日本人3人が「在日」について語っています

racism
 前の投稿に関して、羽賀さんからのコメントが発端になって続いている問答です。ここんところの更新はみんなこの問答へのレスでして、かなりの分量になりましたので、多くの方に読んでいただきたく、ここにスピンオフ(転載)します。

 なにぶん、日本人3人で深い知識もなく「在日」のことを語っているもんですから、気づかないところで地雷を踏んでいるような予感がしています。そのあたり特に私の発言について指摘していただければと。できれば私以外のここを読んでいる第三者にも理解できるような言葉で語れる方の指摘であればいいなと思います。

 なぜなら、在日韓国・朝鮮人と一口に言っても、たとえば政治的にも保守から左翼からノンポリまでいろいろおられますし、考え方は千差万別です。私の知っている在日の方々は、たとえば普通に神社に初詣するような人たちが多かったし、一見すると「違う」と感じることでも、よく話を聞いてみれば、なるほどもし日本人が彼らの立場だったら、同じような言動をするだろうなということが多かった。欧米人ならまた違うんでしょうが、むしろ日本人の感性でなら理解できることが多かった。だから在日の人たちに何かしら自分の思想や思い込みにあわせた役割人格を押し付けることには、強い違和感を持たざるを得ないのです。

 ツィッター上で繰り広げられた「仲良くしよう(ぜ)」論争も、確かに「このスローガンは日本人としての加害性を無視している」という意見を、日本の人たちが自己を捉え帰す中で持つのは素晴らしいことで、それは100%正しいと思います。そしてこういう方の周囲には、それを受け止めるだけの意識をもった在日の方がおられるのだろうなと思う。
 一方で、このスローガンに対して、それはおかしいと、とっさに切り返すような在日の方が、とりわけ30代以下の若い世代でどれだけおられるのかも疑問に思いました。むしろ、ヘイト「デモ」に対して日本人がこういうプラカードを掲げてくれたことを、素直にうれしいと思う在日の方も多いはず。それはどちらも在日の方々の本当の声なんだと思います。そのことは前提にしないといけない。

 確かに差別問題というのは、加害性の問題を無視したところの上から目線で「差別反対」を言っても、それはやがて「お前らのほうがよほど差別者だ」と言いたくなる、おそましいものに変質してしまうことは避けようがありません。だからそこは「どちらが在日の立場や歴史性を理解・擁護しているか」みたいな地平で相手を攻撃するのではなく、あくまでも日本人としての自己の内在性を省察できるようなものとして、日本人の問題として深めてほしいなと思うのです。その上で「仲良くしよう」にまた新しい意味をこめられるなら、それをカウンターに参加するみんなで共有していけるのなら、それはそれで「あり」ではないかとも思うのです。

 私は以上のような問題意識を持つものです。ご意見がありましたらお願いします。
 なお、もし批判されるとすれば、それは羽賀さんとなおじさんの「素朴な疑問」に対して頓珍漢な「回答」をした私に対するものであるべきだし、私の間違った回答を正すという形で行われるべきものだと思います。異質なものに対して漠然と不安や疑問を感じるとしても、そこまでは別に「悪いこと」ではないと思います。そこから一歩踏み出そうとした人を叩くようなことは筋違いです。それを変な方向に導いたみたいな点で叩かれるのなら、仕方ありません。私の気がつかなかった点を指摘していただくのは歓迎です。
 あと、こういう他人様の意見を紹介(転載)した時に限ってはいつものことですが、紹介させていただいた方へのご迷惑をさける意味で、あまりへんてこりんな叩きや煽りや荒らしは削除させていただきますので、あらかじめご了承ください。

———【転載ここから】————————————

羽賀 より:2013年7月13日 6:39 PM

私のコメントに、大きな反感と憎悪を買ってしまったと思い、しばらく遠ざかっていました、
もし、許容できないと思われるようでしたら、削除してください。

多文化共生を、国内に当てはめて考えた素朴な感想ですが、日本の各地方・郷土の文化は、その地方にあるから意味があると思うのです、極端な仮定ですが、大阪や兵庫の「価値観・文化」を、山形や秋田でそのままの形で維持し共生し続けることは、良いことで、推進すべき素晴らしい事なのだろうか、と考えた時に、否定的な感情しか浮かばなかったことです、うまく、理屈で表現することができませんが、今地球という惑星規模で、実現している多文化共生を、むりにスケールダウンして、モザイクにすることが、はたして「良い」ことで、積極的に進めるべき事なのだろうか?と思ってしまうのです。

ただ、差別や暴力による排除などは論外で、それを認めるわけでありません。
とりとめのない話で、申し訳ありません、衆愚のたわごとと思って流してください。

———
草加耕助 より:2013年7月13日 10:55 PM

私も羽賀さんと同じくうまく言えませんが、ただ、大阪や兵庫の人が山形や秋田に住むことは実際にあるわけですよね。中国・四国地方にルーツのある方は関西にも多くおられますし、東北地方にルーツのある方も東京に多くいるという感じでしょ。そういうのはもう社会が発達していく過程では仕方ないんですよ。今はそれが地球レベルでおこっているんです。

いいことばかりじゃないのは私でもわかりますよ。でもこれは長期的には止めようがない。だから知恵を出していくしかない。安倍政権は耳障りのよい「女性の社会進出」という言葉で、女性を「私的」な家事や介護の場から、労働市場に引っぱり出すことによって、少子高齢化による労働力不足を解消して経済成長も続けられると言いますが、実際には根拠のないことでしょう。

確かに「多文化共生」という言葉は、かつて私も好きでしたが、最近では懐疑的になっていることは事実です。ただしこれを超える理念は私ごときでは思いつきませんので今でも使っています。が、やはりエントリ本文にありますように、「重要なのは一つの『正解』ではなく、たくさんの、本当にたくさんの留保をつけながらでないと、社会運動は暴力になりかねないという理解」なんだろうなということです。

モザイク的な文化についての印象ですが、単に印象の問題で言えば、私のもつ原体験が大きいのかもしれません。そのことについては過去のエントリで書いたことがあります。
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=3976
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=3993
私にとってそれはとても居心地のよい、素晴らしいものでした。それも左翼がどうのといった政治的な世界ではなく、もっと日常の仕事や市民生活の中で経験したのがよかった。左翼時代も確かに「多文化共生」ではありましたが、誤解を恐れずに言えばそれは「正解」が限られた平板な世界で、あまりモザイクといえるほどのものではなかったように、今となっては思えます。

羽賀さんのあげられた地域文化についても、特にここ20年ほどは加速度的に、東京的な単一文化に染められ、地域の顕著な特色や言葉が失われているようで不満なのです。「県民ショー」とかで面白おかしく紹介される「地域の常識」なんかでも、関西が紹介された放送回を見た印象では、40代とか50代以上の人でないと通用しない「常識」もかなり含まれているように思います。逆に10代や20代でないとわかんないものもあろうし、そういうのを全部ひっくるめて安易に「何々県民の常識」としているだけで、実際には地域の特色が絶滅していく過程にある。そういう単一化は私は好きでないんです。

逆説的に言えば、日本文化を大切に思うのなら、むしろモザイク化は必要で、そうでないとアメリカ的な「常識」に日本なんぞは簡単に飲み込まれてしまう。多文化共生を社会で普通に語れるような国のほうが、むしろアメリカ的なるものに対抗意識や独自性を主張する傾向があるんではないかと。まあ、その内容が何かしらよいものであるのかどうかはわかりませんがね。

最大限綱領的に(「それができれば苦労はないよ」的なレベルで)言うならば、結局は「すべての人が自分らしく生きられる社会を」「『生き方』を強制するな」「どんな『生き方』を選択しても制度的・法的に不利になってはいけない」ということになろうかと思います。エントリ本文にある「個々のメンバーの状況を丁寧に見ながら個々に判断するしかない」という言葉は、つまりそういうことを言っているんだと思います。私は自分の原体験から、なんでそれが普通にできないのか、なんで他人に自分の生き方を強要するのかと思います。それはイデオロギーの社会的な再生産、つまりそうすることによって得する人がいるからで、社会変革の闘いなしに差別はなくならないということになるのですが、一方で「みんながそう思えば簡単なこと(ジョン・レノン)」でもある、つまり充分に実現可能なことでもあると思うのです。

———
羽賀 より:2013年7月15日 11:41 AM

草加様へ
表現が稚拙で、伝えたいことをうまくかけません、ごめんなさい、

たとえ話で言いたかったことは、大阪兵庫の家族の人が、山形秋田の地で4世代5世代にわたって、関西人として関西文化を主として持ち続けて生きるべきかと、考えた時の違和感でした。

出身は関西だけど、わたしらこっちの人間だよっていうのが、そこに定住する人の素直な感情だと思うのです。それをしない人できない人 というのは、帰ることが前提か、その地に嫌悪感があって一緒になりたくない人でしょう。
 
わたし自身考察すると、帰る地があって、そのつもりでいる人には、ああ、外の人なんだなあって感じますし、地元がきらいって人とは(何で嫌うのって聞きますが)、距離をおいてしまいますので、どちらにしても、地域住民の一員というより、お客様としての認識に近いかもしれません。
 
ですが、上記のように帰る予定・地元を嫌いな人が、ここに住んでるんだから集落の補助をもらいたい、それは権利ですよって物言いをしたら、それが正当なことでも、なにがしかの嫌悪感情が芽生えてしまうのを、否定できません、冷静さと品位を保つのは、高度に知的な振る舞いなのだなあ、と反省をしてしまいます。

※先住民としての少数者と、ごちゃまぜにしてはいけませんので、頭の中を整理するためにたとえ話にしました。

———
なおじ より:2013年7月15日 2:59 PM

こんにちは。
横からごめんなさい。羽賀さんの例え話を読んで、どうしてもコメントしたくなりました。
4代5代と生活し続けているのに、「その土地の文化に馴染まない人たち」に対する違和感、ということでいうと、今現在の日本でも、受け入れ側の土地によって随分違うんじゃないかと思います。
そして私の経験から言わせていただくと、「よそもの」に冷たい土地というのは、その土地で生まれ育った「地元民のマイノリティ」にも冷たいです。結局、そうゆう土地は、「ありとあらゆる少数者属性」に対して冷たいんですね。
怪我や病気などで、人はいつ「地元民のマイノリティ」になるかもしれません。
そうゆう観点からも、私は「そうゆう土地柄」は、見直した方がいいように思います。
ズレていたらごめんなさい。

———
草加耕助 より:2013年7月16日 12:05 AM

羽賀さん> なおじさん>
おそらく「日本に文句があるなら出て行け」みたいな差別言説をめぐる論議に相当するお話なわけですよね。これはおそらく在日市民や朝鮮系日本人、その他のマイノリティや反差別運動の界隈ではさんざんに語りつくされてきた話題であると思います。国連などを舞台に国際的にも議論されてきて、羽賀さんには不満でしょうが、少数派が言語や文字を含む自民族の文化を保持することは「人権」として認められてきました。それを前提にして中国への批判がなされていますので、その権利を認めない前提では、中国への批判の正当性の半分以上は失われて「内政干渉」と紙一重になりかねません。エントリ本文の「実際にも、各自治体の多文化共生課では云々」というのは、こういう国際的な議論を前提にした流れなわけで、唐突にポンと出てきたわけではありません。ですがここでは、そういう歴史的な議論はそれとして念頭に置きつつも、羽賀さんの問題意識と、なおじさんの提起にのって、日本人の一人としてもう少し素朴に考えてみたいと思います。

「その土地に馴染まない人」と「よそものに冷たい風潮」というのはわりと鏡のような関係にあるような気がします。よそものに冷たいから、いつまでたってもよそからきた人が馴染めない。で、否応なく人が交流して移動するようになると、「昔はよかった」「出て行ってほしい」みたいなことを言う。それが差別だという自覚もなく人を差別してしまう。それは悪循環で、この場合はやはり多数派の「よそものに冷たい風潮」のほうを先に見直すほうが住み心地というか風通しはよくなると思います。ただ、なんとなく異質なものを不安に感じること自体は人の自然な本能で、そこまでは悪くないと私は思います。ですが、だから「近寄りたくない」「近寄るな」「一緒になれ」とまで言ったらそれはダメなんじゃないかと。相手は動物ではなくて人間なんだから。で、実際に近寄って接してみたら、文化が違おうがなんだろうが、人間としては別にたいした違いは実は無いんです。

「馴染まない」というのをどの程度のことを言うのかわかりませんが、いちいち「ここが違うあそこが違う、やっぱりよそ者だ」とか細かくチェックしなくてもいいんじゃないかと。溶け込んでしまう人もいるだろうし、独自の文化みたいのを受け継いでいる人もいるでしょうが、別にどちらも悪いことをしているわけじゃなし、そんなの人それぞれでいいと思いますけどね。欧米では「文化」と「宗教」はセットになっているから、その変更を迫ったり、少数派を迫害して自分らのものを押し付けることが人権侵害だとすぐにわかるのですが、「文化」という言葉だけだと、きっとそのへんの感覚が鈍くなるんでしょうね。

だいたい在日の人も世代を重ねると、普通に自分の「生まれ故郷」に対して日本人と同等か、むしろそれ以上の愛着をもっていますよ。そちらのほうが、単なるイデオロギーにすぎない「愛国心」なんかより、よほど健全で自然な感情だと私は思いますけどね。もちろん「よそものに冷たい風潮」には不満もあるし抗議もします。でもそれとこれとは別問題だと思うのですよね。そこはむしろどんどん抗議してほしいというか、抗議を受けないと、それが差別だと気がつかないことってたくさんありますし。それでいいじゃないか、なんの不都合も無いじゃないかと思います。

以下、地域の話が出たのでちょっと思いついた余談です。

関西で言うと、大阪という土地はわりとよそ者に寛大な面もあるんですね。その雑多性が大阪の魅力でもあるんです。京都は排他的と言われますが、その逆の面もあって、京都を代表する経営者や地元政治家は、意外と「よそ者」出身者が多い。そういう人をとりこんで「京都化」してしまう。そうやって外のパワーをとりこむことで「過去の街」になることから逃れてきた。純血種だけではやがて衰退していくことをよく知っている。神戸はよく知りませんが、関西が昔から人口比に対して在日が多いのは、単に地理的なこと以外に理由があると思います。もちろんだから差別が少ないというわけではありません。むしろ日常的に接するがゆえに、差別の現場にも多く接するわけですが。

そして京都の在日の方はやっぱり「京都人」なんですよ(笑)。んで、在日の方から聞いた話なんですが、在日同士の集まりの中では、その中で、京都人と大阪人の(他府県人からはどうでもいいような)お決まりの対決というのが日本人同士と同じようにちゃんと繰り広げられたりするんだとか。京都の中だけでは在日の人はやはり「ちょっと違う」と思ってしまうわけですが、よそから見たら「やっぱり京都やのう」ということになる。それで、最近はニューカマーの中国人が増えてきましたが、彼らと比べると、もう日本生まれの在日朝鮮・韓国人なんて、日本人と全然いっしょやんと思ってしまいます。

政治的には極右支持の漫画家の高信太郎さんが本で書いてましたが、日本人から見れば韓国人は違って見えるかしれないが、実は日本人と韓国人は国民性がそっくりで、欧米人からみたら日韓の文化対立なんて、大阪人と京都人の争いみたいなもんで、ほとんど同じ文化なんだそうです。対して中国は欧米人から見ても日韓とは明らかに異質。だからネトウヨさんは「中韓‐日」とわけたがるが、本当は「日韓‐中」が正解。ゆえに日本人と韓国人の文化衝突の正体は、「違う」ことではなく「ほとんど同じなのにちょっと違う」ことで発生する「あれ?」という部分なんだそうです。なまじ似ているから普通に会話が成立するのに、要所要所でお互いの常識が通じないから、むしろ「なんだあいつら」と強い反感をもつ人や、逆に「韓国人っておもろい」とすごく好きになる人もいるのだと。

あと、芸能人とスポーツ選手と裏社会に在日(と被差別部落)の人が多い(多かった)のは、つまり日本社会に差別がある証拠でもあります。ネトウヨ言説にある「街宣右翼に在日が多い」というのも一緒で、これは単に暴力団に在日が多かったということの結果であり、それも差別の現われなんですよ。イスラエルでもアジア・アフリカ系など有色人種のユダヤ人兵士は、差別されて危険な地域にばかり投入されるんですが、それでイスラエルのアパルトヘイト政策などの人種差別に疑問を持つかといえばその全く逆で、むしろイスラエル社会で認められたくて、有色系の兵士は普通以上にパレスチナ人を見下して酷い扱いを積極的にする傾向があるんだそうです。在日が右翼になるというのもそれとちょっと似た悲しい話だと思います。

———
羽賀 より:2013年7月17日 7:59 PM

ていねいな回答、ありがとうございます。私自身、部落の人間で同盟員でもあります、自分では分からない、排他性があるのだと思います。

返答の返し方として妥当か、ちょっとわかりませんが、いわゆる在日の方(朝鮮半島の出身という意味です)は、本当に大部分の方は、日本人と変わらない感性で、何が違うのか?と、疑問に思うのが普通だと思います、

あえて、問題提起するとすれば、意地なのか利権なのか理由は良くわかりませんが、同じ在日の方の帰化に対して、強く反対し邪魔までしてくる空気があるそうです、私の周囲だけの問題なのか、全国に共通した問題なのか、どうなんでしょう?お互いに一緒にやっていこうとういう気運を、わざとつぶしているようにも感じます。

———
なおじ より:2013年7月18日 2:56 AM

草加さん。いろいろ教えていただき、ありがとうございます。
羽賀さんに倣うようになりますが、私自身についてお話しさせていただくと、私は日本国籍の両親の元に生まれ、本籍も所謂、被差別部落と云われる地域ではありません。ですから、日本国籍じゃないとか、被差別部落出身だとか、という差別を受けたことがありません。ただ小さい頃から、身体能力が他の子たちよりかなり低いこともあって、その点においては、まあまあ差別されてきたように思います。そして最近になって、それらの分野の専門医でもある主治医から、「あなたは、普通の人より少しだけ、他人の心を察する能力や身体を使う能力が、生まれるつき低いのかもしれないね」とアドバイスされました。そんな私がまた横入りするのがいいのかどうかわかりません。わかりませんが、羽賀さんの新しいコメントを拝見して、羽賀さんにというより、草加さんにお伺いしたくて、またコメントさせていただきます。

羽賀さんの新しいコメントを読んで、「同胞」が日本に帰化(嫌な言葉ですね)するのに反対する在日の方の気持ちって、反対する方によって違うのでしょうけれど、「そんなことをすれば、あなたはあなたでなくなる」「あなたに不幸せにはなって欲しくない」という、思いやりの気持ちから反対される方というのも結構いらっしゃるんじゃないかと思うんですね。で、草加さんにお尋ねしたいのは、反対される方のそういった気持ちや行動というのは、思いやりに起因する「お節介」だと言ってしまっていいものかどうかということです。この辺が私にはよくわからないのです。長々とごめんなさい。

———
草加耕助 より:2013年7月19日 11:25 PM

「帰化」については在日の方にとっては微妙な問題らしいので、私がどうこう言うことではないのかなという気もします。国籍や民族とかほとんど意識しなくても生きられるという特権を有した私たちにとって、そのあたりにからむアイデンティティが人生さえも左右してしまう、そしてどんな選択をしても大きな困難があるというのは想像しがたい人生です。その意味で、本人も周囲の人も気軽に語ったりはできないし、まして家族でもない他人が押し付けたりしてはいけない問題なのかなと思います。

だから私もさすがにこの話題につきましては、在日の方から聞いたことも質問したこともありません。彼ら同士で話題にしている現場も見たことがない。ただ、「だったらおまえなんか、さっさと日本人になってしもうたらええねん」と罵倒されて泣いたというエピソードを伝聞で聞いた程度です。

ゆえに私もお二人と同じで、この問題について客観的に語れる当事者の方に教えてほしいと思います。つまり私に聞かれまして「教える」どころか学ぶべき立場の人間なのです。たとえば韓国では、日本で生まれ育って感覚が日本人とほとんど変わらない在日に対する「半チョッパリ」という差別用語もあるようで、感覚的にはそんなのナンセンスだとは思うのですが、そのことについて語るのは、アメリカで能天気に「アメリカって黒人差別が酷いんでしょ?」とか何も知らずにあっけらかんと語るようなもので、かなり地雷の可能性があるかと。

そんな韓国では在日の人が「韓国人同胞」として生きることを立派とする風潮があるようですが、これって考えてみたら、かなりネトウヨ的な発想ですよね。「日本人とは何か」と言えば、それは「日本国籍を有する人」という以上の意味はないのに、そこに過大なイデオロギーを押し付けて、「帰化したからには『日本人』として生きるのが当然」というのも、まあネトウヨ的なんですが、それはちょっと前までの日本人の「常識」だったわけで、実は日本と国民性が似ている韓国でも同じ意識なのかなと。つまり「帰化」した人というのは、「祖国と同胞を捨てて日本人になった人」という意識だったんではないでしょうか。ある意味で裏切り者みたいな。パレスチナでも自分の土地にとどまった人のうち、イスラエル国籍を取得したパレスチナ人を「裏切り者」扱いする風潮があるそうです。実際にはイスラエル国内ですごく差別されていて、支援が必要なのにもかかわらずそうなんですね。

ただ、在日の方々のこういう意識も、昔にくらべたらかなりゆるくなっているそうです。冒頭に書いた「日本人になってしまえ云々」とか発言した人は、「あんなんだからいつまでたっても結婚できないんだよな」とか他の在日の方から言われてました。これは左翼的には言いにくいことなんですが、被差別部落とか他の大衆的な反差別戦線でもそうなんでしょうが、あんまりゴリゴリの人は仲間内でも「ちょっとは空気よめよ」とか思われてしまう。結婚相手にしても、特に男は韓国から「嫁」をとるのが同胞として立派(実際そうして韓国から嫁いてきたという方がいました)、日本人と結婚するなんて言語道断というのがほんの数十年前までの意識だったみたいですが、今では結婚相手の過半が日本人との自由恋愛(死語)です。すると生まれてきた子供は日本国籍にすることが多いではないかと想像します。特に総連系の方は子供を「北朝鮮籍(日本では無国籍扱い)」にしたいと日本人の配偶者に主張するのは、かなりの勇気がいるというか、ほとんど無理でしょうから。

私も聞いて驚いたんですが、今や朝鮮学校の生徒でも、場所によっては日本人(朝鮮系日本人)の生徒が過半数なのだそうです。これって、私が子供の時代には考えられないことです。李恢成の小説でも、親が「帰化」したために日本国籍になった在日の話が出てきますが、彼は朝鮮人としてのアイデンティティを持ちながら、あらゆる在日のコミュニティから「『元』はダメなんだよ」とか言われて排除されてしまいます。つまりそれは、あくまでも国籍を含めて朝鮮(韓国人)としての自分を、日本社会の中でも突っ張りぬいて生きるか、祖国も民族も同胞も捨て、日本人以上にとことん日本人になりきるかの二者択一の世界なわけで、今でもそうなのだと思っていました。それが日本人や韓国籍の親が、自分達の民族の言葉や文化を学ばせたいという理由で(特に小学校)子供を朝鮮学校に通わせ、それを学校側も受け入れているわけです。また、私たちは何かと総連と民潭をきっちりわけたがりますが、実際にきっちりわけているのはゴリゴリの人だけで、一般の在日の方のとってそれは町内会の感覚で、両方の行事に参加するのは当たり前、はなはだしきは両方の役員(下のほうですが)を兼ねたりとかもあるらしい。

つまり総じて、実際の「生活者」としての意識や都合が世代を重ねるごとにまさっていくのかなと。さきにあげた高信太郎さんが言うには、こういう溶け込むスピードが早いところも日本人と韓国人が似ている点で、他国に暮らしながら何世代でも比較的に独自性を残せる民族は、せいぜい華僑とユダヤ民族くらいのものではないかと高さんは言っておられます。

90年代頃には私の周りでも、「朝鮮系日本人」を名乗るか、そういう生活をする日本人がぼちぼち出てきた感覚です。かつては「日本国籍をとったら最後だ。朝鮮人として生きる日本人を容認するほど、日本社会は寛大ではない」という認識が在日の人の間でも強かったです。そして上に書いたような理由で在日の人口がどうしても徐々に減っていくことに対する危機感もありました。けれども、国籍に関係なく、自分のルーツを大切にしたければしたいで、朝鮮系日本人という選択があってもいいと思います。在日の上の世代の「日本人がそんなに寛大なわけがない」という予測をくつがえせればいいのになと思います。そのためには日本人もそして韓国人も、もっともっと変わってほしいと思いますが。

———
なおじ より:2013年7月20日 5:06 AM

草加さん。今回も丁寧なレスありがとうございます。
また疲れていらっしゃるのに、こんな長いコメントを結果的とはいえ書かせてしまい申し訳ありません。
私はまだこのサイトの全文を読んだわけではありませんが、てんかん患者さんに対する差別への抗議のエントリーとかを読んで感じたのは、もっともっと知らなければいけないことがたくさんあるんだということです。もちろん知ると云っても、血の通っていない、いうなれば「記号でしかない知識」を得るのではなく、人間として生きている・生活者である差別されている人たちの実情に触れるということが大切なんだと感じました。そして、人間に相対する時は、もっともっと慎重にならなければと。

ところで最近、そんな私の心にドキューン(?)と刺さった言葉があります。

「わかりあうことは難しいけど 分かち合うことは僕にもできる」

有名なグループの新曲の一節です。具体的に説明するのは難しいのですけど、このフレーズを知ったとき、なんかグッときました。ただこのフレーズはかなり抽象的ですね。この文を書いてて、「いやむしろモノによったら、分かち合うことのほうが難しいってこともあるんじゃあ?」とか思ってしまいました。でも、できることはどんどんやっていきたいです。
なんかとりとめがないコメントでごめんなさい。
最後にもう一度、今回も本当にありがとうございました。

———
羽賀 より:2013年7月20日 7:06 AM

こころのこもった返答ですね、ありがとうございます。

私も、上っ面の議論をするつもりは、ありません、人の限界というものも理解しているつもりです、

動物としての人間は、嫌なことをされたら、相手を嫌いになります、
「本人、または自分の仲間と認識している人が、うけた行為を基準にする人」
世代をこえて敵対関係が継承される教育を受けていると、相手を嫌いになります、
「特定の相手を嫌う教育を、親の世代から受け継いだ人」

これはもう、すぐにどうこうできるものでは、無いと思っています、
客観的な「事実」と、各人の心の「余裕」が 絶対的に必要なことだと思います。

人は偏見を持つものなのです、残念ですが、それが現実です、
これは、情報の上書きをして、観念ではない本当の事実を「共有」することでしか、
解決できないもんだいなのだろうな、と感じています。

———
なおじ より:2013年7月20日 8:10 AM

連続投稿すみません。
羽賀さんのおっしゃる通りだと思います。ですが反面こうも思います。
「コスモス」や「コンタクト」などの著作や「核の冬」の提唱を遺したカール・セーガン博士は、

世界中から武力紛争を無くすなんて不可能だと多くの人が思っています。だけどそうでしょうか?例えば少し前まで多くの人が無くすなんて不可能だと思っていた奴隷制度は、今や世界中からほとんどなくなりました、、、、。

と語っていました。
残念ながら、この続きを私はよく覚えておりません。ただ、ライト兄弟を例にあげるまでもなく、人間は、「できるという可能性が証明されれば、やがてそれを達成するいきもの」だと私は考えています。
ただ、上の例に則していえば、南北戦争では両軍62万人もの死者を出し、リンカーンはかなり強引な手段で多数派工作をしていたなどを思うと、やはり「キレイゴト」だけでは決着しないのかもしれませんね。
たびたびの横入り、ごめんなさい。

———
草加耕助 より:2013年7月22日 3:38 PM

お二人の問題提起については、私も思うところはあります。それは断片的にですが、今までもいろいろ書いて考えてこんできたところではあるつもりです。直近では、非常に散漫で自分でも何を言いたいのかわけわからん文章ではありますが、以下のエントリがあります。
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=11750

人間は善でも悪でもなく、どちらも人間の真実の姿だと思います。そして何より人は弱い存在で、その弱さゆえに輝くこともできる。
そんな人間が一番残酷で分からず屋の手に負えない存在になるのは、自分が善を行っていると信じて他人を攻撃する時だと思います。神だの正義だのの名において行動するとき、人は真実の悪魔になりうるのだろうと。それはこれからの人類にとって(そして個々人の人生の一コマにとっても)、一番大切な歴史の教訓の一つだと思う。

人は悪というよりは弱いのだけれど、それでも私は正義は必ず勝つと信じて疑いません。ただしそれは1000年単位で見た場合のこと。一人の人生にはいくらでも理不尽なことがあり、時には悪が栄える時代が数百年単位で続くことだってあります。けれども、なおじさんがあげておられるように、かつては奴隷制が悪だという認識すらなかった時代もあるわけです。

なおじさんのおっしゃる「キレイゴトだけでは決着しない」というのは、左翼用語でいえば「下部構造」というのですが、要するにいかに理不尽な社会でも、その社会の構造で生き延びている(得をしている)人がいて、ちゃんとその社会なりに存続を可能とする構造ができあがっているということですね。さらにそれを正当化するためのイデオロギー(その時代の常識や道徳)があって、ゆえにその構造を変えるということは、その社会でうまく成功している、得をしている人たちと闘い、それまでの旧道徳を踏みにじって、これを打ち倒していくという過程がどうしてもでてくる。それが「政治」ということなのだと思います。

これは損得と生き死にの問題、つまり利害対立ですから、やはり自由や平等と愛を説くだけでは何も変わらないというのも真実だと思います。偏見は単に無知からだけでなく、その偏見が存在することを必要とする人々がいるからなくらないということもあるんでしょう。ゆえに「闘いだ!」となるわけですが、そこで最初に戻って、「正しい自分」が「間違った他者」を打ち負かして拡大していくみたいなイメージで本当にいいのか、それは自分が他者への抑圧者になっているだけではないのかという問題に戻るわけです。ほんの10人くらいのグループでも、運動の現場でばらばらに存在する個人にとっては、充分に脅威を感じる存在なのです。そのことをわかっていない人が多すぎる。

まさに私の考えは円環し、グルグル回るわけですが、私はこの円環が大切で、神ならぬ身の人間が、これでいい!というような絶対の真理とか正しさなぞ持ちようがないと思っています。いまどきそんなことは、少なくとも自分の身内に対しては誰でもわかることなのですが、いざ、外の人間、つまり自分とは価値観や意見を異にする人に対してそのことがわかっているかといえば、かなり心もとないのではないでしょうか。本当は自分が「外部」と認定した人間に対して、どんな態度がとれるかによって、その運動や個人の度量が試され、値打ちが決まるわけで、それこそが「セクト主義」の問題であると思います。

たとえば私は上のコメントで、普段は口にしないような「物分りのいい」ことも言いました(在日で意識の高い人から見たら地雷の2,3個踏んでるような気がするのですが、自分ではわかりません)が、だったらゴリゴリですべての差別にすごくとんがって(時には仲間内からも煙たがられても)反対してきた人はどうなるのだ、切り捨ててもいいのかということになりますね。韓国・(北)朝鮮の多数意識である、「どこにいても同胞として生きる人は立派」という民族意識も、本当のことを言えばナンセンスではないかという思いもありますが、それを日本人がどうこう言っていいのかという悩みも持っているし、持つべきだと思います。すると今度は完全に「日本人」になりきろうと「帰化」した人は「裏切り者」でいいのか、あるいは差別される側に帰って来いと要求するべきなのか、それもちょっと違うのではとか、さらに言えば韓国にも左派(左翼)はいるわけで、無政府主義者だっている。そういう人は国籍とか民族とかを相対的なものとして考えているだろうし、それは韓国内の多数意思(総意)とは違うだろうけど、そういう人との連帯はどうあるべきなのかとか。

羽賀さんの問題意識に対する答えになったかはわからないのですが、ようするに答えはないということではないでしょうか。あまり突き詰めると、最後は哲学的な問答になってしまうか、ある種の公式的な(イデオロギー的な)きわめて「わかりやすい」回答にまとめてしまうしかありません。でも、生身の人間はそんな簡単なものでもないと思うのですね。まあ、解放同盟の内部を見てこられたようですから、釈迦に説法だとは思いますが。結局は自分の信じた道を行くしかない・・・としか言えないのが歯がゆくもあります。

私はと言えば、奴隷制から現在まで続く、人が人を支配してその上前をはねる(搾取する)という制度を必要ないものとし、そこにおける利害調整として存在する「政治」そのものを止揚する、つまりかつて奴隷制をなくしたように、いつか「政治」そのものをなくしてしまうことが、奴隷制以来続く人類の現ステージを、次のステージに押し上げることであり、ここまで進化してしまった人類が存続を続けるにはそれが必須条件だと思っています。そしてエコロジストに言われるまでもなく、そのための時間は人類にあまり残されていないと思う。このまま滅びるなら滅びるで、人間はそこまでの存在だったのだから仕方ないとも思いますが、少なくとも私はその方向で人生を生きたいです。
私はここで、あるいは種々の現場で、自分なりに信じた道を模索し続けます。羽賀さんもお元気でとしか今は言いようがありません。

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コメント 6 件

チェシャキャット より:

あんたは過激派界の池上彰だな。ただそれがあんたのいいところなんだろうが、中核だの反原連だのシバキ隊だの、あちこちにちょっと気をつかいすぎ。批判と同時にいいところも見てあげるというスタンスは公平で好感がもてていいんだが、もっと相手が一番聞いてほしくないような容赦ない質問を浴びせたりしないところが、あんたが左翼版の池上彰になりきれないところだよ。期待しているんで、もうちょっとだけ悪人になってくれ。

三浦 より:

脱北者という、新たな「在日コリアン」の人と私は接しているのですが、ほぼ100%と言っていいほど、日本国籍を求める傾向があります。だからと言って彼らが特に日本が好きだとかいうことでもないんで、もっと複雑なものなんですよね。彼らは1960年代日本から帰国事業で北朝鮮に渡り、最悪のスターリン主義国家に暮らしてきましたから、日本での思い出がどんどん美化されるんですよ。これも特殊な例でしょうけれども。

まあ、そういうことも含めて、私がもう7年前に書いた文章ですが、ブログにアップしてあります。
よろしければお読みください。

「私達は、この脱北帰国者受け入れについての思想的原則を打ち立てておく必要がある。「移民の運命」(藤原書店)で、移民、難民問題の原則を提示したエマニュエル・トッドは、60年代以降の「差異の権利」という概念が、逆に人種対立を招き、極右の台頭を招いた事を指摘する。先進諸国では、従来の国家主義や植民地主義への反省から、国内のマイノリテイや、移民、難民に「差異の権利」を認め、各集団の文化や生活様式を尊重する事が、豊かな共生社会を作り出すとする言説が席巻した時期があった。しかし、トッドはこの思考を「差異主義熱」と批判する。」
http://miura.trycomp.net/?p=1854

◆ブログ旗旗 » » 【日本人3人が「在日」について語っています】 – 旗旗 http://t.co/UOJ5R5wBU2

羽賀 より:

隣保館での活動の折、韓国人の青年とぽつりぽつりとではありますが、
いろいろな話をしたものを、まとめてみました、
これは、韓国や日本を代表してなんてものじゃなく、お互いの個人的な勉強の感想をすりあわせして、
メモにしてみようか程度の、思いつきでしかありません、
私には、学歴も公の肩書もありませんので、これをもって正しいとか、間違っているとか、
言うつもりもありません、今の時点で大きなわくで納得できる考えを書き出してみただけですので、
不快に思われる方には、ご容赦を願う事しかできないのですが、
以下に書き出してみます、括弧内は私の補足です。


日本におけるコリアンに対する共生とは、日本をホスト文化として、
コリアンをマイノリティ文化として受け入れる形になると思います。

ここで、コリアンに、日本国に対する敬意や尊重がある場合は、
反発を招くことなく異質な文化に対する寛容さが期待できると思いますが、
憎しみや、華夷秩序的な優越感を優先させたりする場合、
そこに寛容さを期待することは無理があると言わざるを得ません。

特に、歴史的事実に関する問題は(いわゆる 強制連行 のことです)、
過去の、コリアンの意見を正義として日本を糾弾し、権利を主張するときの内容の変化が、
日本国中に広く知られるようになった事で、コリアンの論拠の正当性に疑問符が付いたままです。
(これは良い悪いでなく、韓国人・朝鮮人の民族的な主観や恨と情の文化が背景だと思いますが、日本人がわからすると前に言っていたことと違うじゃないか、となるので問題だと思います)

コリアンの立場が、軍や警察による連行の 被害者 なのか、より良い安全な暮らしを求めた 移民 なのか、ということです、
安易な同情、憎悪、不確かな情報によって判断してよいことではありません。
(安全に関しては、済州島四・三事件や保導連盟事件にみるように戦後の意味で書いています)

このような対立を前提にした共生は、不幸を生み出すだけです、
歴史認識が、憎しみの原因、対立の元であるならば、コリアンとして、日本人として納得できるように、
お互いの歴史認識をすり合わせ、相手の感情ではなく、事実と論理的な推論によって
歴史的事実の検証がなされるべきと思います。
(私自身は、朝鮮半島支配に至る日本がわの視点確認について「きままに歴史資料集」というサイトの、一次資料を出典にした考察を参考にしました、過去のできごとを多くの目で考える一助にされればと思います)

三浦小太郎 より:

脱北者、大阪、八尾に生きて
http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=fafefa&prgid=42348262

2011年の番組ですが、未見の方は是非ご覧になってください。


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