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2. 生産関係と階級
生産とはすべて自然の改造である
人間が自分達の暮らしに役立つ物質的富を生産するということは人間が自然の改造を行うということにひとしい。
なぜならば人間は神ではないのだから、無から有を生みだすことは決してできないからである。人間にできるのは、自然に存在するもの(木・鉱物・石油など)の形を変えて、人間に役立ちうるようにすることだけである。
社会の性質を決定づける「生産関係」
ところで人間はこの自然の改造をおこなうにあたり、太古から決して孤立しておこなったのではなく、集団をなし、社会を形成しておこなってきた。
「生産のさいに、人間は、自然にはたらきかけるばかりでなく、また互いにはたらきかけあう。彼らは、一定の仕方で共同して活動し、その活動をたがいに交換するということによってのみ生産するのである。生産するために、彼らはたがいに一定の連絡や関係をむすぶが、これらの社会的連絡や関係の内部でのみ、自然に対する彼らのはたらきかけがおこなわれ、生産がおこなわれるのである」
だから生産には、自然と人間との関係であるという側面と、自然の改造にさいして人間と人間とが結ぶ関係(=生産関係)という、二つの側面がある。
それゆえ物質的富の生産は、いついかなる時でも、社会的生産である。つまり人間が生産をおこなうというのは、社会が生産をおこなうというのと同義である。
そしてこの「生産関係」は、「その総体において、社会関係・社会と呼ぱれるものを、しかも一定の歴史的発展段階における社会、独特の、特色ある性格をもった社会を形づくる。古代社会、封建社会、ブルジョア社会は、そういう生産関係の総体であって、それと同時にそれぞれの人類の歴史上の特殊な発展段階をあらわしているのである」
生産関係を決定するのは生産手段の所有
このようにして、人間は生産をおこなうさいに、人間と人間との関係である生産関係を結ぶのであるが、その生産関係を決定づける基礎になっているのは「生産手段」の所有関係である。
生産手段とは、木や鉱物や土地などの改造される自然そのものと、生産のために使用する道具や機械や建物や道路など、人間が自然の改造にさいしてもちいるすべてのもののことである。
無から有を生み出すことができない存在である人間は、ゆえに生産手段をもたなけれぱ生活に必要な物質的富を生産することができない。だから生産手段を独占的に所有している人間集団は、所有していない人間集団の労働を搾取することができる。
生産手段を誰が所有しているかという関係は、ブルジョア社会の中では、人間と物(商品)との関係のように思えるが、実は、人間にとって絶対必要な生産手段の使用、処分に関して、特定の人々が他の人々を排除するという人間と人間との関係である。
こうして、生産手段を所有するかしないかによって区分される人間集団=階級が発生した。
生産手段を独占的に所有する階級は搾取階級となり、生産手段をもたない階級は被搾取階級となった。
資本主義社会の生産関係は賃労働
およそあらゆる階級社会において生産手段を所有する搾取階級は、生産手段をもたない被搾取階級(奴隷や農奴)を、自分達が所有する生産手段をもって働かせ、その生産物の中から被搾取階級が生きのびるのに必要な分だけを残し、後の剰余生産物をとりあげることによって成立していた
資本主義社会における資本家と労働者の関係も、このあらゆる階級社会に共通な搾取階級と被搾取階級の関係である。ただそれを「商品形態の自由と平等の非階級的形式のもとに取りあげる」(宇野弘蔵『資本論の経済学』)ということにすぎない。
その「非階級的形式」というのが賃労働であり、労働力という商品の”自由な”売買による「商品形態」なのである。次にそのことを見ていこう。
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3. ブルジョア的生産関係としての賃労働
資本家のもうけはいったいどこから?
資本主義的生産関係は、資本家が労働者の労働力を商品として買い、それと同じく商品として買った生産手段とを結合して、新しい商品を生産するという関係を基軸としている。
この場合、資本家の”もうけ”はどこから出てくるのであろうか。それは労働カという商品の持殊性がその根拠となっているのである。
資本家は労働力を買い、自分が所有している生産手段を使って労働させ、新しい商品を生産させ、労働力を消費する。一方、労働者はというと、労働力を売った代価(=賃金)で衣食住をはじめとする生活資料を買い、それを消費することによって、労働力を再生産するのである。
さてこの場合、労働者が買った生活資料の中に、彼が自分で生産した商品が含まれているとしよう。しかし彼がもうすでに資本家のものになっている労働力を使って生産した労働生産物は当然にも資本家のものとなり、彼は自分で生産しながらそれを商品として買わねぱならない。
必要労働時間と剰余労働時間
たとえばある労働者が、消耗した自分の労働力を再生産するために必要な一日あたりの生活資料が、もちろんさまざまな生産部門におけるさまざまな労働者の労働カによるとしても、全体で四時間の労働によってつくられた労働生産物だとする。だとすると彼の一日の労働力は、四時間分の労働の対象化されたものとして価値を有しているということになる。
しかしもちろん彼の労働は四時間で終わるわけではない。彼は資本家のもとでたとえば八時間働いて一日の仕事を終えるのである。つまり彼の売った労働カの価値は四時間分の労働の対象化されたものである。そして資本家はその労働力を、四時間分の労働生産物(を代表している貨幣=賃金)をもって買いとる。しかしながら彼が資本家のもとで生産するのは八時聞分の労働生産物であるのだ。
労働力はそれが商品であるという点で、他のあらゆる商品とかわりないが、まったく特殊な商品である。
先の例では、労働者は最初の四時間で自分の賃金分のものを生産してしまい、あとの四時間はまったく資本家のためにだけ労働する。この最初の自分のために働く時間のことを「必要労働時間」といい、後の資本家に捧げる部分を「剰余労働時間」という。(図A)
賃労働の特殊性
資本家にしてみれば、四時間の労働生産物(を代表する賃金)によって、八時間の労働生産物を手にいれたことになる。これがもし労働者の売っているものが労働力ではなく、労働であるならば、こんなことがあり得ないのは容易に想像がつくだろう。
八時間の労働の価値は、八時間の労働によって生産される労働生産物の価値であり、四時間分の労働生産物で買えるのはやはり四時間の労働である。これでは資本家は新しい生産物を得ただけであって、何一つ損も得もない。
このような交換関係は、たとえば庭の手入れや家の修繕のために、職人さん(大工とか植木職人)をやとった場合などにみられる。われわれは彼らの労働とその成果を手にいれるだけの対等な関係である。そこに儲けも搾取もない。賃労働はそれとは全く異なる特殊なものだ。
このように資本主義体制でも、他のあらゆる階級社会と同様に、生産手段を所有する階級が、持たない階級を労働させ、その労働の成果を搾取するという関係が成り立っている。ただ、奴隷に対するムチが、「商品取引の自由と平等の原則」に置きかえられただけである。
生きるために労働力を売る
それでも労働者は資本家に労働力を売る。なぜ売るのか。生きるためである。
本来、科学と文明の発展した現代においては、労働は人間の生命活動と可能性の発現であるべきだ。だが賃労働制度のもとでは、労働者にとって労働とは、何よりもまず、”かせぎ”を得るための手段となる。その生産活動をやめた休息の時にだけ、労働者の真の生活ははじまる。
「労働力の販売を唯一の生計の源泉とする労働者は、生きることを断念しないかぎり、買手の階級全体、すなわち資本家階級をすてることはできない。彼はあれこれの資本家のもちものではないが、資本家階級のもちものである」
これが資本主義体制の基軸的生産関係である。もちろん現実の生産関係はもっと複雑きわまりないものであるし、また、その時代における段階論・現状分析を正確になさねば資本主義全体を把握することはできない。しかしながら、ブルジョアジーによる労働者の搾取関係は、資本主義が資本主義であるゆえんとして、その原理論的内容としてふまえられねばならない。
4. 価値法則の貫徹
商品の「価値」は労働によって生まれる
太古よりすべての富の生産は、神ならぬ人間が、労働によって自然を改造することでのみ生み出されてきた、さて、先の労働者の例で、彼は一日あたり消費する生活資料に匹敵する生産物を、四時間で生産していた。そして彼がもう四時間の剰余労働をなすことによって、資本家は四時間分の「剰余価値」を手にいれる。
このことは労働力商品の売買が、そしてまたその力によってつくられた生産物の価値の大きさが、特定の労働時間の対象化されたものであることを示している。
商品交換の基準を決定する価値法則
およそすべての商品は、具体的効用である「使用価値」と、他の諸商品との交換比率を表わす「交換価値」とをもっている。この交換価値を貨幣で評価したものが「価格」である。
ところで、まったく性質のちがう諸商品が交換されあう時、この商品の両者に、質的に同じで量的に比較可能なものがなければ、両者の交換比率は決定されえない。それが商品の「価値」と呼ぱれるもののことである。そしてその商品の価値の大きさは、その商品の生産に、直接・間接に要した社会的必要労働時間の合計によって決定される。このことを「価値法則」という。
この場合の労働時間とは、個別の資本家が生産に要した労働時間のことではない。ある商品を生産するのに必要な、平均的な労働の熟練度、平均的な労働の強度(=ある時間内に支出される労働量、労働者の緊張度のこと)のもとで要する労働時間のことである。これを「社会的必要労働時間」という。
だからある商品の価値の大きさが、その商品を生産するのに必要な労働時間によって決まるというのは、個別の資本家についてではなく、一つの産業部門全体についてしか言えないものである。
繰り返すが人は神でも魔法使いでもない。価値を生みだすのは唯一、労働である。ということは、労働力の価値が、たとえば四時間の労働によって対象化されるものであるならば、総体の労働時間を九時間、十時間と延長していけば、資本家の手にいれる剰余価値(=もうけ)も増大する。しかしこの乱暴な方法(低賃金長時間労働)にはおのずと限界のあることはもちろんである。
価値法則が労働生産性を高める
一方、生産性の高い新しい設備を導入して、労働者が自分の労働力の価値を生産してしまう時間を短縮すれば、相対的に剰余労働時間は延長されていく。(図B)
もちろんその商品を生産するのに要する労働時間が短縮されれば、その商品のもつ「個別的価値」は下がる。しかしその商品の価値は、社会的必要労働時間で決まるのであるから、個別の資本家が自分だけ生産性を高めた場合、彼は実際の価値以上でその商品を売ることができるのである。(図C)
しかしそれは長く続かない。他の資本家達もこぞってこの新しい設備やシステムを取り入れはじめるからだ。彼の個別的価値は社会的価値となってしまう。彼は今までと同じ価値を手に入れるためには、市場を開拓してより大量の商品を売らなければならない。ただ、剰余労働時間は明らかに長くなっており、よりいっそう多くの労働を支配し、搾取が強まることとなる。
この競争におくれをとった資本家はみじめである。彼の商品は今まで通り十の個別的価値をもっていながら、社会的価値である五で売らねばならない。「うちの会杜は旧来の手間のかかる方法で製作したので、高く買ってもらわないと困る」ということは通用しないのである。この競争に負けることは、資本家にとって破滅をも意味してしまう。
価値法則の貫徹によるこの競争が、資本主義社会の急速な発展を保障してきたのである。
現実に経済を動かすのは「需要と供給の法則」
さて、ところでこの価値法則は一般に”等労働量交換の法則”とされるが、現実には等労働量交換がおこなわれているわけではない。現実に交換価値を決定しているのは「需要と供給の法則」である。
需要が多いのに供給が充分になされないならば、その商品の価格は上がる。逆に供給が需要をこえてなされ、その商品が市場でだぶつくならぱ、その商品の価格は下がる。
この買い手と売り手、買い手同士、売り手同士の競争の、様々な力関係でその時の価格は決まる。
こうやって、需要が多く、商品の価格がその価値以上に高騰している産業部門には、高い利潤を求めて資本が、それにつられて労働力が流れこんでくる。その結果供給は増加し、商品の価格はその価値どおり、あるいはそれ以下にさえ下がって流入は止まる。
反対に、需要より供給の方が多い産業部門では、商品の価格はその価値以下に下がり、資本は流出していく。そしてその産業がすでに時代にあわなくなっており、したがって減亡する以外ない場合をのぞいて商品の価格は上がり、流出は止まる。
需要と供給の法則を裏で規制する価値法則
こうして常に無政府的な運動をくり返しながら、一つの産業部門全体について、少し長い期間をとってみると、社会的に適正な「労働の比例的配分」が実現されている。
およそすべての社会にとってその存立の条件として、その社会がもっている労働生産力を、社会が必要とする割合にあわせて各産業部門に配分されねばならない。そうでないならば、社会にとって絶対に不可欠な物資が絶対的に欠乏したりする。
資本主義社会では多くの無駄を含みながらも価値法則の作用によって、この労働と生産手段の比例配分が達成されているのである。
このように現実の商品価格は需要供給の法則によって決定されながらも、価値法則はこれをいわば裏で規制する法則として、商品経済を、ということは資本主義体制全体を規制しているのである。
まとめるならば、今まで見てきたように価値法則は、1)商品の価値の大きさは、その商品の生産に直接・間接に支出される社会的必要労働時間によって決定され、2)その価値が商品交換の基準を規制し、その結果として、3)社会存立にとっての条件である「労働の比例的配分」を達成し、さらに4)労働生産性を自動的に上昇せしめる。
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