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小説・三里塚

小説・三里塚 戦後最大の住民闘争、三里塚。実在の開拓農家をモデルに、敗戦、開拓、闘争と、その波乱の道のりを感動で描く。

市東さんの農地取り上げに反対する会

市東さんの農地取り上げに反対する会 親子3代90年も耕してきた農地を、違法に取り上げる動きを見過ごすことができません。

結衣ちゃんは革命家

結衣ちゃんは革命家 誰でも遊べるブラウザゲーム。ヒロインの声は声優さんによるフルボイス。君はエンディングを見ることができるか?

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三里塚勝手連 当コミュは三里塚闘争に共感し、様々な形で農民を応援していきたいと考えている有志の集まりです。

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戦旗派コレクション 20世紀、1970~80年代を駆け抜けた「戦旗派」の写真集。かつての同志たちへ、そして……。

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人を殺して埋めてしまうことはそうそうないとしても

荒岱介を偲ぶ会(2012/04/22)
 お前はなんで昔の党派時代のことにいつまでもこだわったり、党派を擁護するかのような古臭いことを言うのかと、複数の方から問われたので、一応の問題意識をここに記しておこうと思う。

 まず私は自己に対する拘泥が激しいと思うが、そのことに気がついているだけマシであると思う。いわば肩まで自己拘泥の泥沼に漬かっているので、身動きはとれないが、一応、その泥沼だけは見えている。本当にズブズブに頭のてっぺんまで自己拘泥に埋まっている人は、その沼さえも見えず、そこが沼の中ではなく、普通の世界だと思いこんでいる。現・元を問わず、ある種の活動家やウヨサヨ気分な人(趣味者含む)においては、それは「常に自分のいる場所(立ち位置)が一番正しい」という症状として現れる。

 別にここでカビのはえたステレオタイプな「党派批判」をしたいのではない。むしろその逆かもしれない。
 たとえばサヨ経験も党派体験もない人が、サヨだの党派だのを見て「キモイ」という感想をもらしても、それは仕方がないと思う。私の周りの多くの人は、それは違うと言うが、若い人が政治の話題をうっとおしがり、その一方で橋下のような人間を「何かやってくれそうだ」と支持したとしても、それはサヨのあり方に対する反省材料でこそあれ、そういう人や発想をストレートに非難することはできないと私は思う。

 けどなんちゅうか、マル共連BBSなどで「ある種の投稿」を読んでたまに思うことなんだが、たとえネットの上だけだとしても、いまだにサヨ業界に片足突っ込んでいるかのような言動をする人が、ありがちな「党派批判」を上から目線で垂れ流し、それでなんか自分が「未だ愚かな党派の人間」を超えた「もののわかった人間」「良識ある大衆代表」みたいな顔してると、なんかイラつくのである。おまえなんかより、今もアクティオに残って環境運動している「愚かな党派の人間」のほうが、ずっと尊敬できるよというか。

 ここまで典型的でなくても、たとえば元活動家の人なんかと飲みにいったりするとありがちな流れなんだけど、ひとしきり昔の話に花が咲き、その後、自嘲的な党派批判とかにうつっていく。俺たちは闘った、正しかった、でも党派や運動方針がダメだったと、まるで自分が被害者みたいな話になることもある。総じて「なっちゃいねえ」みたいな話になる。
 そこで私が「今」の三里塚の話をして、できる範囲で協力してくれと言うと、急に歯切れが悪くなって、「いやぁ!これからは君ら若い人の時代だから」とか言われたりする。

 つか、俺は若くねえよ!その若くねえ俺がかなり無理して頑張ってるんだから、「闘ったし、正しかった」皆さんも、ちょっとくらい応援してくださいよ。そのくせ、俺が昨年に逮捕されたことは、「たかがそんなこと」とか、「逮捕なんてヘマしてんじゃねえよ」みたいな言い方を「経験豊富な先輩方」からはされる。けど、あんたらがあの時代に運動の一員である学生として逮捕されんのと、俺がこんな時代にまったく個人の中年として逮捕されんのとは、本人にとっても周りの方々への迷惑にしたって、そりゃもう天と地くらい全然わけが違うんだよ。そんなの今の自分が逮捕されたらと考えてみればわかることでしょ。昔話をしているんじゃないんだよ。諸先輩の皆さん方は、「今」の自分に引きつけて考えてみてくださいよ。そしたら私が「今」やっていることの意味がわかるでしょ。昔話の延長で「そんなのよくあることじゃん」とか言うんなら、自分が今やってみせてくださいよ。

 けど、別に俺は「今こそ逮捕覚悟で実力で闘おう」とか言ってるわけじゃないんだ。だいたい俺自身がそんなことなかなかできないよ。そんな風な発想にもっていくのは、俺じゃなくてむしろ諸先輩のほうだね。集会にだって、いろいろな理由で来れない人だっているだろうとちゃんと理解している。昔やっていたからこそ、現場に顔を出すことには抵抗感があるという人は多い。それはわかる。だって自分がそうだったからね。さすがの私だって、全力で闘い、深く傷ついたがゆえに、今の運動にかかわる気になれない物静かな方に、威勢良く「オルグ」するほど空気が読めない「ゴリ」ってわけじゃない。

 けど、酒の席でさんざん「武勇伝」を語って説教してくれるような元気な先輩方には、たとえば年に3,000円(月にではない!)の会費で市東さんの会への入会をお願いするとか、その程度のことくらいは言ってみる。農民のことを思えば、そして彼らと実際に知り合ってふれあってみたら、私だって誰だって必死になりますよ。「三里塚の日本階級闘争における位置」とかそんな高尚なことを討論しにきているわけじゃないんです。それ以前のもっと素朴な問題として、市東さんが現に耕作して住んでいる土地に年内にも機動隊がやってきて、国家が暴力で強奪していくかもしれんのですよ。現に目の前で知り合った尊敬すべき人たちが、そういう目にあわされるところを見ているんだ!必死になって何が悪い!

 まあ、だいたい「楽しい酒の席で何いってんだ」みたいなKY扱いされて終わるんですけどね。いっそのこと「三里塚にかかわったことは間違っていた。人生の汚点だ。もうかかわりたくない」と言ってくれたほうがまだ納得できる。本人の意思がそれならそれで、もう何も言わないんだけど、「三里塚は正しかったし、オレは闘ったんだ」とか言うから、お願いしているのであって、なんで「今も(心の中で)応援してるぞ」とか言ってた人が、急にモゴモゴして、いろいろ言うけど要するに「一円だって協力はしない」という結論になるのかわからない。厳しい言い方で本当に申し訳ないが、三里塚農民のことなんかより、そんな「闘っている(いた)自分」のほうにこだわってるだけなんじゃないだろうか。

 だが、私の周りのほとんどの人は、こういう私の感想とは逆で、上から目線の「良識ある大衆代表」の言葉にうんうんと頷き、橋下支持の若い人には、せいぜいが「騙されている」という程度の愚民扱いである。確かにそれぞれの主張というか、字面をみていけばそういうことになるんだろうけどさ、でもなんか違う。座りが悪い。

 思うに、私がこういう人に違和感を感じる理由は、常に自分が正しいという点で、しょせんは一貫して何も変わっていないし進歩もないというところにあるのだと思う。そこに自己正当化や自己拘泥が見えるからだ。古臭いのは私ではなく、むしろこういう人たちではないのか?活動家だった時代も、それをやめた今も。もし、今の自分と昔の自分が矛盾していたとしても、それは今の自分が「物のわかった人間」になっているからで、常に「今の自分」が正しいのだ。

 これは一見すると反省や総括をしているように見えて実はそうではない。常に「間違っているもの」は自分以外の外(含む「昔の自分」)にあって、自分はその被害者であるという発想は何も変わらない。だから自己正当化、自己拘泥が激しく、結果として尊大で上から目線になる。とりわけ「昔の自分」に似たものを見つけると、「今の自分」を守るために、いっそうこの上から目線の説教が激しく、必死になったりするのだ。
 本当に総括している本物は、もっと謙虚で物静かで、決して他人の実践を上から目線で頭から否定したりなど絶対にしない人だ。

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野宿労働者への襲撃事件に思う

江東区は排除をしないという約束を守れ とてもお世話になっている(との一言ではすませられないくらいに)鈴木加代子さんの御夫君、三里塚農民の鈴木謙太郎さんが急に亡くなられたことがショックで、仕事中もぼっとしている。本当はそちらを先に書きたいんだけど、どう書いていいのかわからない。急ぎの呼びかけがあったので、そちらを先に書くことにした。

 山谷労働者福祉会館のブログで知ったが、東京の江東区で昨年の12月11日、公園で野宿していた労働者が深夜子供たちから暴行を受け、肋骨を折る重傷を負うという重大な事件が発生した。犯人の子供たちは年長でも中学生で、小学生まで襲撃犯にまじっていたというから恐ろしい
 野宿労働者(ホームレス)への子供たちによる痛ましい襲撃事件はいまだに後をたたない。石をぶつけられて怪我をしたり、金を盗られたなど、表ざたにならない大小の事件が毎日のように発生しており、野宿労働者たちは貧困からの生活苦に加えて、このような心無い陰惨な襲撃に怯えなくてはならない毎日だ。

 それが殺人・放火のような、新聞に載る大きな事件に発展するたびに、一般(=非政治系)の市民やサイトでも「こんな悪ガキどもは……」といった怒りや憂慮の投稿が、あちこちの掲示板やニュースサイトやSNSの日記などにアップされる。だが、それは子供たちだけの責任だろうか?また、こんな大事になる前に、もっと打つべき手はなかったのか?

 大阪の野宿労働者の場合、行政が特に追い出しなどをしていない公園では、野宿者と周辺住民の関係は、ごく普通の近隣関係と何ら変わらず、むしろ交流なども生まれて良好である。ところが、行政が追い出し、テント撤去などを実施し、「警告」などの張り紙や隔離フェンスなどを設置している公園では、周辺住民との交流も生まれないばかりか、日常的に少年による投石などの襲撃事件が頻発するようになるのだという。あるいは、野宿者をリンチ殺人で死に至らしめた少年の父親は、日常的に野宿者に対する差別や偏見を口にする人物であったとも報じられている。

 大人たちの野宿労働者に対する差別、無知からくる偏見、子供たちは単にそれを反映しているだけではないのか。大人の心にあるケダモノが、私たちの大切な宝物である子供たちを、本物のケダモノに変えてしまっているのだ。全く同じことは野宿労働者だけでなく、韓国・朝鮮などをはじめとする在日市民への差別デマや襲撃事件に対しても言える。

野宿当事者を招いた中学校での特別授業 貧困で住む所を奪われた人たちも、地震で家を奪われた人たちも、本質的には同じなのである。野宿者に対する無知からくる偏見を除くために、子供たちによる野宿者へのリンチ殺人が発生した大阪では、野宿者自身を小中学校に招いて、子供たちに「野宿者とはどういう人なのか、どんな人が野宿者になるのか」を知ってもらう特別授業などの取り組みが実施された(→参照「子どもたちにホームレスが特別授業」、他、当エントリ巻末にリンク集)。

 結局、野宿労働者と言っても普通の人であり、いわゆる「いい人」もいればそうでない人もいる。それは自分のお父さんや、隣の家のおじさんと何も変わらないし、野宿者になったのもたまたまで、誰でもそうなる可能性がある。そのことを知ってしまえば、もう差別もましてや襲撃などできなくなってしまう。野宿者を襲撃するのは、隣の家のおじさんを襲撃するのと何も変わらない「悪いこと」なのだとわかる。

 子供たちが(実は大人も)野宿者や在日市民のコミュニティなど、自分の知らないものに、漠然とした不安や恐れを持つのはある意味で当然だし責められない。だが、子供をそのままの状態に置いておくことは大人や行政や教育の責任放棄として責められるべきである。問題はその漠然とした不安の心に、野宿者への偏見と差別を植えつけるのか、それともただ境遇が違うだけで(本当はそれが大きいし、重大な社会問題なのだが、教育の中立性という観点から)自分たちと何も変わらない人権享有主体なのだという真実を教えてあげられるかだ。「悪ガキども」と特定の子供を責めて個人の問題にする前に、大人が反省し、取り組むべきことはいくらでもある。まずは行政の担当者の意識改革からだ↓。

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天皇の「公的行為」に関する憲法論ノート

国会開会式 右派内部で大騒ぎの内ゲバを演じてきた、天皇の政治利用がどーたら、こーたら言う話であるが、議論の中身そのものは左派にとっては見るべき内容のないものでした。だいたい支配層は戦後一貫して天皇(制)を政治利用してきたのであって、「天皇の公的行為」とは、イコール天皇の政治利用に他ならないではありませんか。

 今回のドタバタ騒ぎの論点は、宮内庁の官僚が5年足らず前に定めた、「天皇に会いたい時は一ヶ月以上前に言ってね」という、いわゆる「30日ルール」が総理大臣と言えども拘束する絶対のものなのか否かということだけ。憲法がどうの公的行為や国事行為がどうの政治利用がどうの、そういうこととは何にも関係ありません。もう、どうぞお好きなように、天皇(制)を政治利用するにあたっての「ルール」を右派の内部で喧々諤々やってたらいいだろうと思います。

 本当に「天皇を政治利用してはいけない」とマジで考えているのなら、その鑑としか言いようのないお手本がありますので教えてあげます。それは共産党です。共産党は天皇が憲法に書いてある行為(いわゆる国事行為)を書いてある通りに行うことは認めています。いちいち反対しません。それに反対するなら憲法を改正するしかないのです。また、天皇に私生活があることも認めています。天皇が生物学の研究をすることに共産党が反対したという話は聞いたことがありません。これらは天皇(制)にどんな考えを持っていたとしても関係なく認めています。

 その上で、それ以上の場所に天皇を引っ張りだして公的なふるまいをさせることに共産党は反対しています。たとえば国会の開会式。天皇をまるで国会の主催者のような高い場所に立たせ、「おことば」という名の訓辞を読ませる。こんなこと憲法のどこにも書いてありません。書いてないことを時の政府が勝手にやらせる。これはダメです。天皇に憲法に書いてない政治的ふるまいをさせてはいけないと、共産党はずっと国会の開会式に欠席してきました。どうしても天皇にこういうことをやらせたければ、やはり憲法を改正するしかないのです。その上で、だからこそ憲法を改正すべしと思うかどうかは別にして、あるいは天皇(制)に対してどんな考えをもっていようとも関係なく、断固としてそう言うのです。言い切るのです。これが「政治利用はダメ」ということの一貫した態度です。

 これに比べてドタバタ騒ぎのカタカナウヨクたちは、要するに民主党が嫌いとか、小沢さんが嫌いとか、中国が嫌いとか、そういう政治的な動機から必死に騒いで話を大きくしようとしているにすぎません。そういうのこそを「天皇の政治利用」と言うんです。おまいらは共産党の爪の垢でも煎じて飲め。
 なにやらオバマ米大統領の天皇へのお辞儀が深すぎたのはけしからんとか、アメリカの右翼が騒いでいますが、素直に考えれば日本の右翼としてはむしろそちらのほうが反応ポイントだと思うのに、完全スルーの弱腰です。これがアメリカ大統領じゃなくて中国要人での話だったらどんなに大騒ぎになっていたことやら。今回の件も同じこと。これが民主党政権下ではなく自民党麻生政権下で、中国副主席ではなくアメリカ副大統領だったら、大きな騒ぎにもならなかったに違いありません。だいたい「天皇制はすぐれた国家制度でこれを中心としてみんながまとまる国作り」と言った同じ口で「政治利用は許せん」なんて、堂々と書いている矛盾に満ち満ちた態度のどこが信用できますか。

 要はこういう輩の言っていることは、右派勢力内部でのみ天皇に対して「お互いに抜け駆けはなしね」と言い合ってるだけにすぎん。共産党みたいに天皇は(左派を含めた)みんなに対して中立であるべきと言ってるのでは全然ないんよ。結果的にせよ民主党攻撃の政争の具に天皇を利用しただけで終わった。その程度の内輪もめを政治利用がどうとかの美名にくるむなよと。さらに呆れたことに、共産党が上に書いたような立場で小沢さんを批判したら、それに乗っかろうとする浅はかさ。政争のためならなんでもありかよ。だいたいさあ、あんたら共産党と比べたら、今回の問題についてはよっぽど小沢さんや民主党の意見に近いじゃん。本来なら小沢さんと組んででも、まず共産党を批判して、それから小沢さんを批判するのが筋でしょ。それとも民主党を批判しているなら北朝鮮とでも手を組むんかね?ああ、アホらしい。

 まあ、こういうどうでもいい話はこのへんで充分なんですが、なんか小沢さんが激昂して「公的」と「国事」を言い間違えている映像を見まして、思わず「えっ?」と思いましたが、記者たちは誰も沈黙して突っ込まない。まあ、概念は違うが、結局は同じことになるので、論旨としては間違ってないから、記者は黙っているのかなと思っていました。そしたら何やらサンケイ新聞に、信じがたいほどアホな記事が掲載されました。これは自民党時代からの政府見解である「公的行為論」ではなく、おそらくは「私的行為論」という、とっくにすたれて今どき誰も言わない大昔の学説に依拠したと思われる記事で、しかも「公的行為否定論」に立つ共産党委員長の発言まで援用したあげくに、どちらの説からも出てこないはずの「公的行為」を論じるという想像を絶するものでした。小沢さんに対する「えっ?」どころの騒ぎではありませんよ、これ。

 それだけなら「サンケイはやっぱりアホやった」で済む話なんですが、ネトウヨ系のブロガーさんとかが大量にこの記事に依拠した(つうか騙された)文章をアップしていましてね。まあ、彼らはただの個人ですから罪は無いというか、マスコミを自称して適当なことを書いたサンケイさんが悪いんですけどね。んで、これらのエントリーが無茶苦茶なのはわかるのですが、だったら「正しい」解説はどうなるのかなと。そう言われると、お前書けと言われても急には書けませんよね。それでまあ、これも勉強になるかと思って、学生時代の基本書などを引っ張り出してきまして、この機会に天皇の公的行為論などを中心に整理してみました。しかし特に誰かに見せるあてもなく、このままハードディスクの片隅に眠りそうだったので、何かのご参考になることもあるだろうと思い、ここまでの論評をつけて公開することにします。

 一応言っておきますが、以下は単なる私の防備録であり、学説整理ノートです。当たり前ですが「学問的正確さ」を保障するものではないので、これを信じて恥をかいても感知しません。大きくは違ってないと思いますが、サンケイなどという、一応は自称マスコミでさえ全く信用できないいい加減なことを書いていたのですから、一ブロガーの記事を信用してはいけません。もし何かに使う場合は、巻末に私が使用した参考文献を掲載しておきますので、最終的には原典に目を通した上でご使用ください。

 また、ご期待に反して(?)左派的な視点は排除して中立的な視点でまとめてみました。さらに掲載にあたって羽毛田氏などへの論評を追加しましたが、そちらはむしろ右派的です(笑)。

目次
 1)国民主権と天皇の地位
愛子ちゃん 2)天皇の行為
  ・国事行為
  ・私的行為
  ・公的行為
 3)学説の状況
  ・公的行為否認説
  ・公的行為肯定説
    象徴行為説
    公人行為説
  ・国事行為説
  ・準国事行為説
 4)小沢氏の主張の検討
 5)羽毛田氏と30日ルールについて
 6)産経新聞記事の検討

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「ネトウヨ叩き」現象は他人事ではない

  もうすでに一段楽している(と思う)のですが、総選挙で自民党が歴史的な大惨敗をした前後、2ちゃんねるをはじめとした掲示板で、「ネトウヨざまーみろ」みたいなスレや話題が連続して立ち、一部で話題になりました(→参考資料)。

踊る阿呆の「祭り」のあとに(日経ビジネス)
政権交代で「ネット右翼」危機?(J-CAST News)
総選挙に見る「ネトウヨ」の敗北(PJ-News)
ネトウヨ大憤死の巻(はてな匿名ダイアリー)
<参考>2ちゃんねるから適当に拾い読み

「違うのだよ麻生さん。ネトウヨは数が多いのではない。クリックの頻度が高いだけだ。つまりただのパラノイアだ。匿名のパラノイア。そんな支持を真に受けたのがたぶんあなたの失敗だった。自業自得」日経ビジネス)とのことですが、そんなのちょっと気が利いたネットユーザーならだれでも知っていること。そのせいでネット上の(政治的な)世論調査や人気投票はほとんど信用できないものに成り果てているのは周知の事実です。そしてまた、その「投票結果」をあちこちに貼り付けたり引用したりするんで、また彼らの投票の志気があがっちゃうという悪循環です。

 この記事ではそういう事実すら知らずに「ネトウヨの支持」に最後まで踊らされて強気だった麻生さんを情報弱者としていますが、誰か周りでネットに詳しくて麻生さんに忠告してくれる人はいなかったのでしょうか。それともマスコミや世論調査会社の客観的なデータより、「ネトウヨのクリック」にすがりたかったのか。まあ、それじゃ確かに「自業自得」でしょうが。

◆「ネトウヨ叩き現象」発生の理由と流れ

三鷹の反戦パネル展を妨害する在特会(1)  さて、その「ネトウヨ叩き」の実例の一つですが、右上に紹介した動画は、総選挙投票日直前、池袋で悲壮な叫び(つか、ほとんど悲鳴)をあげる『在特会』の方々です。これが『在特会』ということは知らずに、単なる「笑える映像」として、2ちゃんねるのあちこちに繰り返し何度も何度も貼られてバカにされまくっているところを発見しました。

 なんでこれが『在特会』だとわかったかと言えば、同集団は三鷹で市民団体による戦争展を妨害し、展示を見にきた親子連れに怪我を負わせるという事件をおこしているんですが(→ニュース参照)、池袋で叫んでいるこの方は、その時に在特会側を撮影した写真にアップで写っているからです(撮影者の方に許可をいただいて掲載)。アゴひも付きの迷彩帽(こんなんどこで売ってんの!)やサングラス、使用しているハンドマイクから、なぜか着ている服まで一緒(笑)なので間違いありません。まあ、『在特会』としても、こうして自分たちの主張や行動を紹介してくれているんですから、この動画にも、それが『在特会』メンバーであることを紹介することにも文句はないでしょう。ただしそれが一般から受け入れられるかバカにされるかは別問題だったわけですけども。

三鷹の反戦パネル展を妨害する在特会(2) こういう、自民党大敗直後の「ネトウヨ叩き」の投稿をざっと眺めてみますと、その一番の味噌は、あくまでも、「ネトウヨざまーみろ」であって、決して「自民党ざまーみろ」ではないということなんですよね。どういうことかと言いますと、こちらのエントリでも指摘しましたが、右翼どころか、そもそもネットで(主に)政治的な意見を書いている人そのものが、全体から見れば極少数派なわけで、大多数の「右翼も左翼も嫌。あんなに必死になってる奴らの仲間になんてならないよ」というごく普通のネットユーザーの目から、ネトウヨたちの「愚民たちに真実を知らせる活動」がどう見えていたかということなんです。

 たとえば「『チャングムの誓い』おもしろいよね」とか普通に語り合っているところにしゃしゃり出てきて、「韓流ブームは政治運動で在日の陰謀なんだぞ!」と聞きもしないのにご親切に教えてくれたあげく、ネトウヨ特有の特殊な歴史観をご託宣し、さらに民族差別を煽るようなマルチコピペをしまくって迷惑をかけていたのが彼らです。
 2ちゃんねるでは選挙が近づくにつれてそれもエスカレートし、政治とは全然関係ない板にまでスレッドをたてまくった。そういった彼らの介入(荒し行為)に「スレ(板)違いで迷惑だよー」と言うと、すぐ「在日ハケーン!」とか勝手に「認定」してかえって長引くので、無視して我慢するしかない。これでは「あ~!うぜー奴らだなあ」と思われても仕方がないわけで、やがてそこまでして彼らが必死に応援した自民党が大敗し、今まで我慢していた一般のユーザーが「ざまーみろ!」と一気に溜飲を下げるという流れになったようですね。

 まあ、別の言い方をすれば単にその程度の「やりすぎ」に対する反発、差別的言論に対する普通の不快感、つまりいわば何の背景もない「荒らせば叩かれる」というごく自然な流れにすぎないようですから、新たな燃料が投下されない限りは「ネトウヨ叩き」もそんなに長引くことはないでしょう。(ここで書いた「板」や「スレ」などの用語がわからない方はこちらに詳しく説明されています)

◆今日のネトウヨは明日の自分の姿かも

「在特会」渋谷デモ  しかしなんと申しましょうかねー、私には「お、ネトウヨが叩かれているな」と単純には思えないですね。なぜかと言うと、こうしてネトウヨを叩いている普通の人の頭の中には、同時に、昔のステレオタイプな左翼像も存在していて、それらの投稿を読んでいても、結局は「左翼も右翼も同じようなもの」と思われていることが垣間見えるからです。
 「多数派」を気取っていたはずのネトウヨ諸君が、一般のネットユーザーからどう思われていたかということが表面化した今回の事態は、まさに他山の石、反面教師として見るしかありません。左派は「ネトウヨざまーみろ」なんて思っていたら、今日のネトウヨの姿は明日の自分の姿ということになりますよ。ほんまに桑原、桑原、おー恐い恐いって感じです。

 以前から繰り返している通り、ネットは「道具」なのです。だからネトウヨのように、道具そのものを「制覇」してやろうなんて考えは愚かです。また、「リアル」(現実)と対置するものとして「ネット」があるかのような発想も根本から間違っています。ネットも「現実の一部分」にすぎないのです。つまり職場や家庭内で口走れば周囲に不快感を与えるような彼らの差別言論は、ネットでも全く同じに周囲に不快感を与えていたということにすぎないし、現実にそんな奴が近くにいても、多くの人は反論するより不気味がって放置することがほとんどなわけで、同じようにネット上でも放置されて仲間で群れていただけの現状を、彼らが「俺たちって受け入れられているよな」と勝手に勘違いしていただけだったというオチなわけです。

 しかし逆に言えばネットが現実の一部分だからこそ、それは現実を変革するための有用な道具の一つとしてありえるわけで、それは絶対に使いこなさないといけない「道具」ではあります。とりわけ全国に散在する目に見えないくらいの少数派をかき集めて可視化し、あらたな仲間を募ったりする場合には大変に有用なツールであり、ネトウヨが「成功」したのはその可視化のレベルにすぎなかったわけです。なのにそれを超えて現実に対置する「もう一つの世界」であるかのようにネットを観念したり、現実とは別の特殊なモラルが通用するように思い込んだり、ましてや自分たちが現実には極少数派にすぎないという客観的な分析を忘れ、ネットを制覇した上で「リアル」に逆襲して世界を変えるなんて、全く不可能な御伽噺を信じた「ネット信仰」が彼らの間違いでした。

 私たちは、現実に生きている人々の生活のごく一部分でしかないネット、しかもその中の極少数である政治分野を誰が「制覇」しているかなんてことを気にする必要はありません。私たちの戦略は、ただ、荒し行為からしっかりと身を守りつつ、道具としてのネットをも駆使して坦々と現実を変革する活動をしていけばいいのです。現実を変えることによって、その一部分にすぎないネットも自然に変わっていくのであって、その逆はないのです。それが今回の「ネトウヨ叩き」から汲み取るべき教訓ではないでしょうか。肝に銘じましょう。

 では左翼にはこういう「ネトウヨ」に相当する人はいなかったかと言えばちゃんといたわけです。

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寄稿】外国人排斥を許さない6・13緊急行動に参加して

「外国人参政権に反対するだけ」などと言いながら、実際には「市は京都から朝鮮人を追い出せ!」などと主張して、多様な人を受け入れることで発展してきた我が街・京都の精神を土足で踏みにじった「在特会」。その主張に違和感を持つすべての人に開かれた「6・13緊急行動」は様々な主張や考えの人が入りみだれ、自分なりの思いを表現した豊かなものだったようです。集会参加者は250人強、デモは沿道から参加してくる人も多く、解散地点までには300人以上に達しました。
私は京都市民でありながら、現在は月の大半を出稼ぎしているせいで参加できませんでしたが、当日の行動に参加された読者の方々が画像を送ってくださいましたので、画像アルバムにまとめて掲載させていただきました。また、そのうちのお一人が、「よかったら使って」と、当日のレポートを送って下さいましたので、貴重なご報告に感謝をこめてここに掲載させていただきます。他にも報告を見つけたら、そのつど巻末にリンクしておきますので、しばらくは定期的にチェックしてみて下さいね。

日の丸穢すな在特会のプラカード ご覧のように「日の丸を穢すな在特会」と、日章旗を掲げて在特会に抗議の声を挙げた人も数人参加しておりました。

 この人たちは民族派とか右翼とか保守とか或いは左翼とか左派とか関係なく、差別の無い「日本を世界に誇れる国」にしたくて、堂々と日章旗を掲げたい人たちです。もちろん、そのことについては賛否両論さまざまあるかと思われますが敢えて言及するつもりはありません。今回は目的と行動が一致していたからです。

 さて、今日の三条河川敷の集会に結集した外国人排斥に反対する人々は老若男女あわせて3百人ほどでしょうか?まあまあかと思いました。敵が明確なレイシズムを掲げて叫ぶ可視化された連中だから、これほど人が集まるのかな?もっと普段の反戦・反貧困デモなどにも、このくらいは集まって欲しいなと正直に感じました。

色とりどりの参加者 それはともかくも、集会の後は予定どおり四条河原町交差点まで行ってUターンして三条河川敷まで帰って来るデモを実行し、デモではPRカーから音楽を鳴らしての鳴り物入りで、サンバのリズムを太鼓で叩く人たちとそれに合わせて踊る人たちや、在特会会長の桜井誠のトレードマークである蝶ネクタイとサスペンダー姿をデフォルトして真似ながら日章旗の赤丸部分をウ○コの形にした旗を振る女の子たち等々、皆さまざまな思いを込めたスタイルのパフォーマンスに興じて、他・多文化との共存共栄と入管法改悪反対、排外主義への批判をアピールしてデモを行いました。

 そして少し時間を挟んでから、四条河原町交差点の四つ角それぞれ4グループに分散して在特会のデモ隊を待ち受けながら、道行く市民、観光客の皆さんにビラを撒いて情報宣伝活動を行いました。妙な屁理屈を唱えて外国人差別と排外主義宣伝・煽動を恥ずかしげもなく叫びながら京都の街を練り歩く連中を、まさに皆で包囲する形態で抗議の声を挙げるためです。因みに僕たちは阪急デパートの真向かいの北東の場所で、まず最初に在特会のデモ隊と遭遇する場所にいました。
 ご存知のように京都は古の都なので海外からの観光客も季節を問わずに多く訪れ、情報宣伝活動では僕たちの主張を英翻訳したビラを受け取り熱心に説明を聴いて納得し共感していく白欧系の男性もいました。

 さて、いよいよ在特会のデモ隊が維新政党・新風(だったかな?)のPRカーと黄色の布地に「外国人参政権に反対する」云々と記された横断幕を先頭に、こちら側が視認可能な距離まで近づいて来ました。市民運動を潜称する排外主義者どもの挺団が四条河原町の交差点に近づくにつれ、露骨にこちら側の抗議行動を封殺しようとする機動隊(通常制服スタイル)の数が増えてカマボコ車輌数台で塞がれてしまったため、せっかく奴らに見せつけるために作成した横断幕に絵幕やプラカードや旗が奴らから見えなくなってしまい残念でした。

 ふと横を見ると、オレンジ色の安っぽい奴らのスタッフ用ウインドブレーカーを羽織った中年の男がニヤニヤしながらビデオカメラを片手に抗議行動の参加者を撮影しようと挑発しています。どうせ「妨害・犯罪左翼」が「在日朝鮮人」がどうこうとかデタラメでいい加減なキャプションを付けてニコニコ動画とかYouTubeにアップロードするつもりなのでしょう。すぐさま非難と怒声を浴びてこちら側の若者たちに追い払われて退散してしまいましたが、それにしてもごく普通にキモイ男だったなぁ・・・

参加者の訴えを聞いてデモに参加する中高生や市民も多数 やっと奴らのPRカーが到着しました。例によって蝶ネクタイとサスペンダー姿で会長の桜井誠が先頭でマイクを握りしめて得意気に喋りながら歩いて来ましたが、僕たちのビラを受け取り賛同した通りすがりの中高生たちも混じって、こちらが一斉にシュプレヒコールを浴びせると、驚いて立ち止まってしまいました。あの瞬間の怯え切った表情で僕たちを凝視した桜井の顔は、当分の間は忘れられそうにありません。人は恐怖に陥った場合に青ざめるとよくいいますが、まさに桜井の表情は青ざめた顔色でした。

 在特会のデモ隊は総数で多くみて180、少なくみて150名といった具合だったと思います。これは予断や偏見を抜きにして、あれだけ自サイトや動画サイトで「多数参加を!」や「日本を護る」をアピールし「こちらは会員数5800名」を誇っていた割には、意外にも少ないなというのが正直な感想です。まあ、これについての分析は色々とあるでしょうが他の方に任せましょう(笑)!そして奴らの構成人員は確かに老若男女さまざまで、総じて「フツーのひと」っていう感じの人たちばかりでしたが、意外にも中高年の男性が目立ちました。もっとも見た目が「フツー」なのは彼・彼女らが大っ嫌いな創価学会とかの新興宗教団体なども同様に思われます。

 それから在特会をはじめとする最近登場した自称保守の「市民団体」やNPOには、所謂2ちゃんねるを経由してネットウヨクという実存を通じてから、勘違いして街頭に飛び出してしまった若い連中が多く参加しているといったイメージがあったのですが、やはり意外と40~50代の層がコアを形成しているのかも知れません。これについての分析も他の方に任せます(笑)。

 こちらのシュプレヒコールに反応して、さっそく奴らも「朝鮮人は帰れ~~!」とか「犯罪左翼は帰れ~~!」とか無内容なレッテル貼りの罵詈雑言を喚き返して通過しました。なかにはエキサイトして顔を真っ赤に上気させながら日章旗を手にした黒いスーツ姿の青年もいました。エキサイトして中立を装う国家権力に制止させられたのはお互い様ですが、僕らを制動するほうの機動隊も在特会側に張り付いていた機動隊も、総員こちら側を向いて警戒しており明らかに在特会の挺団を防衛していたのは事実です。それから奴らが手に持っていたプラカードですが、「従軍慰安婦は売春婦」だとかの「外国人参政権」とは全く関係ないスローガンが記されたPCの印字で仕上げたらしい手作り感の皆無な統一の物ばかりでした。やっぱりあまりにも恥ずかしい誤字脱字が多かったから、手書きの物はやめたのかな(笑)?

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沢田研二さん「我が窮状」を聴いて



我が窮状(九条)
 私も含めて驚かれた方が多いと思いますが、沢田研二さんが『わが窮状』という「護憲メッセージ」を歌っておられます。「9条」と「窮状」をかけて、憲法が危機に瀕している「この窮状を救おう」と歌っています。作詞はなんと沢田研二さん本人で、アルバム『ROCK’N ROLL MARCH』の“9曲目”に収録されているという凝りようです。テレビ放映された年末の東京ドームコンサートでも80曲中(!)の51曲目に歌って、つめかけた3万2000人のファンから万雷の拍手をおくられていました。

 ジュリーは今までメッセージ性のある曲は避けてこられ、政治がらみで思い出すことと言えば、ナチスの軍服姿でテレビに出て猛批判されたことくらいという(写真右下)、政治的にはまったく無色(を通り越して無自覚)な人だと思っていたので本当に驚きました。ですが、決して「政治に口を出しはじめた」のではなく、あくまでも一人のエンターテイナーとして、ステージで歌った後でも何のコメントもされないのが、かえって彼のスタンスを表現しているようでカッコイイと感じました。「あとは勝手に何とでも言え」という感じです。

 ところで、政治的にはまったくの一般人である沢田さんが作ったこの曲は、いきなり素朴な愛国心の吐露にはじまり、「英霊」なんて言葉を無批判に使っていたりするもんですから、実は左翼の間では手放しで何の前提もつけずに賞賛している人は少ないんですよね。もちろん心情的には「ジュリーすげえ!」と思っている人のほうが多いとは思うんですが、「左翼」に徹すると誉め方に困るというか(笑)。この曲を絶賛するかどうかで、普段はあまり見分けのつかない(?)左翼と非左翼(護憲派)をはっきり分類できるくらいです。

 でもこれが、憲法9条と自衛隊の存在という矛盾する両者をともに支持してきた日本人の平均的な意識なんだろうと思います。圧倒的多数かどうかまではわかりませんが、プロパガンダや大きな事件なんかで熱に浮かされている時(私たちはあんたらみたいに「騙されている時」なんて言いませんよ>ネトウヨの皆様)以外、少なくとも過半数の国民意識って、冷静につきつめればこの歌の内容に代表されるようなものだと思うのです。その時々で左右にぶれながらもバランスをとってきた日本人の素朴なレベルでの国家観や戦争観であり、左翼も右翼も今もってそれを変えられないということでしょう。

 一方、そういうことを無視して、左右ともに「突っ込みどころ満載ですな」な~んて、したり顔で言う人がいるんですよね。でも私はむしろそんなふうにしたり顔な人のほうに、安易に迎合・利用しようとする人以上に反発を感じるな。もちろん、あやしげな自称左翼、馬鹿左翼の私でも、この歌に突っ込めと言われれば突っ込めますよ。つーか、こういう内容で護憲を語ることはむしろ危険な面もあると思います。こういう素朴なレベルでの平和意識や護憲の主張は、それこそ情勢しだいでいつでも素朴なレベルの国家主義に巻き取られてしまう。それはまさしくここ数年の私たちが経験してきたことでしょう。情勢なんていい時も悪い時も、一日で変わっちゃうもんですしね。

 要するにね、こういう個人の単純素朴な良心に対して「突っ込みどころ満載」とか「国民を馬鹿にしている」とか評する人のほうこそ「国民を馬鹿にしている」と思うんです。一言で言って「あんた何様?全国民を代弁するほど偉いの?」ってことですよ。

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反G8デモの禁止と参加者逮捕を弾劾する

 去る6月29日のことになりますが、東京でG8サミットの抗議行動が二つ行われました。私のお知り合いの方々の大半は、新宿・柏木公園での市民集会とサウンドデモ(約500名の参加)に行かれたようですし、私も客観的(人脈的)には柏木公園の集会に代表される潮流に属しているのだろうなと思います。この新宿集会には、フランスの反貧困運動AC!、持たざる者の国際連帯行動の代表も参加・発言されました。

 日本政府は世界的に高名な哲学者であるアントニオ・ネグリさんをはじめとして、単にサミットに関する講演会や学習会に講師として招かれただけの人々まで次々と入国不許可、空港からそのまま強制的に送還するという、まるでビルマや中国と同様の異常な体制で、市民運動や反サミットの言論そのものを直接に弾圧しています。今回のフランス市民の代表も、すったもんだの交渉の末にやっと入国が実現したというありさまです。

 フランスの代表はこのような経緯に加え、「片道一車線」で許可されているはずのデモに対し、機動隊が車線をはるかに超えてデモ隊列をグイグイと路肩に押し付けながらデモするという、日本ではありふれた光景に大変に驚かれ、「東京では表現の自由が保障されていないことに驚き、怒りを感じる」「G8反対の闘いによって、せめてあと1メートルの自由を勝ちとろう」と述べられました。はじめて日本のデモ規制の異常さを見た人の素直な感想だと思います。実はかくいう私自身もこのような機動隊の規制にはすでに慣れっこになっており、「こんなものだろう」と思っていた自分の人権感覚の無さを激しく反省します。

 それにひきかえブッシュ政権から資金援助を受けて活動しているヒモ付NGOの「国境なき記者団」の代表は、長野での聖火リレーでさんざんに平和的抗議行動を排除・弾圧する警察の行動を間近で見ておきながら、「日本では表現の自由が保障されていて素晴らしい」という、ただただ日本政府に配慮するためだけに大嘘の警察賛辞を残して去っていきました。やはりヒモが付いていない本物のNGOの発言のほうがはるかに説得力があります。それにしても“あと1メートルの自由”とは!ああ、日本はなんてみみっちい国なのでしょうか。

 しかし今回は、当日に行われた私とは別潮流の反G8集会のほうをとりあげたいと思います。それは渋谷・代々木公園で動労千葉の主催で開催された集会とデモ(約2000名の参加)です。いわゆる中核派系と言われる大衆団体が参加されていました。

 新宿のほうの集会では海外代表の入国不許可の策謀がなされましたが、こちらの渋谷集会では、なんと集会直前になって、渋谷駅前を通るデモが不許可・禁止になったのです!これには普段から言論弾圧に抗議している私でさえ、さすがに驚かされました。なんという暴挙でしょうか。渋谷駅前をデモが通ったからと言って、無視しがたい混乱がおこるとは考えられません。今までのこの潮流のデモでおこった小規模な混乱も、すべて警察側の過敏なまでの弾圧が原因で引き起こされています。

 はっきり言って、公安警察はこのデモ禁止措置で意図的に混乱を引き起こそうとしていたとしか考えられません。その混乱の中で逮捕者を出し、「反・反G8勢力」の古典的「過激派キャンペーン」のネタにする意図があまりにもあけすけです。ありもしない「混乱」を無理から作り出して、今や取り締まり対象である「過激派」よりも公安刑事の人数のほうが多いという全くもってアホらしい状況の中で、自分たちの部署と飯のタネを守ろうとする小役人の意図がミエミエすぎて気の毒なくらいです。今回のデモでは混乱の中で8名が逮捕されています。この方々は「逮捕者」というより「被害者」と言ったほうがしっくりきます。

市民が行使する「当然の権利」である表現の自由を禁止するとは、なんという野蛮さであろうか!この日本にはまともな民主的権利も許されないのである。権力の意図は明らかである。この集会を「特定党派が暴力を行使する」という印象をつくり出すために、あえて意図的にこのデモ申請を不許可とし、その不許可に対して抗議する者たちを挑発し、暴力的に弾圧し、逮捕し、その結果として、この反G8行動が「一握りの過激派だけが抗議している」かのように見せかけるためにワナを仕掛けたのである。
(『四トロ掲示板』でのまっぺんさんの投稿より)


 ところで、さっそくこの稚拙な「キャンペーン」に騙されてしまったり、右派の意図的なものであるか左派の無自覚なものであるかを問わず、言論弾圧に協力する言説も散見されます。おっと失礼しました。右派でも言論弾圧に協力し、自らも言論弾圧を実践しているネトウヨなどの一部の悪質な人々だけですね。普通の右派のみなさんごめんなさい。それはともかく、たとえば以下のような文章を見ました。

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「普通の人」というレトリックの本質について

差別と排除を許さない! よくネトウヨさんが使うレトリックで「自分は右翼じゃない、普通の人だ」って常套句がありますよね。
左派にはこれを即時的に嘲笑して「どう見たって右翼じゃんw」という人が多いのですが、私は少し違う考えを持っています。

 だって、それじゃあ、右翼的な考えをもっている市民は「普通の人」じゃないとでも言うのでしょうか?右翼だって左翼だって、みんな普通の人ですよ。普通の人々がいろんな考えを持って、それが自由で対等にごちゃまぜになって市民社会を構成し、その最大公約数として「普通」が生まれるのです。つまり「いろんな考えを持つ一人一人の人間」を超越したところで、「普通なるもの」が市民社会の外に超然と存在しているわけではありません。考えてみれば当たり前のことなんですがね。

 つまりこういう自称「普通の人」の問題点というのは、徹頭徹尾、自分を基準にし、自分と同じ考えや行動をしない人間を「普通ではない」とレッテル貼りして、その考えを考慮する必要は無い、排除してもかまわないという理屈になる点なんですよね。「○○に反対しているのは普通ではない人間(左翼・反日・プロ市民etc)だ。だから反対意見は考慮しなくていい」「反対している奴らは監視・弾圧してもかまわない」という具合です。要するに「いろいろ」という自由や民主主義に不可欠な要素、他人の意見を自分の意見以上に尊重するという態度に著しく欠けているということの自白が自称「普通の人」であるわけです。

 だからネトウヨさんに「お前らが『普通の人』であるものか!」みたいな批難をすることは正鵠を射ていないと思います。彼らだってその実存はまぎれもなく普通の人なのです。そうではなくて、批難さるべきは、自分(たち)だけが普通であって、自分と違う傾向を有した人間を「普通」から排除して考えるファッショ的な発想なのです

 本当に「普通」であるならば、いちいち聞かれもしないのに、文中に「普通」「一般」などの文字を多用・強調する必要はありません。この手の文章の本質というのは、自分達が普通であるという点にあるのではなく「自分と違う考えをしたら、お前を普通とは認めてやらないぞ」という論理的帰結にこそその本質があるのです。

 どういうことかと言うと、それは戦前の「非国民狩り」と全く同じことなんですね。それが証拠にこういう文章を書く人は、よく「日本人ならば……」「日本人のくせに……」という言い回しを使うことに気がつきませんか?要するに、民主主義がコンセンサスを得ている世の中で「お前なんて非国民だ!だから排除してもいいんだ」と露骨に言う代わりとして編み出されたレトリックが「自称普通の人」、あるいは「自称中道」なわけです。この危険性(ファッショ性)に無自覚にこのレトリックを使っている人が多すぎます。さらにもう少し正直なネトウヨさんは、非国民と言うかわりに「反日」という用語を使って、はっきりとそのことを宣言しておられます。

 ここでは、自分と違う考えの「普通でないやつら(反日)」のブログや掲示板を荒したり、監視などと称して圧力を加えるなどの言論弾圧を行っても、それを全く問題であると感じない歪んだ感性だけが問題であると思います。それ以外に、個人がどんな思想を持ったり、それを自分のブログやサイトなどで発表しても、(差別文書など)他者の人権を侵害しない限りは、いちいちそれを「悪」として咎めることはない(できない)と思います。それは自分を彼らと同じ陥穽に陥らせることではないでしょうか?

 他人のサイトを荒すことと、自分のサイトで意見を発表していることは同じではありません。たとえ自分にとってどんなに気に入らなくても、明白に人権を侵害していない限りは、「意見の内容」という個人の思想信条を基準にして圧力を加えることが許されるはずもありません。

 自称「中道」も全く同じ。中道なんてもんは左右の範囲の決め方でいくらでも動くもの。何が中道かは、その時々の時代や地域における社会的諸勢力の力関係によって決まるのであり、それは常に暫定的で変化し続けるものです。坂本竜馬は幕末なら「極左過激派」で今風に言えば「テロリストの仲間」ですが、現代社会にそのまんまタイムスリップしてきたらバリバリの右翼です。だから普遍的に「中道なるもの」があるわけではない。くり返しますが、それは常に力関係によって決まるにすぎないのです。(拙文「『中道』について考える」)

 だから何かしら「中道」が良いものなわけでも、偉いものでもありません。腐れた社会の「中道」はやはり腐れているんではないでしょうか。だから問題は(その社会における)中道かどうかではなく、そこが(今が)どんな社会であるか、そしてこれからどんな社会を作るかなのです。常に自分を基準にする尊大で自己中な態度では、時代も地域も超越して、たとえどんなに極少数派になろうとも、常に自分が「中道」になるにきまっています。そんな自己満足に何か意味があるのでしょうか?

 思うにこれはおそらくウヨサヨの問題ではなくて、この手のお調子者の付和雷同分子が、昔は左翼につき、今は右翼についているだけのことであろうと思っています。こういうネトウヨさんの態度(排除の論理)は、かつての左翼運動の中にも多く見られたものですし、「反革命」というレッテル貼りが、ネトウヨさんにおける「反日」と同じような使われ方をしたこともあります。

 つーか、私は彼らを見ていると、一昔以上前の左翼運動の醜悪なパロディを見せられているようで、猛烈に恥ずかしくなることがあるのです。レッテルや線引きで排除し、線の向こうに排除した後は何をしようがどんな手段で叩こうがかまわない、それこそが「よりよい世の中」を作るのだ、一言でいえば「やつは敵だ!敵は叩け!」という以上の内容をもたない、窮屈で幼稚な政治はもうコリゴリです。左右のどちらがこういった幼稚な政治から早く脱却できるかということだと思います

注)当サイトでは、右派的考えを持った市民一般ではなく、その中でもコメント機能などを悪用して他人の善意を揶揄することに使ったり、荒し行為や、高圧的な書き込みで目的意識的に相手の言論を萎縮させるなどの悪質な言論弾圧を行う一部の人のことだけを「ネトウヨ」と呼んでいます。その裏返しの「ネトサヨ」というのもあり得ます。もちろんあなたは違いますよね(笑

「大日本帝国は民主国家だった」そうです(苦笑

特高警察の拷問で殺された小説家の小林多喜二(写真は特高警察の拷問で殺された小説家の小林多喜二)

 他人様の領域にて、その方の書いている趣旨とは関係ない「論争」を軽くしてしまいました。反省です。
 もともとは相手さんがご自分の主張の宣伝を「誤りなき事実」のように書き込んできたのが発端ですので、私としては単に「いっしょにされたくない」と思っただけなのですが、もう少しやり方もあったかなと…。

 とりあえず、最後の投稿がやたら長文になってしまったので、全部を投稿することを諦めて、一部の抜粋だけ投稿しておきました。しかしせっかく書いたものですので、こちらに全文を掲載しておきます。

—— (転載ここから) —————————-

 通説はだいたい以下のようなものでしょう。
 『明治憲法は天皇主権であり、議会や内閣も天皇の下にあった。「民主的権利」は法律の枠内で恩恵的・恣意的に与えられていたものにすぎない。なお、主権の変更は憲法改正の限界を超えているので、日本国憲法は帝国憲法の改正ではなく、新憲法の制定である。そして、天皇主権から国民主権になったのは良いことだ』

 なお、「民主的な運営」をするか否かが、主権者であるたった一人の人間の脳髄に委ねられているなら、たとえ「実質的に」どんな運営がされていようとも、ありとあらゆる意味でそれを「民主国家」と呼ぶのは誤っています。それは「実質的」という言い訳をつけようとも同じです。ですから、帝国憲法下で民主的な運営がされていたかどうかを論争する必要すらありません。少数派が保護されない「多数派独裁」も民主国家ではありません。

 私はこのような通説によっているのであって、誤っているだの勉強しろだの、まるで自然法則を論じるみたいに言われても困ります。通説を否定するのは悪いことではありませんが、通説を否定する方が通説を信じている人を丁寧に説得するのが筋ではないのですか?最近、極少数説をバンと提示して、それを信じない奴は「馬鹿か左翼だ」みたいな、尊大な勘違い野郎をネットでよく見るので、この機会に苦言を呈しておきます。

 なお、「大日本帝國は実質的民主主義国家であった」という物言いは、天皇制や明治憲法を肯定的に評価するイデオロギーが、かかる通説に屈服・妥協する中から生まれたものだと思っています。つまり共産主義者にとっての六全協路線みたいなものですが、どちらにせよ、かかる言い訳をしないと左右ともに延命できないまでに現行憲法の趣旨が定着しているということでしょう。その是非はともかくとしてもです。

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中核派について(再掲・より幅広い大衆戦線のための提言)

マル学同中核派
 以前に書きました「一日共闘集会の報告」の最後に、補足として付け足した文章です。
 上記のエントリーに対していくつかコメントや反応をいただきましたが、この「補足」に対するものが多かったです。また、エントリー下段のわかりにくい所にありますので、「あの文章をもう一度読みたいけど、どこにあったっけ?」などという問い合わせもいただきました。そこでわかりやすいように別エントリーとして、いただいたコメントともどもあげておくことにしました。

【再掲】より幅広い大衆戦線のための提言

 さて、最後に一言、言わなくてもいいことを言っておきますか(笑)。
まあ嫌われ役ということでご容赦願います。

 今回の一日共闘に参加したいくつかの団体(もちろんすべてではない)と、党派としてつきあいがあるのは唯一中核派です。だからこの集会を「中核派系」だと思っている人も多かったんではないかな?ここまで書いてきたように、内容的にはそんなことはなかったし、党派色もまったく感じませんでした。誰でも参加できる楽しい雰囲気の、良い市民集会だったと思います。ですがそういうこともあって、私がおつきあいのある方でこの集会に参加したのは、元中核派、元戦旗派、良くも悪くもそういうことにはこだわらない戸田さんというところ。後はみんなさめた目で見ていた。だからちょっとデモをしながら気分は暗かった。そういう皆さんには、「管制塔被告連帯キャップ」をかぶって、それをよく見えるようにしながら会場を歩きまわってきたことを報告しておきます(笑)。

 実は過去の潮流として私のような系列の人と、中核とおつきあいのある系列の人が、まがりなりにも同席できるのは全国的に名古屋だけなのです。後は全部バラバラの別々です。これは正直に言わせてもらって、残念なことだと思います。原因を言い出せばお互いに言い分があろうと思うし、また泥沼にはまるのですが、20年ほど前の中核派が、反体制運動をしていた非常に多くの団体や個人を「反革命」つまり国家権力や右翼と同じ存在であると規定して、暴力的な襲撃や恫喝などをしまくったという経緯があるのです。一番酷い被害にあった人は片足が壊疽をおこして切断せざるを得ませんでした。私の周囲でも被害にあった人がいます。その頃の運動や組織防衛にあたった苦労は忘れがたいものです。特に学生運動での被害は甚大で、主だった地域から中核派系以外の学生運動は根絶やしにされました。短期的には「中核派の天下」となりましたが、長期的に見れば中核派を含む学生運動そのものの衰退を招来してしまいました。一般学生との隔絶は、その後長きにわたって埋めがたいものとなった。

 なによりも、この頃に被害にあった人々は今でも多くの市民運動を担っていて、その頃の苦しみや悲しみ、中核派に対する不信感は世代を超えてごく自然に伝承され続けているのです。だいたい中核派の方は、この事態にいたるまでの論争経過に遡って自身の正当性を語る方が多いのですが、そういう問題ではないと思います。「中核派は自分に逆らう者を平気でテロる」「中核派が同席したら自由にものが言えなくなる」「近寄りたくない」「あいつらを入れたら滅茶苦茶になるんじゃないか」という、消えがたい記憶、無関係の人にとっては「敬して遠ざける」抜きがたい雰囲気を残したことが最大の問題なのです。

 中核派はその後、こういう方針をあらため共闘関係重視の路線に転換しました。それは非常に良いことだとは思います。ですから、その路線転換以降に中核派の運動に参加された方は、連帯や共闘を求める自分たちが「不当に排除」されていると感じることもあるようです。でも、これも違うと思います。だって、中核派は当時のことを一度だって謝罪も自己批判もしていません。だったら当時のことを今でも「正しかった」と思っていると判断されて当然です。だったら共闘関係重視の「路線転換」も信用できない。

 本当に中核派の人は、この頃のことをびっくりするほど軽く考えている。それはもう信じられないくらい、唖然とするくらいにそうです。「殴られたほうはその痛みを一生忘れないが、殴ったほうはすぐ忘れる」とはよくぞ言ったもんだと思います。自分たちのしたことが、相手に与えた心や体の傷、人間としての屈辱や激しいショックを、たった10年や20年ぽっちで水に流せる程度のことだと考えているのでしょうか。その感性は到底信じられません。あなたがたのせいで一生をむちゃくちゃにされた人、正義感をもってはじめた運動から泣く泣く追放されていった人々の苦しみ、悲しみ、怒りが本当にわからないのですか。

 たとえば権力や右翼に襲撃されたり、そのために普通の人生を歩めなくなっても悔いはなかったでしょう。たとえその後に運動から離れても、自分なりに納得のできる記憶になっていたはずです。けれども勝手な「内ゲバ」で襲撃されてそうなった人には、悔やんでも悔やみきれない、苦しんでも苦しんでもまだ足りない、恨んでも恨みきれない、暗い暗い悲しみが残るのです。「汚れちまった悲しみに」という詩があります。権力の襲撃を「切ない悲しみ」とすれば、中核派から受けた傷は、思い出すのもやるせない「汚れちまった悲しみ」です。

 それでも、こういう当時の中核派の被害者の大部分は、中核派のことを一生許さないとは思いつつ、だが中核派を権力と同レベルに扱ったり、ましてや「反革命」などと呼んで敵対することはありませんでした。法政大学の弾圧への抗議にも、こういう多くの人が名をつらねてくれました。中核派の方は、このことの重みを100万回でも認識するべきです。そのことを涙ながらに訴えます。

 これらのことは今まで何回も書いてきたし、これからもしつこく書き続けます。そしてそれは、お互いが手をとりあえない現状を不幸であると感じ、深く悲しんでいるからなのです。そのことをわかっていただきたい。

 中核派が各地、各戦線での共闘関係に入って共に闘える日のくることを望みます。そのために、当時の所業に対し、「謝罪」もしくは「一方的な自己批判」を行われることを提案し続けたいと思います。もちろん、そのようなものを出したからと言って、翌日から諸手をあげてみんなが中核派を受け入れてくれるなんて考えてもらっては困ります。実際、それを正式に評価したり、受け入れ表明するところは皆無に近いと思います。

 人によっては、襲撃の前提となった論争についても、中核派の自説を撤回しろという人も出るかもしれない。それは拒否してもいいと思います。私もそこまで遡る必要は認めない。「我々の主張そのものは正しかった。だが、起こしてしまった結果について責任をとり、謝罪する」「今後は意見の違いを認めあい、二度とあのようなことはしない」そういうことでいいと思います。

 これは、短期的には中核派だけが政治的に傷つくことになるかもしれない。現場活動家も、しばらくは針のムシロでしょう。離脱する人もいるかもしれない。だからこそ、こういうものが出せないのでしょうね。でも、それは絶対にさけて通れないことなんです。けれども、これは逆に中核派の権威を高めることにもなる。それは5年後10年後には必ず生きてきます。もちろんそれまでに手のひらをかえさず、自己批判の精神を実践で示し続ければという前提はつきますけれども、必ず中核派にとってプラスになります。それは疑いがない。

 いえ、中核派だけにとどまらず、日本の反体制運動全体にとって、はかりしれないくらいに大きなプラスになることです。どうか真剣に考えていただきたい。今のままでは八方ふさがりです。勇気のある一歩を踏み出してください。それができる組織なら、私も応援することができます。

 いつかは絶対にやらなくてならないケジメです。そういうものは先延ばしせず、早ければ早いほどいいのです。さっさとやっちゃって下さい。今すぐに。何の痛みもなく、当時のことを水に流せるほど、この世は甘いところではないのです。だいたい、それすらできないのなら、いくら勇ましいことや立派なことを機関紙やビラで書かれても、当時を知る人民の立場からはむなしいだけなのですから。

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