だが「ソ連の企業は、企業自身が労働者を募集し解雇する権限をもっており、企業と労働者の関係は労働力を売買する関係」だなどといっても、社会的生産手段を私有するブルジョア階級がプロレタリアートの労働力を買い入れ、社会的に必要とされる使用価値の生産をおこない、剰余労働の搾取をなしつつ、私的に利潤を得、かつそれをもとに生産を拡大していくといった資本家的商品経済のメカニズムと類推するには、これらの断言はあまりにも政治的であり、実証力に乏しい。
また、「ソ連の国家が掌握している固定生産基金は全社会の90%以上を占めており、そのほか鉱山、河川、土地等々の天然資源や国民経済の命脈もみな、少数の官僚ブルジョア階級分子が国家の名において独占している。これは最高度の国家独占である」だとか、あるいは「生産経営活動に関する権限は、管理者、企業長および職務分担にもとづいて規定される企業その他の責任者がこれを規定する」と、ソ連の『社会主義国営生産企業条例』にあるから、だから国家資本主義だ等といっても、いずれも労働力の自由な売買と私的利潤の追求にもとづく、資本家的商品経済とそれが同一だという証左にはならない。
われわれの結論を繰りかえせば、官僚主義的に歪曲された労働者党、および官僚主義的に歪曲された「労働者国家」、つまり労働者国家の疎外態の支配的イデオロギーとしてスターリン主義は存在しており、中国などもソ連と同じくそうした範疇に属するものとして規定される。カクマルなどは「スターリニスト・レジーム」としてブルジョア国家とも労働者国家とも異る第三のカテゴリーをつくりだしてしまったが(これに対し中共派はブルジョア国家だと言ってるわけだが)、われわれは世界革命の遅延による孤立化がもたらした労働者国家の変質態としてこれをみる。
つまり現在の中共派などはあきらかにトニー・クリフ『国家独占資本主義論』と同じことをいってるだけにすぎないのだが、官僚層が生産手段の私的独占にもとづき、プロレタリアートの剰余労働を私的に搾取しているということを論証することはできず、「ブルジョア階級と同一だ」といいつつ、官僚を階級(クラス)として立証することはできないでいる。
他方カクマル派などは「現代ソ連邦は、たしかに新しく出現した歴史的存在である。だからといってそれは資本主義でも社会主義でもない新しいカテゴリーでつかまれるべきだということにはならない」(『日本の反スターリン主義運動』1、P538)と一方ではいいつつ、「中国や東ヨーロッパにおけるスターリン主義国家としてのスターリン主義国家の形成-つまりソ連邦の変質を物質的基礎とし、スターリン主義党によって指導されつつ、はじめからスターリン主義国家として形成された」(『資本論以後百年』P220)、「これをわれわれは《スターリニスト政治経済体制》という新しいカテゴリーで把握し表現するのである」(『日本の反スタ』1、P538)等とこれを言い換え、それ自体矛盾した論理を展開している。
つまるところ本質規定に関しては、問題はソビエト・エリートとよばれる官僚層をいかなるものとして規定しえるのかであり、そこからスターリン主義を如何なる存在として克服しようとするかにあるのだ。
マービン・マシューズによる研究などを参照すると、ソビエト・エリートとよばれる集団は大ざっぱにいって次のような条件を有した部分として区別される。
(1)月450ルーブル(1ルーブルは350円)以上の収人のあるもの、(2)ノーメン・クラトゥーラ、つまり党・国家等の重要職務に任命されるための有資格者名簿に名前が載っていること、(3)各種の特権(海外旅行、住宅、別荘、消費財購人、年金など)へのアクセスを獲得していること。
これらの条件にあてはまるエリートの数は総数25万人いるといわれ、その内訳は、(a)党官僚38%、(b)国家、コムソモール、労組役員24%、(c)軍人、警察官、外交官12%、(d)アカデミー会員など高級知識人17%、(e)ソホーズ議長など企業管理者9%ということになる。
ところがこれらのエリートであったとしてもブルジョア国家のブルジョア階級と比した場合、明白に次のような差異性をもっている。
第一にそもそも彼らが私的に蓄積した富は少く、所得が低いこと、第二にエリート内部に階層的、社会的分化がほとんどみられず、私的な富の蓄積がないこととからんで一位階にとどまっていること、第三に国家の政治システムに依存しており、経済的政治的独立性をもっていないこと、第四に党・国家に従属しており、一代限りであって世襲制ではないことなどである。ここから言えることはエリート層はようするに、国家的な一位階をしめる身分(カースト)にすぎず、生産手段の私的所有による労働力商品の購人をつうじた、剰余価値の生産とその搾取をなしうる階級的存在などとは言いきれないということである。
これを例証するものとしてヘドリック・スミスの『ロシア人』の「第二章 特権階級」中の暴露をあげることができる。そこでは、「全部でおよそ二十人のこのエリートの中核-政治局員と党書記は、手づくりで一台七万五千ドル相当の黒いリムジンの“ジル”に乗る」とか、「ジルに乗るにいたらない第ニグループの高官たちにとって、最も格式の高い車はチャイカ」であるとか、あるいは「地位(ステータス)の高さを示すもっとも大きな特権はモスクワの外にある。指導者とその家族たちは隠れ家のような別荘のある地域全体を持っている」等と、いかにソビエト・エリート層が一般労働者よりめぐまれた待遇をうけているかが例証されている。
だが同時に「解任されると党の慣習は冷酷無比である。ポストがなくなる、これはとりもなおさず、国有の別荘もなくなることを意味する」「彼らが党の階層の中に自分の子息を入れることはできない」「地位であって権力でない」という具合に、あくまでもソビエトの国家システムに依拠した地位にもとづく待遇の差異としてしか特権がないことが示されている。
イストであるはずの政治局員が手作りのジルに乗りたがるのはブルジョア的な貴族趣味に依る嗜好であると批判できても、そのジルは私的に所有されるものではなく国家から借リるだけであり、それらはあくまでステータス・シンボルでしかないのである。
従ってかかるごとき官僚層がブルジョア的に堕落し、プロレタリア的階級性を喪失している、腐敗しているということはいくらでも言えるとしても、中共派のように自分達の都合にあわせて、だから国独資だとか、ブルジョア階級だとかいうことは、マルクス主義的な概念規定だとはいえない。政治的批判の言葉としては位置を持っているとしても、社会科学的な概念としては無理があるのである。
われわれは従って官僚主義的に歪曲され、変質した「労働者国家」の支配的イデオロギーとしてスターリン主義をとらえるし、かかる現実を打破するものとしての補足的政治革命の設定として、スターリン主義との闘いを考える。そしてこのことはブルジョア階級の打倒、プロレタリア政治権力の樹立といったプロレタリア革命の本質的課題とは反スターリン主義のたたかいは位相を異ならせるものであり、いわば世界革命の完遂へむけての特殊的課題であって、戦略的に対象化されるものであったとしても、ブルジョア階級の打倒と同一の地平で直接に論じることはできないものということになる。
〈反帝・反スタ〉も〈反帝・反社帝〉もマルクス主義的な本質規定との関係でいえば全くあいまいであり、誤っており、プロレタリア革命が労働力商品の廃絶をつうじて、生産手段の私的所有を廃止し、社会的共有化をかちとっていくことを内実とする以上、異なる概念の接ぎ木であってうけ入れがたいものなのだ。(なおこれに関しては『過渡期世界の革命』中の「〈反帝・反スタ〉革命論の左翼反対派的限界」P394以下なども参照せよ)
これ等を前提としてふまえるなかで、次にスターリン主義が思想としての近代ブルジョア・イデオロギーを依然未克服であり、その亜種にすぎないという問題につきみていこう。
5.思想としてのスターリン主義
これまで述べてきたことをつうじてスターリン主義はブルジョア・イデオロギーとも、プロレタリア・イデオロギーとも異なる第三の範躊に属するものだなどとはいえないこと、そうではなくてプロレタリア革命の主体がブルジョア的価値判断や、ブルジョア個人主義、合理主義などを思想的に克服しきっていくことができないままに次第に変質し、固定化されたものであり、従って一国社会主義建設可能論といったイデオロギー内容そのものへの批判としてなすことより、政治思想的克服をめざす方向性を定めるべきことが、一つの結論として確認されるだろう。
われわれの観点からいえばスターリン主義批判の核心は、一国社会主義建設可能論の存在といった単なるイデオロギー的誤謬に求められるものではなく、その政策、思想、政治の反人民的、官僚的専制的内実に対する止揚の方向においてこそ求められるべきものである。このことはブルジョア権力を打倒し、当面一国的にプロ独国家建設をなす以外ない現実下にあっても、党の政策内容においては実践的にスターリン主義を批判克服できる可能性を有していることを意味する。
世界革命の挫折や一国的孤立化にあっても、思想的対象化により真の共産主義的作風・党風をつくりだすことさえできるならば、スターリン主義は乗りこえることができるし、またそのためにわれわれは苦闘する以外ない。
そこでの基軸はブルジョア・イデオロギーの党的反映、近代ブルジョア階級の思想としての合理主義、ブルジョア・アトミズムの克服にあり、人民に立脚した共産主義思想にもとづく党とプロ独国家の建設によるその止揚にある。
スターリン主義は端的にいえばブルジョア社会における人間像、ブルジョア・アトミズムとその裏返しとしての合理主義を克服しきれぬまま、人間的なものの考え方、人間の尊厳を失ったロシア・マルクス主義であり、官僚層の国家支配においてプロレタリアートが単なるその管理操作の対象におとしこめられた、歪んだ政治経済機構により生み出されているものである。
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