今回のドイツG8対抗行動に対する警察の弾圧実態について、目撃者からの報告を転載させていただいたところ、ドイツを愛するpfaelzerweinさん(どう発音してどういう意味なんだろう?)より「反論」というか、結論を急ぎすぎるのではないかという趣旨のコメントをいただきました。それへの返信が長くなりましたので、ここにエントリーとしても独立させておきます。
おそらくpfaelzerweinさんは、直接行動派のうちでも、今回最も先鋭な行動をした「Black Bloc」などのグループを念頭において書かれておられると思います。その意味で、同じ直接行動派でも、日本の左派が主に連帯している「No Vox」などのグループを念頭において論じている私とは、若干噛み合わないものがあるかもしれません。
左の映像は、数百人が逮捕されるという大弾圧があったロストックでの「No Vox」らを中心とする「直接行動派の過激な行動」(笑)の映像です。まあ確かに「日本基準」で言えばなあ。移動中もみんなで旗たてて気勢あげてるし、会場の周りで歌を歌ったりしているし。日本なら、こういう何の問題もない行為でも、すぐに公安刑事の皆さんが、「無届けデモ(集会)だ!」と、すんごく嬉しそうに機動隊を引き連れてやってくるんですよね。世界基準なら、それは立派な言論弾圧です。まさしく「これでも『先進国』か!」というくらいのがんじがらめの規制です。そういう横暴を日本人は許してはなりません。
まあ、それはともあれ、私はこういう行動を念頭において論じているわけです。なお、こちらのページには、この他にも彼らの「直接行動」の映像が豊富にありますので、是非ご覧ください。
以下、私の書いた返信コメントに補足するとすれば、まず我々「左の左」が少数派であるのは確かであること。まあ、そんなの当たり前で、多数派どころか、3割もいたら、それだけでも世界はずいぶんと変わり得ると思います。ただし「発展途上国」などの民衆を含めたところで「潜在的な世界の多数派」だと思っています。それゆえに、実際の数以上に政治過程に影響を及ぼし得る可能性があるし、実際に及ぼしていると考えます。
次に、イラク戦争をはじめとして、「新自由主義、戦争、環境破壊、人種・移民差別、家父長制など、G8が主導する世界秩序」(ロストック記念集会の発言より)にともなう暴力や強権的な支配によって、多くの人が苦しめられ、死んでいく中で、それらは「合法」であるがゆえに許され、それに抗議することのみを「違法」で許されないとしてことさらに断罪するべきだという「奴隷の理屈」には納得できません。
だいたい「合法・違法」の判断自体、弾圧する側の視点から、非常に恣意的に決められているのが現状です。本来、両者の「暴力」は、その規模や垂れ流す害悪などが公平に比べられ、判断されるべきです。もし、巨大で制度的な暴力に対抗するものであるのなら、それは暴力ではなく「抵抗」なのです。その上で私(たち)は「No Vox」などの非暴力直接行動を支持するという判断をしているわけです。そのことを付け加えておきたいと思います。
pfaelzerweinさんへの返信コメント
pfaelzerweinさん。はじめまして。ご投稿ありがとうございます。ブログも興味深く拝読させていただきました。
さて、一言に直接行動派と言っても、世界的に見て、その中には文字通りの「革命派」から「非暴力直接行動派」まで含まれます。私はそれをpfaelzerweinさんのように「直接行動左派」というように、一くくりで判断できるとは考えていません。ともあれ、その扱いは日本でも古くから議論されてきたところです。彼らの存在によって全体が弾圧されるから追い出せという、日本共産党のような立場も古くからありました。日本共産党はむしろ積極的に公安当局の弾圧に協力し、自らも直接行動派を暴力的に襲撃(内ゲバ)していたくらいです。
そういう日本の不毛な「内ゲバ」(それは暴力だけとは限りません)と比較して、今回のドイツの行動では、サミットに対抗または反対する勢力が幅広く共同行動を組み、一部にはみだした行動が散見されたとしても、全体としてはその枠組みの範囲内での行動が行われていると思います。これは私たち日本の左派から見ると、非常にうらやましい、見習うべき先進的な事例ということになります。
まあ、文字通りの「革命派」は現在ではほとんど存在しないとは思いますし、その「革命派」の中にも実態は穏健な組合主義に毛が生えたようなものから、「テロリスト」と呼ばれても仕方がない反人民的な戦術をとるものまであるでしょうから、個々に判断していくしかありません。
また、その「テロリスト」にしたところで、それが生まれてきた背景にまでさかのぼって考察せず、ステレオタイプな批判だけでは有効な批判たりえず、彼らにとって痛くも痒くもないし、そこに結集していく人々を引き止めることもできないと考えています。
以上をふまえた上で、彼らに対する「断固とした態度」が「当然」かどうかですが、pfaelzerweinさんはそれは客観的に判断されるものだと考えておられると思います。しかし実際はそれを論じる人の主観的な立場によるものです。ドイツの行動が「先進的な事例」になるのも、「私の立場からは」という主観の一つにすぎません。ここでpfaelzerweinさんの主観について噛み合わない論争をする気はありませんが、pfaelzerweinさんはそういう考えなのだということについては了解し、心にとめておきます。それ以上のことが必要ならエントリーを起こしてトラックバックしていただければと思います。
その上で、多少は噛み合うかなと思うところを申し上げれば、「憲法裁判所でも否定されていない」から、「弾圧かどうかは今後の議論しだい」というのはいかがなものでしょうか?少なくとも弾圧(政治行動に対する公権力による規制)であることは疑いの余地がないとは思いますが、問題はその弾圧が全体的に見て、人々の自由を守るために”だけ”課せられる厳密に最低限なものであり、かつ運用面も含めて厳格に中立的なものであるかどうかです。ドイツの規制はこの点において大変に疑わしく、不当な弾圧であり、運用も強権的かつ恣意的であると思います。ましてや機動隊が「一般デモ参加者を守ろうとした」などというのは、非常に失礼とは思いますが、正直申し上げて失笑しました(ごめんなさい)。
私は短期間ですが、三里塚(成田)の空港建設反対闘争に参加した経験があります。そこではほとんどの場合、一方的にやってきた機動隊が、そこにいた反対派の農民や支援の人々を襲撃し、盾や棍棒で無抵抗の人間をさんざんに殴って逮捕していくというのが実態でした。ところが警察発表では「反対派が暴力的に襲撃したのでやむを得ず…」となり、新聞ではその警察発表の通りに報道されます。また、テレビの報道でも、反対派が必死に抵抗しているような「絵的に受ける」ような場面ばかりが繰り返し流れます。
私はこういう悔しい思いをしてきましたので、マスコミ報道(=警察の言い分)を鵜呑みにすることができません。マスコミというのは、良くも悪くも(役人汚職などの例外的な場合をのぞけば)行政機関の意向を広く国民に伝えるものとして存在しているという点に留意すべきです。ある元記者の方が「たとえば私が、警察が不当な弾圧をしている所を見たとしても、そんなふうには絶対に記事にできない。記事するとすれば、やはり警察発表に沿って5W1Hにまとめるしかないのだ」とはっきりおっしゃいました。そのような「行政機関発信の情報」がマスコミ記事の70%であるが、それはそういうものとしてマスコミは存在せざるを得ず、そのことに善悪はないのであると。そう思ってもう一度お手元の新聞をよく見て下さい。この方のおっしゃっていることが真実だとわかるはずです。もちろんそうやって記事にまとめる過程で多少は個人の色合いのようなものが、そこはかとなくにじみ出るかもしれませんが、基本的にマスコミの「中立」とはそういう意味なのです。
蛇足ながら付け加えますと、この方は「皆さんのような社会運動は、マスコミの偏向に怒るでのはなく、しょせんマスコミは善悪もなくそういうものなんだと割り切って、もっとマスコミの『残りの30%』を活用する努力をするべきだ」「私たちが記事にせざるを得ないような社会的に意味のある情報を発信してほしい」と、非常に示唆に富む事をおっしゃっておられました。
ともあれ、こういう事情の中では、マスコミ報道(=警察の言い分)と弾圧された方の言い分の双方を聞いて、総合的に判断するより他に、正確な事態を知ることはできません。そしてえてしてこの場合、弾圧されたほうの主張のほうが、マスコミ報道(=警察の言い分)よりも事態を正確に描写していることがほとんであるということを憶えておいてほしいと思います。しかしそれが明らかになるのは、どのような主張をしようとも現実の政治攻防に影響がなくなった数年後なのです。そんな事実は今さら大きく報道もされず、人々は知らないままです。湾岸戦争で米軍が流したプロパガンダの多くが嘘だったと、すべてが終わってからやっと正確に報道されたことを思い出してください。
とりわけ日本の公安や機動隊が絶対に安全なポジションからセコセコと弱い者イジメをするのに比較して、欧州の政治警察や機動隊は非常に「積極的」で凶暴であると古くから異口同音に指摘されていることも(ただし逮捕後の手続については、日本より欧州のほうが民主的なようです)。
だいたい、pfaelzerweinさんも「今後の議論しだい」とおっしゃっておられますが、そもそもその国の裁判所が認めたから問題ないとは全くなりません。イスラエルのアパルトヘイトウォール(分離壁)の建設は、イスラエル裁判所で「合憲」の判断が確定していますが、世界中から非難され続けています。また、アメリカのグアンタナモ収容所は国連から2度も閉鎖勧告が出された強制収容所であり、米最高裁でいったんは「違憲」となりましたが、ブッシュ政権が裁判所の判断にそって法律を整備したので一応は「合憲」となりました。だからアパルトヘイトウォールや、グアンタナモ収容所が非難されるべきものではなくなったとは、到底言えないのではないでしょうか?
さらに極端なことを言えば、北朝鮮の強制収用施設は、北朝鮮の国内法に従って完全に合法的に運営されています。pfaelzerweinさんの立場からは、これらに対しても軽々に批判はできないことになってしまいます。これは「人権の国際化」という現代の課題に逆行するものではないかと思います。
(コメント返信ここまで)
なお、公平を期すために、「Black Bloc」への機動隊による攻撃(取り締まり)の映像も掲載しておきます。おそらくpfaelzerweinさんはこういう映像を念頭に論じておられるのだと思います。
このような衝突になったいきさつにつき、マスコミ(=警察発表)は「Black Blocの側が騒いだから規制しただけ」と言い、デモの統一共同行動の側は、直接行動派以外の人も含めて「ささいな揉め事を口実にして、機動隊がデモ全体に突撃したために混乱が発生し、無関係の者まで無差別に暴行を受けて逮捕された」「何度も機動隊の側から突撃してきて挑発した」と異口同音に証言しています。
それにしても、「Black Bloc」の人数が多く、しかも若い人が多いのに驚かされます。日本ではほとんど紹介されていませんが、アメリカでも現在、ベトナム戦争時を上回る空前の規模の反戦デモの嵐が吹き荒れています。日本でも教育基本法改悪阻止闘争をきっかけにして、若い世代がデモの中心になりつつありますし、かつての「安保世代」の再決起のニュースも次々と飛び込んでいます。
このムーブメントが数年遅れで日本に波及してくること自体はもう確実とは思いますが、問題はその規模と広がりがどの程度になるかですね。日本の社会運動の実力と、今までどれくらい豊かな内容を構築できていたかが試されることになるわけで、そのあたりは大変に不安なところです。ちっちゃな「高揚」で不発にならなければいいのですが。
こんにちはー。
自分自身が保守右派だからこう言うわけではありませんが、若い人たちの空気は改憲反対などを理由に左翼的な活動をするには停滞しすぎているというか、昔の学生運動のようなものは望むべくもないのではないかな、といった感じなのではないかと。周囲の若い人見てると、そう思います。まぁそれでも一部の学生さんなんかが声を上げて小規模なデモもやるかもしれませんが、今の日本の空気ってそういうのを見てみんなでネットで「ばかじゃねーの」とか言ってるのが現実のような。もちろん右翼的なデモをしたって同様にネットで哂われるわけですが。良くも悪くも日本人は現状容認派・穏健派中道じゃないのかなあと思います。流されやすいともよく言われてますね。
…とまあ、特に根拠もなく書いてみました(w
RRさん>
確かに全くおっしゃる通りですね。そのご意見に異存はありません。
ある種の高揚は確実に感じるのですが、私が考えている規模と、RRさんが考えている規模(安保闘争なみ?)に、多少のイメージの違いがあるということだと思います。今は社民党などの幅広い左派をあわせても数千人くらいの集会にしかなりません。共産党をくわえてやっと2万いけるかなってとこではないでしょうか。それを左翼(左の左)単独で、1万人規模(数千でも?)の集会が開ければ、現状では「大高揚」なのですよ(トホホ)。ただ、人数はどんどん増えているし、参加者の層も若くなっていますよ。
あと、こういう政治運動に対する「無視」の態度は、私の世代くらいからはじまったと思います。俗に「シラケ世代」とか「新人類」とか言われました。私より一回り上の世代は、「普通ではない」ことを目指して競い合い、ハングリーで政治や社会や大人たちにもバンバン臆せずに文句をいったものです。私たちの世代はそれを全否定して、「普通であること」はマイナスイメージからプラスイメージになりました。それまでの歴史性を全部切断してしまいました。私はその世代の中では変り種ということになると思います。
世代を代表して言い訳させてもらえば、あれはあれで私たちの世代における一つの「戦略」だったと思うのです。上の世代の人々が、「反抗」という正面突破の戦略をとって砕けていったことに対し、私たちは大人たちを「無視」するという迂回戦術をとったとは言えないだろうかと。別の言い方をすれば、各種の政治運動や、若者を駆り立てようとする政府のあれこれの政策、新興宗教など、あらゆる「隙あらば人の考えや生き方を変えてやろうと身構えている人々」全般に対して、「かったるい」「ださい」と拒否の戦略をとったと。
そう考えますと、私たちは「無感動・無気力・無関心」の三無主義世代とも言われましたが、「さあ、すごいだろ、感動しろよ!」というものすべてに対して、フンッと鼻で笑ってきたと言えます。大人たちも、最初は若者が反抗しなくなって安心していたのですが、すぐに自分たちが別のやり方で拒否されていることに気がついた。そして必死になって若者の無関心を上(右)から切り崩すために必死になってきたのが、この20数年の流れではないかと思っています。
そしてそれはかなり歪な形ながら、ある程度成功してきたと。だが、それは同時にリアクションとして、今まで同じように無視されてきた左派的な動きを、その対極に生み出していかざるを得ないだろうとも思っています。
レス遅くなりましてすみません。
お返事ありがとうございます。まさにおっしゃるとおりですねー。
思想の軸の違うBlogとかを渡り歩いていると勉強になります。