ウヨ・サヨ論

 ここで言う「ウヨ・サヨ論」は、社会的な『左右の対立』構図や、曖昧かつ混乱しがちな左翼・右翼、さらに保守やリベラルという概念についての考察、またはそう呼ばれている人々の観察です。偏見や決めつけに左右されない視点から、社会における左右のあり方を再評価し理解を深めます。

ウヨ・サヨ論

対北朝鮮人権運動の全人民化を希求します

全民衆的な幅広い同情の存在と、運動の右翼による独占というネジレが、個別日本におけるこの問題の進展を様々に特徴づけてきました。右翼の政治戦略で考えてみれば、今後ともこういう分野から左派・リベラル・中道派を締め出し、自分たちの運動の基盤、新規参加者を獲得する動員源にしておいたほうが得策です。そのせいで参加できずに締め出された人に「北朝鮮はどうしたw」とか言っておけばいいのですから楽ですよね。

ウヨ・サヨ論

「真の○○」という表現

そういう「真の保守」とかいう表現にも眉唾になるんですよ。つまり左翼の経験から言いますと、「真の」何かが別にあって、それにはずれたから悪かったんだという発想に立つと(もちろんそういう側面があることは否定しませんが)、結局は「やり方が悪かっただけ」という結論になってしまう。そして左翼運動やマルクス主義そのものを俎上にのせることが、逆に許されざることになっていく。やがてお互いに「真の」を競い合ってかえって窮屈になってしまうという流れになっていくわけです。行き着く先は文化大革命的な世界ですからね。戦前の天皇制を肯定する復古主義的・反憲法的な右翼は、この「やり方が悪かっただけ」という主張が強くて、「あら、昔の左翼と同じ道をたどっているよ」としか私には思えないんです。

WiLL HANADAウヨ・サヨ論

曲がり角の保守系論壇誌 老舗は停滞、過激に煽る雑誌が台頭

「歴史はくりかえす。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として」(カール・マルクス)。とにかく、「保守系論壇」は、マジで新左翼運動高揚期の末頃と非常によく似た雰囲気になってますね。一見すると盛り上がっているように見えて、実は大半が付和雷同分子にすぎない。彼らは「よりわかりやすいもの」「より過激なもの」へと流れて先鋭化していきます。左翼の場合も、それは運動の進歩ではなく、実は中身の空洞化だったんです。