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結語にかえて
しかし、こと「ファシズム研究」に目を移してみるならば、われわれは未だもってなお漸くこの入口にこぎつけたにすぎぬ己れの姿を素直に認めざるをえない。
本稿は未だに問題意識の提起にすぎず、諸々の点にわたって論証が不十分である。さらに何よりもヨーロッパ革命ではなしに当面日本革命をその射程とするわれわれにとって不可欠な、日本型ファシズムの問題に関しては何ら触れることすらできていないからである。
ここで多少の弁明が許されるならば、その所以は次の如しである。
すなわち、本来的には「ファシズム研究」を本質的課題とする本稿に対して、当初与えられた研究-執筆の期間は、あまりにも限られたものでしかなかったのであった。この短い期間を、さらには学者の如く研究室に閉じこもるでもなく、諸々の闘争を担いつつ、その合間合間に捻出した時間をもってのつぎはぎ的な研究期間として設定せざるをえなかったわれわれは、しかもほとんど何もないところから出発せねばならなかったのである。
したがってわれわれは、あたかも瓦礫の中で粗朶拾うかの如きおももちで資料を蒐集するところからはじめ、それらをひそつひとつ丹念に吟味する間もなく、ひたすら本稿の編纂を急がんとしたのであった。ところが、そのようにして歩みをはじめたわれわれがすぐにも逢着せざるをえなかったのは、まさしく主体的総括の欠如故のファシズム概念の多様化、混乱せるファシズム論の横行という事態に他ならなかったのである。
かかる座礁にのりあげてしまったわれわれは、闘争のための制約から一度は研究の中止に至らざるをえず、暗澹たるおももちでこのエアポケットからの脱出口を探すために、大きな労力をさかねばならなかった。
そして幾度かの試行錯誤ののちに、われわれは、荒同志の手による「スターリン主義克服論文」を唯一の手掛りとしつつ、何とか我身を這いずり出す思いで、「ファシズム研究」にむかう前提として、これまでのファシズム研究の立場や、「ファシスト過小評価」という通説こそが反省されねばならないという認識を得るに至ったのである。
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本稿においてわれわれが追求したのは、革命運動のファシズムに対する敗北の真に主体的な総括であり、それをバネとしつつ、ファシズムとのたたかいを安保-日韓闘争の一環として明確に位置づけることないし、かかるたたかいの遂行にあたって不可欠な革命運動のスターリン主義的歪曲の克服にむけた視座をより鮮明にさししめすことであった。そしてそれらの諸点に関する限り、最小限ながらもわれわれに課せられた任務を遂行しえたと考えている。
そこからわれわれは、残されたあまりに短き時間を、何故ファシズムヘの敗北に対する主体的総括の欠如してきたかの分析にあて、その過程的結論として、革命運動のスターリン主義的歪曲故の全体主義イデオロギーヘの敗北という認識を得つつ、さらに全体主義イデオロギーの思想的解明を経て、漸く敗北の真の総括の論証過程へと至り、それをもって現代にむけるファシズムとのたたかいの大雑把な指標を導き出しえたのであった。
したがって、かかる学問的苦闘を通じて生みだされた本稿は、当初予定された日本型ファシズムヘの論究には遠く及ばなかったばかりか、かかる下向的分析過程におけるいわばわれわれの覚え書きとしての位置しか有しえず、それ故また個々の論証も甚だ乱雑のままに放置せざるをえなかったものである。
まさに本稿が、現代ファシズム研究における「方法論序説」と題されねばならない所以である。
したがってまたわれわれは、この乱雑なスケッチが、今後同志諸君の学問的営為の深化を通じて踏みこえられるものとしてのみ存在しているのだということも指摘しておかねばならないであろう。
しかし一方でわれわれは、次のことを確認しておく必要がある。
すなわちわれわれのファシズム認識の現段階的地平とは、われわれによるファシストとのたたかいの端初的地平に呼応するものであり、それはまた今後のファシストとの非和解的なたたかいの深化、ファシストを徹底的に粉砕-解体していくたたかいの完遂をもってこそ、より完全なものになっていくのだということである。
無論その為には様々な学問的営為の深化が不可欠となるわけだが学問とは本来的に終わりのないものであり、それとして研究を続けるならば、際限なく続けることも可能なのだということも踏まえておかなければならないのだ。
しかしわれわれにとって問題なのは、現実変革の指標であり、ファシズムを打ち破るための学問的成果に他ならないのであって、それはまたわれわれによるファシスト解体のたたかいの地平に常に呼応するものとしてあるのである。
その意味ではわれわれは「帝国主義論」におけるレーニンが、理論的には世界資本主義が実現されるかの如き誤謬に陥りつつも、「帝国主義に関しては百万冊の著作が書けるだろうが、問題なのは打倒することだ」という立場にたちつつ、現実の帝国主義がかかる傾向を有しておらず、不均等発展によって帝国主義間戦争へと傾斜しつつあることを鋭くみぬいていていったことにしめされる徹底したリアリズムにこそ多く学ばねばならないであろう。
したがって学問的営為の深化とは、かかるたたかいのごくわずかな一角を占めるのみであって、たとえ理論的には数々の不十分な点を含んでいるにせよ、たたかってたたかってたたかいぬく中でこそ、ファシストの徹底的解体をも含めたわれわれの総体としての前進は刻印されるのだということを、われわれは常に肝に銘じておかねばならない。
まさに暴虐の嵐荒れすさぶ台地を、人民の最先頭にたって進撃していくことこそ、わが社学同の革命的誓いであり、われわれの魂はそこにこそあるのだ。
――いずれにせよ、同志諸君、われわれのたたかいは、未だその先端を切拓いたにすぎない。われわれの眼前には、ただわれわれによって開拓されうる荒野のみが、無限にたちひろがっているのだ。共に前進せん!
(1981年10月)
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