戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
第15話 有機「農法」
武治が開拓以来、長年にわたって家畜を飼育し続けてきたことは、この界隈でも珍しかった。機械化が普及するにつれ、特に畜力はアナクロニズムさえ感じさせた。
だが、武治は農作物を健全に育て上げるには、農業と家畜を不可分とする有畜農法が基盤だと考えた。もしこれが崩れていったなら、健全な土壌はなく、従って農作物の完全な生育も見られないとした。
武治の考える有畜農法とは、機械や農薬に対立する別個なものでなく、土と人間の生きた関係の中に求めた有機農業である。彼にとって、これが農業の根本原理だった。木の根でも武治の畑は年を経るに従って肥沃となり、作物の収量も増し、旱魃に耐える地カを持つという事実が明らかになっていった。
武治はこれを有機・無機という言葉に分類したり、固定したりしては考えなかった。生来の農民の持つ土着の思想がそうさせたことであって、何も理屈で考え出したごとではなかった。
だから政府の農政には大きな矛盾を覚え、絶えず疑いの眼をもってみつめてきた武治だった。農林省の役人や農学者も推奨するように、化学肥料が農作物の増収を見せたことも、確かだった。――が数年過ぎると、妙な現象が現われてきた。減収と病虫害の発生が、とみに目立った。それは連作によるものとばかりは、思えなかった。だんだん解ってきたことは、地味肥沃な北総台地一帯の土壌酸性化による、地カの低下に原因があるということである。
今まではそんなことはなかったところからみれば化学肥料と農薬をふんだんに使用した、俗にいう近代化農薬のもたらした弊害とみるしかなかった。化学肥料や農薬の濫用は土中に残留物をもたらし、それが年を重ねるに至って作物ばかりか、作物を通して人畜にも恐るべき公害を撤き散らしたのである。
金肥の濫用はまず土中にバクテリヤ作用をもたらす微生物を死減させ、土中の保温関係を狂わせ、地カを低下させた。その結果金肥使用当初には増収したが、次第にその反動として現われたものが減収と病虫害による作物の被害だった。結局、金肥の濫用は土壌を破壊し、作物の発育を不全にし、病虫害を発生し、旱害に耐える力を失なわしめる結果となった。
自然に抗った近代化農法の天罰は、覿面だったのである。
最近現われた、マルチ農法という、ビニールで地上の作物を発芽時から全面に掩う裁培法も、一つはそういった弊害を補うために生まれたものではなかろうか。ビニールも近代化農法の中では、必要欠くことのできない農業資材である。――が、そのビニールも一〇〇メートル一巻八〇〇円ぐらいだったものが、今では二〇〇〇円以上もの暴騰である。ビニールもこれまた、独占の手にかかる製品で、近来ビニールの使用量の増大には、各面で驚くべきものがある。四月頃、農村を歩けぱ、畑一帯は雪でも降ったように、ビニールで掩われて真白だ。
武治もビニールハウスを持っていたし、ビニールと関係のない農民ではなかったが、彼の営農法はやや人より異なったものをもっていた。
彼の主張は、どんなに農業が近代化され、機械が導入されようが、今昔を問わず有畜農法は農業を営む者の基本的原理だとしていた。
そもそも、土は人間とともに絶えず、太陽光線と水と空気を必要とする生物だった。この自然の理法を無視して、土の生存はおろか、いかなる近代化農業もありえなかった。
二六年間、武治は常に、「木の根の土の中にみみずのように生きてきたのだ」と思い続けてきた。彼にとっての土地とは不動産として商品価値をもつものではない。土は赤い血脈の交流の中に生を同じくする生物だ。特に二六年粒々辛苦の土地は、彼の血と汗の結晶であるばかりか、無限の生産の場だった。
彼は常日頃、畑の中に立って一握の土を掌に、涙を流すことさえあった。
彼の呟く言葉が、隣りの畑に働く人にまでも聞こえることがあった。よく人は武治が土を握ったまま、それを嘗めるような格好をして立っている姿を発見した。彼の土に対する愛着は無類で、その土着性は人一倍強かった。
だがこの心情はひとり武治のみではなかった。一般開拓者の土地への愛着には、誰しも執念ともいうべき強さがあった。人は誰でも一度土を耕し、そこに種を下し収穫を得てみると、土に対する抜けきれない執着心が湧くのである。木の根も二六年の星霜を経て、漸く畑らしい畑になった。武治の開拓農民として生きる基盤が、どうやら据えられようとしていた。
農業は決して一〇年二〇年で完成するものではなく、生涯を賭け、いやその子その孫が後を継いで完成していくものだ。真の農民像は一世一代で生まれ出るものではない。長い世代とその遺産を通して、初めて生まれるものだと武治は考えていた。
だから武治は息子たちの中の誰かに自分の切り開いた土地と農業をうけ継がせたいと願っていた。
すでに長男の和年は遠山中学校を出ると、すぐに母親の郷里である小樽の商店に勤めることになった。後二人の息子たちは父に従って、畑仕事を手伝っていた。
武治はこの二人の中の一人に何としても、農業を継がせたかった。次男の直次はわがままをいいながらも父の農業に興味を持って従っていた。武治はことのほか直次に望みをかけて、なるべく直次を畑に連れ出し、野良仕事に興味を仕向けるように努カした。
その頃辺田部落で武治の生家のすぐ近くの旧家が没落して、その家屋が売りに出た。武治は金を工面して、その長屋門だけを買った。長屋門は茅葺屋根で、ガッチリした材料を使った年代ものだった。
早速、木の根の母屋の傍に移築した。それを作業場と厩舎に改造したら、母屋よりもがっちりして立派に見えてきて、最屋が貧弱になってしまった。
それからは雨が降っても作業場で収穫の作業ができて能率が上がった。今まで野曝しでシートをかけておいた農機具なども、格納できて手入れもゆき届いた。
武治は朝の起きむくれに母屋の縁側にひとり座って、お茶を啜りながら、目の前に厩舎の馬を跳めることができた。これは彼にとっての、朝の楽しみだった。遅い足どりながらも少しずつ計画の実現していくのを知って、彼は心密かに喜ぶのだった。
「順調にいけば少々借金があっても、木の根でいっぱしの百姓になれる」と、武治は思った。苦しかった開拓時代も二六年目を過ぎて、武治の心も漸く固まったところだ。武治の胸の中には来年の作付や、今後の営農計画もきまっていた。
武治の心は弾み、胸は希望に脹んでいた。
「第二章 入植」了 目次へもどる
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