東孝雄さんの農地強奪攻撃と対決して、歴史的な決戦に突入しているなかで、根底的な自己変革をかちとり、スターリン主義を乗りこえ、日本階級闘争の戦闘的革命的発展と国際共産主義運動の復権にむけて闘うことを決意する。
※ディスプレイ上では読みにくいので適当に空行をいれました。原文に空行はありません。
第四インターに対する軍事的せん滅戦に対する自己批判
まっぺんさんの「四トロ同窓会二次会」掲示板で、また草加耕介さんのサイト「旗旗」ブログにも関連記事がアップされたことで、既にご存知の方もおられると思うが、1月20日付け革共同通信第25号で、革命的共産主義者同盟再建協議会(以下、「再建協」という)は、84年に行った第四インターに対する軍事的せん滅戦に対する自己批判を表明した。私の所には諸般の都合により、現物は昨日見たものである。全文は「再建協」サイトサイトもしくは「旗旗」ブログ当該記事を参照して欲しい。
自己批判したから済むものでない。
もっとしっかり反省しなさい。
なぜこんなことを起こしたのか、二度とこんなことを起こさないためにどうするのか、やることは一杯ある。
中核派関西グループブントと言うのはたぶん革共同再建協議会(関西派)のことを言いたいのでしょう
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中核派系列は左派市民運動からは猛烈に嫌われまくり➡ユニオン系や中核系全学連に好かれ共産党… https://t.co/ALmOOlwWEQ