何が成し遂げられたというのか 西部邁さんの『保守の遺言』を読んで

by 味岡 修

西部 邁 保守の遺言

 まだ寒さは強い。オーバーを手放すには時間がいる。でも、もうどこかに春の気配も感じたれる。どこか気分を浮きたたせるところもある。やはり、自然というか、季節はすごいと思う。それにしちゃ、人間の社会というか、世界は、と思わないではないが、そうぼやいていても仕方がない。テントの通い路でこの間、自殺(自裁)した西部邁さんの『保守の遺言』を読んでいた。世代的に近いということもあるが、これの行動が気になって仕方がないところがあるのだ。

 この本のその中に彼は電車には乗らないという箇所があった。理由は電車の中でスマホに見いっているのが許せないからとあった。それを見ると吐き気を感じるとあった。僕はスマホはやらないし、今では数少なくなった電車内で本や新聞を読んでいる類である。スマホ派に対して新聞・本派である。だからといってスマホに夢中の連中に嫌悪感を持ってはいない。面倒というかやらないだけである。西部さんのこの箇所には驚いたのであるが、ここには西部さんの思想を考える根底があるのかと思った。これは考えてみたいところだと思っている。良くも悪くもここら辺に彼の思想の根底があるのかと思った。

 これは思わぬ発見だったのだが、この本を読みながら彼が「3・11」をどのように受け止めていたか、考えていたかを探索していた。そちらに関心があった。彼の時代に対する認識の中には「3・11」のことはそれほど大きくはなかったのではあるが…。

 彼はこの本で彼は核武装の提起をしている。僕とは驚くほどのちがいであり、それは戦争観や国家観の違いから来ている。だから、彼が潜在核武装としての原発を否定することはありえないのだが、福島原発事故の衝動はあったと推察はしていた。

「なお原発について一言だけ付け加えておくと、<再生可能エネルギー>の未来について何の展望もないのに<プルト二ウムの廃棄物の置き場>がないという理由で反原発をいうのには、僕は違和感しか覚えない。あえてあっさりいうと、この巨大な東京文明は、百年後あたりにはまるごと廃棄物の集積と化すのであって、その廃棄場などみつかるはずもないのだ。簡単にいうと、技術文明はなべてイリウァ―ジブル(不可逆)な代物だということに鈍感すぎる。つまり、<安全な技術を>という視点から反原発を気持ちよさそうに言い立てる者たちには、近代技術なる「常に危険を孕んだ」代物(自動車、薬品、食品をはじめとして)がおのれの心身に気い込んでいることについては無知きわまりないのだ」(『保守の遺言』西部暹)。

 彼はそれこそあっさりと再生エネルギーは何の展望もないという。これはや原発廃棄物についてから反原発をいうことに違和をおぼえるといのも単純すぎる。反原発の運動を「安全の技術」を語ると決めつけるのは皮相であり、反原発運動の否定の意識が前提としてあるからだと思う。

 ただ、科学技術の危険性については敏感過ぎるほど認識しているのだと思う。原発を含めた科学技術の不可逆性を楽観的な面も含めて言ったのは吉本隆明だが、彼はもっと悲観的に面でにじませて不可逆をいうが、科学技術の危険性は認識している。彼の保守思想には近代主義の批判があり、科学技術の危険性についての認識はあり、やはり、「3・11」の衝動はあったのだと推察する。

 彼の保守思想は近代主義の批判を根底に持ちながら、近代主義も肯定という矛盾した、それゆえに複雑なところを持つが、科学技術の危険性というところはあったのだ、と推察できる。僕は3・11以降に科学技術の危険性、それが現在的に露呈することも含めて認識を深めてきたし、その解決の方向性などを考えてきた。それは、また、原発の潜在核武装としての問題、科学技術と国家(軍事)との結びつきの強化などの考察を深めてきた。西部さんは核武装の提起など僕とは正反対の方向を提起しているが科学技術としての原発の危険性の認識はあったのだと思う。

 3・11から7年目は目前である。3月11日にはメモリアール風の情報があふれるだろう。それはそれでよい。僕はいくつかの物語にあっと思わされるだろうし、子供をなくした親の嘆きのようなものには率直に心を開く。そういう記憶を共有したいと思う。子供はもう帰らないにしても、それを嘆き、子供のことを想起する日々が「3・11」である人たちのことを思う。「3・11」のことはその後も含めて個別的に存在し、深まってきたのだと思う。「3・11」は一般的に語られるが、それが存在し、生としてあったのは個別的であったし、そのように深まり、継続してきたのだ。

 一般的な意味での「3・11」なんてものはない。それはあの日に何が起こったかという事になってしまう。それは3・11が2011年の3月11日に起こったという出来事ということに過ぎない。その事件によって個々がどのような事態を経験し、それがその後の生の中でどのように深まってきたのであり、これは一般化してとりだすことはできなくて、個別的に存続してきたかである。一般化して取り出すには複雑すぎるし、大きすぎるのだ。そうであれば、僕らはそれぞれの「3・11」と3・11以降があるのだし、個別的な中で深まり、存続してきたものが「3・11」なのだ。

 僕にとって「3・11」は東日本大震災という大きな衝動をもたらしたものとしてあったが、その後も含めて考えれば、やはり原発震災ということが大きいのだと思う。だから、僕にとって「3・11」というのはその後の脱原発の運動を含めた展開であり、それがどうなってきたかだ。脱原発の闘いと現在というものが、僕にとっての「3・11」である。この7年間の時間とそこで深められてきたものが3・11なのだ。そして、これは安易なことでは語れないことであり、言葉にはしにくいことである。「3・11」が僕らにもたらしたもの、それを僕らが深めて来たもの、それが僕らの個々の内に深まり、進展してきたものだ。

 子を亡くした親の嘆きと、嘆きにうちできた物語に匹敵しえるものとして僕の「3・11」はあるのだろうか。(三上治)

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。