「小説三里塚」第一章 開拓

投稿者:草加 耕助

戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる

第2話 帰郷(2)

三里塚の農家風景 煤けて暗い釜屋の方から、子供を背負った兄嫁のとも子が小走りに出てきた。土間の話声を聞いて、武治とわかったらしい。
 12年振りで見るとも子は、歳よりも老け、やつれて見えた。一瞬、武治はとも子の姿に、長い戦争の疵痕を見た。
「武あんちゃん!」
 呼ぶとも子の声にも武治は、喉がつまって声が出ない。

 武治は肩に背負った毛布の包みを、どさりと上り框に置いた。框(かまち)に腰かけて軍靴の紐を解いた。
 座敷に上がると、まず仏壇の前に額づいて手を合せた。仏壇は煤けて、黒光りしていた。
 武治は舐めるようにして、部屋中から天井板まで見渡した。彼が12年前に出た家と、どこも変わっていなかった。ただ、唐紙が張り替えられて模様が変わっているだけで、黒光りに煤けた昔のままのわが家だった。武治は黒光りする柱に寄り縋り、それを撫で回した。
 彼が煤けた仏壇の前に座った時、まず眼に映ったものは、兄の清次の遺影と位牌だった。彼が各地を転戦して歩く中で、兄嫁のとも子からの便りで、清次の戦死を知った。
 清次は転戦に転戦を重ね、ついにニューギニヤのジャングルで、壮烈な戦死を遂げていた。位牌に向かうと、武治の悲しみが新しくこみあげてきた。

 とも子がお茶を入れて持ってきた。
「兄貴は戦死したか」
 武治が位牌を見ながら呟くようにいうと、とも子は言葉もなくうなだれて、涙に咽んだ。しずがとも子を励ますようにして、いった。
「とも子は戦争中は、人一倍働いただよ。男手がなくなっちゃったからよ。これからは少しは楽にしてやらねば……」
 とも子は子供を背負い、破れ畳に両手をついたまま言葉もなかった。
 清次は戦争も末期になって召集された。出征する時は生まれたばかりの赤ん坊がいた、その赤ん坊を背中にしてとも子は、清次の出征を見送ったものだった。その清次は一年たらずの戦いで、南方の露と消えていった。何でも死ぬときには兵站を絶たれ、餓死状態で戦って戦士したということだった。その遺骨さえ届いてはいない。

「源二や八郎はまだ帰らねえのか」
「うん……まだだよ」
 しずは心配そうに答えた。
「それでも武あんちゃんや、源二さんも八郎さんも丈夫でいるごとだけはわかってるから……」
「二人はいずれ帰るに違いねえが、兄貴だけが……」
 武治は、その後が続けられなかった。とも子に悪いというよりも、兄の武運のなさを、哀れと思ったからだった。
「死んだ人が一番、馬鹿を見らあ」
 といってとも子は、何者かに向かってキッと睨むような眼つきをした。武治は横眼でとも子を見て、彼女の心境を知ることができた。

 戦争がいよいよ酣(たけなわ)になってくると、息子たちを戦地に奪られた家庭では、生きた空はなかった。敗戦に次ぐ敗戦で戦死者の通知が、どこの部落にも伝わってくる。
 一縷の望みを抱いていた家族も、一人息子の戦死の通知をうけて、俄かに悲歎のどん底で泣き悲しんだ。

日本を爆撃する米軍のB-29 その頃、三里塚から菱田部落の上空をB29の編隊が、日夜を間わず通過した。マリヤナ群島から飛来するB29は東京爆撃を終って、三里塚の上空から銚子方向に向かい、太平洋上に抜けて基地に帰るのであった。
 光る銀翼を連ね、飛行雲の尾を曳く編隊を見るのは壮観だった。村人たちは大人も子供も戦争を忘れて、暫しみとれたものだった。
 だが、冬の陽をうけて機体が鋭くピカリと光ると、機関砲の掃射を浴びたかと思って、とっさに物陰に走る者もあった。

 B29の巨体の周りを蚋(ぶよ)が飛ぷように、追いまつわるものが微かに見える。
 日本の誇り高き零戦(零式戦闘機)だ。この追撃によってB29が撃墜されることもあったが、しかしそのほとんどは零戦の方が撃墜された。瞬く間に火を吹き、錐もみ状態となって海へ落ちていった。
 そのうちに本土の上空はどこも米空軍の制空権下におかれ、B29の大編隊は轟音をたて、悠然と、わがもの顔に飛翔するようになった。
 零戦も、全くその婆を消してしまった。息子たちを戦場に送った家族の心配は、日に日につのり、野良仕事も手につかず、ただ明け暮れするばかりだった。

 東京は毎夜のようにB29の空襲で、真赤に夜空を焦していた。すでに、東京は焼け野原で、焼け出された人々が家族を連れて田舎の縁籍を頼って毎日のように流れてきた。物資の欠乏は都市も農村も同じだったが、それでも農村には何らかの食物があるというので、都市からリュックを背負った人々が、農家を訪ねては食料を買い漁って帰った。敗戦近くになると金では通用しなくなり、農村にない衣類や砂糖や日用品などを持ってきては、食料と交換していった。

 辺田部落にも彼等は食料を探して買出しにやってきた。食料といっても米でなく、苗を作るのに芋床に伏せた床芋まで買っていく始末なのである。床芋といえぱ、すでに芽が出て芋苗をとった後だから、食えた代物ではなかった。農家も無理に押売りするわけではないが、食える物は何でも持って帰らねば、東京では生きていけなかったのだ。家族のために毎日のように食料を漁り求めて歩かねばならない人々でどこの農村もいっばいになっていた、もはや日本は戦争を続行する能カを失なってしまっていた。敗戦は当然だった。

 武治の実家は辺田部落でもどちらかといえば、中農以下の農家だった。武治は六人の兄姉の中の次男で、兄弟が農地を分け合っては、共倒れの境遇だった。地主のように分家するには、あまりにも貧農だったのだ。
 小学校を出ると間もなく武治は、同じ部落の鴉沢という地主の作男になって住みこんだ。やがて彼は海軍に志願入隊した。軍人を志望した彼は辺田部落に帰るまで、そのまま戦争を経て、ついに12年間を軍隊生活で送った。

 日支事変の頃、彼の乗った戦艦が、小樽港に入港した。軍人を憧れた女学生や娘が、よく艦を訪ねて兵士たちの慰問にやってきた。武治の艦にも慰問品を抱えた娘たちが訪れてきた。その中の一人が、現在彼の妻の説子だった。
 彼女は小樽市内で石炭商を営む家の長女で、市内の高女を出て、読み書きが堪能だった。

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