今日はチョン・テイルさんの40回目の命日です

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 本日はAPEC横浜の対抗行動が行われ、ビルマのアウンサンスーチーさんが解放されるなど激動の一日でもありましたが、同時に「僕の死を無駄にするな!」と叫んで逝った、韓国のチョン・テイル(全泰壱)さんの命日でもあります。

 左派の多くの人にとっては「チョンテイル烈士、焼身決起40周年」と言ったほうがしっくりくるのかもしれません。ただ、彼のわずか22年の生涯を思う時、同じような人々としてまっさきに思い浮かぶのは、たとえばガンジーのような類の人々であって(人によってはマザー・テレサやダライ・ラマを加えてもいいかもしれませんが)、それは必ずしも革命家や活動家の顔ばかりではありません。左派の中ではチェゲバラが近いでしょうか。

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チョンテイルさんへの想い

 いつもチョンテイルさんのことを思う時、私の胸には熱い思いと言葉がいっぱいにあふれてきます。でも、同時にそれを語りだそうとすると一つも言葉が出てきません。たとえば全泰壱評伝(つげ書房新社)の中で、著者の趙英来(チョ・ヨンギ)さんは以下のように書いています。

この欠陥だらけの本に、全泰壱に関する若干の真実でも込められていれば、あなたがこの地球上のどの場所に暮らすどんな人種・階層・信条・思想の人であっても、全泰壱は必ずあなたのところに行ってあなたの心を叩き、「僕の死を無駄にするな!」と叫ぶだろう。

全泰壱評伝』 趙英来

この言葉がすべてを語っていると思います。まだの方がおられましたら、是非一読をおすすめします。

 でも、一番近しいのは(宗教的なシンボルではない人間としての)キリストかなと思います。どちらも現象的には無力のまま、その時は何も残さずに死んでいったように思われながら、実は自己の肉体をささげた死によってその思想を完成させ、 後の人々に多大なものを残し、ついには歴史さえも変えてしまったという意味において。

極貧の少年時代

「全泰壱評伝」表紙

 彼は大邱の貧しい家庭の長男として生まれた青年でした。もとから極貧だった少年時代は父の家業(縫製の自営業)が傾いたため、一家はホームレス同然の状態に叩き込まれます。成績はよかったようですが、小学校も四年生で中退。二度の家出、あまりの空腹に耐えかねて、あるいは妹や弟に一杯のうどんを食わせてやるために、返さないといけない店のお金を使ってしまったり、拾ったお金をネコババしてしまったことなども、彼本人が書いた回想の中で語っています。

 チョンテイルさんは常に勉強がしたいという思いが強かったようですが、15歳の時に一度だけ、父の商売が軌道にのった一年足らずの間、昼間は家業を手伝いながら夜間中学に通うことができました。それは貧乏で中学に行けなかった生徒を受け入れる、いわば底辺の学校でしたが、彼は学校に通って勉強ができることに、「まるでこの世が自分のためだけにあるような」と表現するほどの喜びを感じ、このわずかの時期が生涯で一番幸福であったと書き残しています。

 「互いを愛することの喜び」という「人間としての特権」をこの時期に初めて知ったと。15歳の少年が、毎日、洗面器が真っ赤になるほどの鼻血が出るまで過酷に働きながら、それでも「生きることを神様に感謝した」と。どんな学校であれ、学校に通って勉強できるということがいかに幸福であることか!

 しかし結局はそこも中退を余儀なくされ、一時期は一家も離散して幼い妹とホームレス生活を送ることになります。時には「飢え死にさせるよりは誰かに保護してもらえれば」という子供の考えから、妹を路傍におきざりにするという死ぬより辛い決心をしたこともありました(直後に思いとどまって号泣しながら迎えにいく)。

縫製労働者として

1960年頃の韓国平和市場

 その後、再度家族が一緒に暮らすことになり、チョンテイルさんは最終的に17歳でソウル平和市場の縫製工場に見習い工として就職します。そこは一日太陽の光もささない、埃まみれの穴倉のような環境でした。工場の面積をかせぐために、部屋を上下に区切って蚕棚のようにしてしまう「中2階」と呼ばれる構造が当たり前におこなわれており、そこでは労働者は立ちがることはおろか、顔をあげることさえままならない密閉状態での長時間作業を強いられました。

 彼自身は縫製の経験があったことと、人一倍の努力ですぐに見習工から助手、裁断師へと昇格していきます。それでも一時のホームレス生活よりはマシとはいえ、毎日14時間から16時間の長時間労働で賃金も安く、休みは月に数日もない厳しい生活でした。そんな中で彼が最も気にかけたのは、「シタ」(下)と呼ばれる見習工の少女たちです。

 この子たちは写真でみると、どうみても小学生くらいにしか見えない子供も大勢まじっています。多くの裁断士や縫製士は、シタたちを自分の仕事を楽に行うためにこきつかい、時には頭をはたくことさえありました。日本でも新憲法で児童労働が禁止される戦前までは、そのような光景は当たり前でした。しかしチョンテイルさんは逆にこの子たちの仕事が少しでも楽になるように気を使い、経営者などの周囲からは奇異の目で警戒されていたようです。

 この頃、チョンテイルさんは毎朝、母からその日のお金を渡されて通勤していました。ですが、シタの少女たちはもっと貧しく、多くの子供が昼飯も抜きで空腹のまま働いていることを見かね、帰りのバス代を全部はたいて子供らに一番安いパンを何個も買って分け与えていたそうです。時には自分のぶんまですべて。そして帰りにはバスに乗らずに2時間以上をかけて歩いて帰る。当時の韓国はパク・チョンヒ(朴正煕)大統領による反共軍事独裁政権の時代で、夜間外出禁止令などが出ていましたから、長時間労働の末に夜道を歩いているチョンテイルさんは、しばしば警察に連行されて留置されました。

 初めて留置された夜、一晩中まんじりともせずに心配していた母親のイ・ソソン(李小仙)さんは、朝帰りした息子を問い詰め、その事情を聞かされた時、胸がいっぱいになって「そうしろ」とも「そんなことやめろ」ともどちらも言えなかったそうです。その心情は同じく子を持つ親として、私も痛いほどにわかります。やがて、事情を知った警官たちも、チョンテイルさんだけは拘束せずに黙って通してやるようになったそうです。

労働法との出会い

チョン・テイル(全泰壱)1968年頃

 そんなある日、過酷な労働環境と低賃金での長時間労働のあげく、一人のシタの少女が肺炎を患い、さらにそのことを理由に解雇されるということがありました。チョンテイルさんはこの幼い女性工員をかばったことで、雇用主から彼自身までが解雇されてしまいます。彼は雇用主との仲も決して悪くはなく、むしろ好人物でさえあると思っていて、自分が会社の中で頑張って重要な地位になれば、シタの少女たちの待遇も改善できると考えたこともあるようです。しかしそんなものはまったくの幻想でした。私は個々の雇用主たちが必ずしも人間的に「悪人」だったとは思いませんが、やはり資本家としての人格は超えられないものなのだと思います。

 また、彼は父親から、工場労働を規制する労働法というものがあることを教えられ、これをきっかけに独学で労働法の勉強をはじめます。もとより家には一冊の本を買う余裕もなく、彼は借金をしてまで、たった一冊の労働法の基本書を買い求めました。そしてそこには驚くべき内容が書かれていたのです。8時間労働制、週休制、残業手当、解雇手当、深夜労働の禁止などなど。あくまでも「法律上は」当事の韓国でも、先進諸国並みの権利が労働者にあると規定されていたのです。しかしそんなものはどこでも何一つ守られていませんでした。これをきっかけに、チョンテイルさんは当事の朴正煕独裁政権下で、たった一人で孤独な闘いを開始します。

労働運動をはじめる-『馬鹿の会』

チョン・テイル(全泰壱)17歳の頃

 彼はその後も裁断師として仕事をする傍ら、同僚と共に労働法の勉強会を重ね、 工場における労働実態や労働環境についても調査。さらにそれに基づいて労働庁に陳情したり、雇用者との協議を重ね、新聞社などマスコミにも資料を提供するなど、平和的な運動をすすめますが、独裁政権や雇用者は耳をかさず、また、マスコミにもあまり取り上げられることもなく、まったく改善の兆しは見られませんでした。 それどころか公安警察の弾圧対象として身に危険がおよぶようにさえなります。

 この時、彼がわずか12人の同僚たちと作った、労働条件改善のための集まりに、彼は「馬鹿の会」と名づけます。これは幼い女工たちをはじめ、労働者たちの待遇改善のための運動をしたいと相談した時、大人たちのほとんどから「馬鹿なことはするな」「そんなことをするのは馬鹿だ」と言われ、労働者が誰もそんなことに関心を持ってくれないことに失望した経験に由来しているそうです。

 長い日帝の植民地支配から独裁政権が続いた韓国では、戦後の一時期労働運動が高揚したこともありますが、雇用者と政府が一体となった弾圧ですべて敗北し、その指導者たちはみんな不遇な人生を送ったといいます。それらを見てきた年配の世代はもうすっかり疲れ果て「長いものには巻かれろ」的な奴隷思想が蔓延していたのです。チョンテイルさんは「そうだ、我々は馬鹿だ!馬鹿の集まりだ!」と激烈に訴えてこの名前を提案します。若い同僚たちはそれにうたれて拍手で答え、ここに会の名前が決定しました。

 この頃のチョンテイルさんは、やっとの思いで買い求めた労働法の本を、暇さえあれば読んでいたそうです。「逐条・勤労基準法解説」というタイトルからして、おそらく大学の学部の講義レベルの書であったと思います。しかしほとんどに学校に行けなかったチョンテイルさんは漢字さえも満足に読めずに難儀し、「大学生の友人が一人いれば」「どうして私には大学生の友人がいないのか」と嘆息することが多くなっていったそうです。やがて「馬鹿の会」の活動が知られるようになると、チョンテイルさんは「危険分子」として解雇され、会も事実上の活動停止、平和市場から追放された彼は、道路工事や建設現場で日雇い労働者として働きながら食いつなぐことになります。

運命の11月13日へ

 もともとチョンテイルさんは、ただ、幼いシタら、貧しく弱く獣のように虐げられた人々を守りたいと思っただけでした。ですから最初、彼は「自分を雇ってくれた雇用主への恩にこたえて一生懸命に働き、会社の中で偉くなれば、幼いシタたちを守ってやれる」と考えていました。しかし病気の少女をかばっただけで解雇されたことに、チョンテイルさんは最初のショックを受けます。要するにそれは会社の労務管理に反することだったのです。それは彼らを守るためには、雇い主と闘わねばならないことを意味していました。

 次に彼は労働法の存在を知り、労働監督官に面会して、やっとの思いで作成した平和市場の労働環境の報告書を提出します。しかし、監督官にけんもほろろに追い返されたことに二度目のショックを受けます。監督官はそんな現状など最初から知っていて黙認していることを、世間知らずのチョンテイルさんは知らなかったのです。これは労働庁ひいては政府や国と闘って社会を変えねば、目の前の少女一人も救えないことを意味していました。ただ一介の無学な労働者で、小学校も満足に卒業していない自分が!?どうすればそんなことができるというのでしょう?

 やがて一年以上もそのような建設現場での日雇い生活を続け、煩悶しながらも手記を書いて独自の思想を深めたチョンテイルさんは、「重大な決意」を固めて平和市場に戻ります。22歳の9月でした。「馬鹿の会」から「三棟親睦会」という名前に変え、今度は平和市場の労働実態を広く社会的に訴えて、世論を喚起することを目標に活動を再開します。

 引き続き労働実態の調査や政府やマスコミへの陳情を続け、「労働者へのアンケート調査」はマスコミにも注目されて新聞にもその結果が大きく報道されました。しかしチョンテイルさんはまたもや解雇され、労働者たちは立ち上がらず、世間の注目もなく、事態はいっこうに改善しません。そこで、1970年11月、このような状況に抗議するための集会を計画します。そして、この集会の日が彼の命日となるのです。

 チョンテイルさんはこの集会で、あれだけ大切にしていた労働法の本を燃やすことにします。いかに「権利」が法律に書かれていても、それが守られないならなんの意味もない。いや、政府自身が法が守られていないことなど百も承知している。そして「法令順守」を要求する労働者を政府が弾圧しているのだ。そうだ!労働法というのは労働者を守るためにあるのではなかった!逆に、「ちゃんと法律で労働者を保護しています」と言い訳するためにのみ使われている。守られないことが前提の労働法の存在こそ、実は労働者を抑圧するものであったのだと。

 ですが、事前にこの集会の計画を察知した公安警察は、チョンテイルさんらが集会を実行に移そうとした矢先、今度は機動隊を投入し、チョンテイルさんたちは強制解散させられそうになります。連絡しておいたはずの新聞記者たちもやってこず、労働者たちは遠巻きに集まってきますが立ち上がりません。ここにきて、ついに万策つき果てたチョンテイルさんは、その場で全身にガソリンをかぶって抗議自殺を図ります。「労働者だって人間だ」「労働法を守れ」「日曜日は休ませろ」そして、最後に「僕の死を無駄にするな!」と叫びながら火だるまで数十メートルを歩きました。すぐに病院に搬送されますが、 その日の夜に息を引き取ったのです。

臨終の床での母との約束

チョン・テイルさんの遺影を抱いて嗚咽するイ・ソソンさん

 チョンテイルさんが搬送されていった後、その場に残された彼のわずかな仲間たちは、「誰がチョンテイルを殺したのか!」と泣き叫びながらデモを繰り広げはじめました。用意した横断幕はすでに公安私服刑事によって引きちぎられていてありません。かれらはその場で自分の指を噛みちぎって布に血書でもって横断幕を書き、それを掲げながら、彼らを解散させようとする機動隊と決死の覚悟で死闘を演じますが、やがて全員が警棒で頭を割られ、軍靴でふみにじられながら警察署に連行されていきました。

 一方、その時間、チョンテイルさんは生まれてはじめてかかった医者からも「助かる見込みがないから」という理由で病室に放置されていました(応急措置だけはしてくれた)。彼は臨終の床で、駆けつけた母親に「僕が成し遂げられなかったこと、母さんが成し遂げてください」と頼みます。イ・ソソンさんはそれまで、チョンテイルさんを心配するあまりに、彼が大切にしていた労働法の本を隠したことまでありました。しかしこの時、イ・ソソンさんはこの息子の遺言に「私に命のある限り、必ずお前の思いを果たす。きっとやってやる。何の心配もいらない」と固く約束します。

 それから残された友人たちに母のことを頼み、昏睡状態に陥りますが、深夜10時頃に目を覚ますと「腹へった…」とつぶやきます。少年時代は貧困のために一家全員がホームレス生活や物乞い同然の状態で暮らし、その生涯のほとんどの時期を空腹ですごしたチョンテイルさんの、それが最後の言葉でした。時に1970年11月13日。わずか22歳の若さでした。

チョンテイルさんの遺したもの

 その後のことは長くなるので詳しくは書けませんが、実はやっと事態が動き出すのはここからなのです。

 まずチョンテイルさんが亡くなったその翌日から、新聞で事件を知ったソウル大をはじめとする学生たちが一人、また一人とチョンテイルさんの霊前に焼香に訪れ、口々に、今まで自分たち「エリート」である大学生が、労働者の問題に無関心であったことを霊前に心から詫びました。それを見たイ・ソソンさんは、息子が生前、あれほど「大学生の友人が一人でもいれば」と繰り返していた願いが、死んではじめてかなえられたことに、涙をこらえることができず、その場に泣き崩れました。

 実はイ・ソソンさんは、息子の思いがかなえられるまでは遺体の搬送を拒否すると、病院の霊安室に立てこもっていましたが、大学生たちは遺体を搬送するようにイ・ソソンさんを説得し、ソウル大学で学生による学園葬とするから、そこに遺体を搬送しようと提案します。こうしてチョンテイルさんの葬儀が学生や労働者たち1000人が集まって行われたのです。学生の代表は、チョンテイルさんが大学生の友を求めながら、彼の運動を孤立したまま死なせてしまったことを「心から恥じる」と言いました。

 こうして事態は動き出しました。チョンテイルさんの焼身自殺をきっかけに、労働者の悲惨な実態が国内外に報道されるようになったことで、それまで「奇跡の経済成長」ばかりがもてはやされ、多少の強引さは国際世論からも黙認されていた朴正熙独裁政権の暗部が明らかとなります。激しい弾圧で停滞を余儀なくされていた労働運動も活発となり、労働者が次々と立ち上がるようになりました。その先頭には彼の母親のイ・ソソンの姿がいつもあり、いかなる弾圧や脅迫にも屈せず、また、あらゆる甘言や懐柔もすべてはねつけて息子との約束を守り通しました。そしてついに彼女は「韓国労働者の母」とまで呼ばれるようになります。

チョンテイルさんの彫像と母親のイ・ソソンさん
チョンテイルさんの彫像除幕式での母親のイ・ソソンさん

 そして何よりも、それまで反独裁の民主化運動と言えば、学生やインテリ知識人の運動しかなかったのですが、彼らの目を労働問題に向けさせ、そのことが1970年代~80年代の民主化運動における労働者と学生及び知識人の連帯を生み出し、これが70年代以降、私たちがよく知っている全国的な韓国民主化運動の核となったのです。

 これに対して、朴正熙は戒厳令を布告して大統領に居座り、民主化運動は徹底的に圧殺されてしまいます。情勢は絶望的で運動は過去のものになったかに思われましたが、やがて光州蜂起の血の犠牲を経つつ、この時期に形成された潮流こそが韓国民主化実現の原動力となったのです。

 そして、あまりにも多くの犠牲と長すぎた時間と引き換えに、民主化が実現した後の2005年、日帝時代に暗渠化された清渓川復元事業に伴い、清渓6~7街は「全泰壱通り」と命名され、彼の彫像と銅板が敷かれた橋が建設されました。そして、同年9月30日、年老いたイ・ソソンさんも見守る中で、チョンテイルさんの彫像の除幕式が行われました。 チョンテイルさんの死を賭けた思いは、ついにここに一つの実を結んだのです。焼身自殺から数えて実に35年もの歳月が流れていました。私は彼の思いは成ったのだと信じます。

『全泰壱評伝』について

 このような流れの中で、「焼身自殺した烈士」としてのみ認識されてきたチョンテイルさんの実像と、その底辺労働者への慈愛に満ちた思想を世に広めて認識させたのが、韓国の人権派弁護士であるチョ・ヨンギ(趙英来)さんがまとめた全泰壱評伝でした。

 著者の趙英来さん自身も民主化運動のリーダーの一人として、朴正熙独裁政権から指名手配を受けており、地下に潜伏して民主化運動をしながら、3年の歳月をかけて同書をまとめたものです。その原稿は密かに国外に持ち出され、1978年、最初に「たいまつ社」という日本の小さな左派系出版社から、『炎よ、わたしをつつめ ―ある韓国青年労働者の生と死』というタイトルで日本語翻訳版が韓国語版よりも先に出版されます。同書によってチョンテイルさんのことが日本でも広く知られることとなりました。

 一方、韓国では朴正熙暗殺後の1982年、著者名を伏せ、さらに原稿の一部を遠まわしな表現に書き改めた上、ドルベゲ出版社から『ある青年労働者』というタイトルで出版されますが、出版と同時に即刻「販売禁止」の措置をうけ、イ・ソソンさんをはじめとする関係者は一時自宅軟禁されます。しかし、やがて口コミで同書は広まり、この時代の若者たちのバイブルの一つとなっていくのです。

 この伝説的な書物の著者名が明らかになるのは1990年、一時紛失していた原稿を加えて完全版とし、あらためて全泰壱評伝というタイトルで出版されたときのことでした。この時点で民主化運動もすすみ、趙英来さんの指名手配も取り消されていたので、著者名を明らかにできたのですが、まるでこの本の著者として世間にもてはやされるのを拒否するかのように、まさに本の出版の数日前に趙英来さんは他界されるのです。さらにこの完全版が翻訳され、日本の柘植書房新社から出版されるのは、2003年になってからです。

 なお、趙英来さんは、自身もリーダーの一人である民主化運動が、その時点では労働者との連帯を勝ち取れないインテリの運動だったこと、つまりチョンテイルさんをみすみす死なせてしまったことを大変に悔やんでおられたそうです。そしてその後も何人かの労働者が、チョンテイルさんのように抗議自殺をはかるのですが、その行動にひょっとして自分の本が影響を与えたのではないかと、趙英来さんは生前とても悩んでおられたそうです。「チョンテイルさんの遺志を継ぐ」とは、決してもう誰も死ななくても良い社会にすることであり、自分の体を傷つけることではないし、それはこの本の曲解でもあるということを、声を大にして言っておきたいと思います。

「僕の死を無駄にするな!」-何を学び受け継ぐべきか

全泰壱さんの墓

 さて、私の拙い説明よりも、ぜひ『全泰壱評伝』を読んでいただきたいと思いますが、私たちはチョンテイルさんの人生から、いったい何を学ぶべきなのでしょうか?

 思想・信条に関係なく、「人それぞれの立場で感じれば良い」というのはまさにその通りで、そう言ってしまうと身も蓋も無いのですが、私は口幅ったいようですが、人間に対する深い愛情であり、虐げられた小さき者たちに対する慈愛であり、その痛みを自分のものとして感じ取れる優しさにあふれた心だと思います。

 私がチョンテイルさんに、何かしら「左派労働運動の鑑」として(もちろんそういう受け止め方もある)、あるいは文字通り天上の人として奉るのではなく、「チョンテイルさん」と呼びたいと思い、そして冒頭に書いたように、単に活動家や烈士としてだけでなく、たとえばマザー・テレサやガンジーとの共通点を感じるのは、そういう彼の心情、行動に立ち上がった動機にあると思うのです。

 以前にマザー・テレサのことを書いた時、三浦小太郎さんから「そういう人は、時に他人にも厳しく残酷にもなりうる」という趣旨のご指摘をいただきました。それはそういう側面もあるだろうし、そのことに気がつかせてくれた三浦さんの慧眼には脱帽するものです。確かに過激なまでの「理想主義者」が権力を掌握したがゆえの悲劇は歴史上に無数にあるだろうなと。

 ただ、私が今、チョンテイルさんに学ぶべきことは、社会や政治について語るのであれば、何かしら自分や自分が属している狭い人間集団の利害ばかりではなく、やはりそれは現実に苦しんでいる人々への共感や、心の痛みこそが動機でなくてはならない、それは、よしんば部分的に権力を持とうが、いえ、そういう時にこそ、その原点ともいうべき優しい心を忘れてはならないということだと思います。

 つけ加えるならば、権利の上に眠るものに権利を主張する資格はない、法律に書いてあろうがなかろうが、現実にそれが保障され、社会で貫徹していなければ何の意味もないということです。今、プレカリアートさんのブログにおいて、職場における(たった一人での)改善要求闘争の記録が連載されています。こういう一見「小さな」勇気が、チョンテイルさんの死を無駄にしない明日を作っていくことなんだろうなと思います。

 うまく言えなくてもどかしいですが・・・。
 最後にやっぱり左派として「全泰壱烈士に黙祷!」と言わせてください。

大きな行動も小さな勇気から始まる(アフガン・イラク・北朝鮮と日本)

4件のコメント

 私の事を紹介して戴き、どうも有難うございます。ややもすれば、他のブログ・サイトが尖閣ビデオやAPEC、TPP、普天間問題、小沢問題などの、その時々のトップニュースを華々しく取り上げているのを尻目に、私のブログはと言うと、最近はローカルで地味な職場の話が中心で、アクセスも下降気味だったで、正直言って少しメゲテいました。それが、草加さんが今回ブログで私の事を取り上げて下さった事で、大変励みになりました。早速、次の職場新聞でみんなに報告しておきます。
 チョンテイルさんですか。私にとっては初めて聞く名前ですが、昔の韓国にも私みたいな人がいたのですね。今や「韓国版・蟹工船」の伝説の闘士として語り継がれるようになった人にも、最初は私みたいな闘いから出発した―というお話で、こちらも非常に励みになりました。 

今日、食事をしていて泣けてきてしまいました。
チョンテイルさんの臨終の最期の言葉の「腹へった・・・」が頭から離れません。
生活が豊かな一部の人を除いて、みんな家計が豊かではないからスーパーでもその日の特売品や半額になったものや3割引や100円引きをみんな買ってます。それでもとりあえずお腹を満たすことはできることをとても幸せだと思いました。
そりゃあ誰もが「安全で品質のいいもの、味のいいもの」を食べたいに決まってるけど、普通の家庭でそんなの買ってたらやってけないわけです。だって、こだわった物は当然高いんですから。(もしこだわってても安いんです!というところがあったら誰かみんなのために教えてくださいよ)

チョンテイルさんは生きておられたら、今、62歳でしょうか。
一緒に鍋でもつつきたかったです。
贅沢なことは無理だけど、せめて炊きたてのご飯とスープとキムチと果物、お菓子をお腹いっぱい食べさせてあげたかった。
全泰壱烈士に心から黙祷を捧げます。

そうかなあ
全泰壱については20代に知りましたが、彼のほうが私はマザーテレサより人間としては遥かに美しいと思うけどねえ(笑)
まあ、業績は圧倒的にマザーテレサですよ。でも、まあ私はどうもあの人の主張はねえ・・おしつけがましい。

ただ、全泰壱のような人間は、ある意味素晴らしいとは思うけど、やっぱり生き抜かないといけませんよ。彼の死に涙するのは思想的立場を超えてあるけど、とにかく生きることです。どんなに偽善的に見えてもきれいごとに見えても生き抜かないとね。死んだ人の分まで。それしかないんだから。

残念なのは韓国における思想的ねじれ現象で、全泰壱の精神を継ぐといっている左派の人たちが、今のところ脱北者問題や北朝鮮の人権問題に消極的なところ。これも理由は大体わかります。要するに反共右派が独占しているように見えるから左派は近づきたくないし、一緒に見られたくない。しかし、本当の左派なら乗り越えてほしい。

「左派」でも「右派」でもどうでも良いやと思っている昨今ですが、

「左派」であり続けたいと思っている僕としては、忘れてはいけな

いことを思い出させてもらいました。ありがとう。

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