佐藤紅緑『ああ玉杯に花うけて』後編

投稿者:草加 耕助

 浦和中学と黙々塾が野球の試合をやるといううわさが町内に伝わったとき人々は冷笑した。
「勝負になりやしないよ」
 実際それは至当な評である、浦和中学は師範学校と戦っていつも優勝し、その実力は埼玉県を圧倒しているのだ、昨日今日ようやく野球を始めた黙々塾などはとても敵し得べきはずがない。それに浦中の捕手は沈毅をもって名ある小原である。投手の柳は新米だがその変化に富める球と頭脳の明敏ははやくも専門家に嘱目されている、そのうえに手塚のショートも実際うまいものであった、かれはスタートが機敏で、跳躍して片手で高い球を取ることがもっとも得意であった。

「練習しようね」と柳は一同にいった。
「練習なんかしなくてもいいよ、黙兵衛のやつらは相手にならんよ」と手塚がいった。
「そうだそうだ」と一同は賛成した。だが二、三日経ってから小原が顔色をかえて一同を招集した。
「ぼくは昨日黙々の練習を見たがね、火のでるような猛練習だ、それに投手の五大洲はおそろしく速力のある球をだす、あのうえにもしカーブがでたらだれも打てやしまい、ショートのチビ公もなかなかうまいし、捕手のクラモウはロングヒットを打つ、なかなかゆだんができないよ、一たい今度の試合は敵に三分の利があり味方に三分の損がある、敵は新米だから負けてもさまで恥にならないが、味方は古い歴史を持っているから、もし負ければ世間の物笑いになるよ」

「あんなやつはだいじょうぶだよ」と手塚はいった。
「そうじゃない、もしひとりでも傑出した打手があってホームランを三本打てば三点とられるからね、勝負はそのときの拍子だ、強いからってゆだんがならない」
「だからぼくは練習をしようというんだ、青木千三は小学校時代には実にうまかったからね、身体が小さいがおそろしいのはかれだよ」
 と光一はいった。
「豆腐屋のごときは眼中にないね」と手塚がいった。
「それがいけないよ手塚君、きみはうまいけれども敵をあなどるのは悪いくせだ、ぼくは青木の方がぼくよりうまいと思う」
「きみは青木を買いかぶってるよ、あいつはまだ腰が決まらない」
「いざとなれば強くなるよ」
「弱虫だねきみは」と手塚は嘲笑した。
「君よりか青木の方がうまい」と光一も癪にさわっていった。
「あんなやつにくらべられてたまるものか」
 多人数の前なので手塚は虚勢を張っていった。
「そうじゃない手塚」と小原はどなった。「おまえはいつもうまいと人に見られようと思って、片手で球をとったりする、あれはよくないぞ、へたに見られてもいいから健実でなけりゃいけない」
 先輩の一言に手塚は顔を赤めてだまった。その日から練習をはじめた。

 一方 黙々塾では学業のひまひまに猛練習をつづけた。だが家業がいそがしいために練習にくることのできない者もあるので、人数はいつもそろわなかった、安場は日曜以外には帰省しない、ここにおいて黙々先生が自身に空き地へ出張した、先生は野球のことをよくは知らない、がかれは撃剣の達人なので打撃はうまかった、かれはさるまた一つとシャツ一枚の姿で、自製のバットでノックをする、それは実に奇妙ふしぎなノックであった、先生の打つ球には方向が一定しない、三塁へいったり一塁へいったり、ゴロかと思えば外野へ飛んだり、ファウルになったり、ホームランになったりする。
「先生! シートノックはシートの方へ打ってください」と千三が歎願した。
「ばかッ、方向がきまってるならだれでもとれる、敵はどこへ打つかわかりゃしないじゃないか」
 先生はこういって長いバットを持って力のありたけで打つのだからたまらない、鉄砲玉のようなおそろしく早い球はぶんぶんうなって飛んでくる。選手はいずれも汗だらけになって走りまわる。それがおわるとフリーバッティングをやる、それも投球するものは先生である。先生の球はノックのごとくコントロールが悪い、右に左に頭上高く、あるいは足元にバウンドし、あるいは腰骨を打つ。
「先生! まっすぐな球をください」と千三がいう。
「ばかッ敵はいつもまっすぐに投(ほう)るかよ」
 それがおわると先生は千三に投球させて自分で五、六本を打つ。だが先生の造ったバットはこぶこぶだらけなので、打った球はみんなファウルになり、チップになる。で先生が満足に打つまで球を投らなければ機嫌が悪い、ようやく直球を一本打つと先生はにっこりと子どもらしくわらう、そうしてこういう。
「おれの造ったバットはなかなかいいわい」
 練習がすむと先生は一同にいもを煮てくれる、それが何よりの楽しみであった。だが先生は野球のために決して学課をおろそかにしなかった、もし生徒の中に学課をおこたる者があると先生は厳然として一同を叱りつける。
「野球をやめてしまえッ」
 このために生徒は一層学課にはげまざるを得なかった。

ああ玉杯に花うけて

 日がだんだん迫ってきた、ある日安場がきた、コーチがすんで一同が去った後、先生はいかにも心配そうに安場にいった。
「今度中学校に勝てるだろうか」
「さあ」と安場は躊躇した。
「どうかして勝たしてもらいたい、わしが生徒に野球をゆるしたのは少し考えがあってのことだ、この町のものは官学を尊敬して私学を軽蔑する、いいか、中学校や師範学校の生徒はいばるが、黙々塾の生徒は小さくなっている、なあ安場、きみもおぼえがあるだろう」
「そうです、ぼくもずいぶん中学校のやつらにばかにされました」
「そうだ、金があって時間があって学問するものは幸福だ、わしの塾の生徒はみんな不幸なやつばかりだ、同じ土地に生まれ同じ年ごろでありながら、ただ、金のために甲は意気揚々とし乙は悄然とする、こんな不公平な話はないのだ、いいか安場、そこでだ、わしは生徒共の肩身を広くさしてやりたい。
 金ずくではかなわない、かれらの学校は洋風の堂々たるものだ、わしの塾は壁が落ち屋根がもり畳がぼろぼろだ、生徒は町を歩くにいつも小さくなってしょぼしょぼしている、だからせめて野球でもいいから一遍勝たしてやりたい、実力のあるものは貧富にかかわらず優勝者になれるものだということを知らしめたい、師範生も中学生も黙々生も同等のものであると思わせたい、大手をふって町を歩く気にならせたい、だからどうしても今度は勝たねばならん。
 わしもこの年になって、なにをくるしんですっぱだかになって空き地でバットをふり生徒等を相手に遊んでいたかろう、生徒の自尊心を養成したいためだ、そうして一方において町の人々や官学崇拝者を見かえしてやりたいためだ、野球の勝敗は一小事だが、ここで負ければわしの生徒はますます自尊心を失い肩身を小さくする、実に一大事件だ、なあ安場、今度こそはだ、なあおい、しっかりやってくれ」
 先生の声は次第に涙をおびてきた。
「先生!」
 安場は燃ゆるような目を先生に向けていった。
「ぼくもそう思ってます、ぼくはかならず勝たしてごらんに入れます」

 安場は翌日規則正しい練習をした、一回二回三回一同は夜色が迫るまでつづけた。いよいよ明日になった土曜日の早朝から一同が集まった。
「今日は休むよ」と安場はいった。
「明日が試合ですから、是非今日一日みっちりと練習してください」
 と一同がいった。
「いやいや」と安場は頭をふった。
「今日はゆっくり遊んで晩には早く寝ることにしよう、いいか、熟睡するんだぞ、ひとりでも夜ふかしをすると明日は負けるぞ」
 その日は一日遊んで安場は東京における野球界の話を聞かしてくれた、かれは一高と三高の試合の光景などをおもしろく語った。一同はすっかり興奮して目に涙をたたえ、まっかな顔をして聞いていた。
 その夜千三は明日の商売のしたくをおわってから窓から外を見やった、外は暗いが空はなごりなく晴れて星は豆をまいたように輝いていた、千三は明日の好天気を予想してしずかに眠った。

 目がさめると、もう朝日が一ぱいに窓からさしこんですずめの声が楽しそうに聞こえる。
「やあ寝過ごした」と千三はあわてて飛び起きた。
「もっと寝ててもいいよ」と伯父さんはにこにこして店から声をかけた、かれはもう豆腐をおけに移してわらじをはいている。
「伯父さん、ぼくが商売に出ますから伯父さんはやすんでください」
 と千三はいった。
「今日は日曜だからおまえは休め、おまえは今日大事な戦争にゆかなきゃならないじゃないか」
「野球は午後ですから、朝だけぼくは売りにでます」
「いやかまわない、わしもおひるからは見物にゆくぞ、しっかりやってくれ」
「ありがとう伯父さん、それじゃ今日は休ましてもらいます」
「うむ、うまくやれよ、金持ちの学校に負けちゃ貧乏人の顔にかかわらあ」
 伯父さんはこういってらっぱをぷうと鳴らしてでていった。千三は井戸端へでて胸一ぱいに新鮮な空気を呼吸した、それからかれはすっぱだかになって十杯のつるべ水を浴びて身をきよめた。
「どうぞ神様、ぼくの塾をまもってください」
 じっと目を閉じて祈念するとふしぎにも勇気が次第に全身に充満する。

 朝飯をすまして塾へゆくと安場がすでにきていた。一分時の違いもなく全員がうちそろうた。そこで先生が先頭になって調神社(つきのみやじんじゃ)へ参詣する、それから例の空き地へでて猛烈な練習をはじめた。
 春もすでに三月のなかばである、木々のこずえにはわかやかな緑がふきだして、桜のつぼみが輝きわたる青天に向かって薄紅の爪先をそろえている。向こうの並み木は朝日に照らされてその影をぞくぞくと畑道の上に映していると、そこにはにわとりやすずめなどが嬉しそうに飛びまわる。
 昨夜熟睡したのと、昨日一日練習を休んだために一同の元気はすばらしいものであった、安場はすっかり感激した。
「このあんばいではかならず勝つぞ」
 一同は練習をおわって汗をふいた。

「集まれい」と先生は号令をかけた、一同は集まった。
「みんなはだかになれ」
 一同ははだかになった。
「へそをだせい、おい」
 一同はわらった、しかし先生はにこりともしなかった。一同はさるまたのひもをさげてへそをだした。先生は第一番の五大洲(投手)のへそのところを押してみた。
「おい、きみは下腹に力がないぞ、胸のところをへこまして下腹をふくらますようにせい」
「はい」
 先生はつぎのクラモウのへそを押した。
「おい、大きなへそだなあ」
「ぼくはいま力を入れてつきだしてるのです」
「いかん、へそのところをつきだすのじゃない、へその下へ食べたものをみんなさげてやるんだ、いいか、胸がせかせかして負けまい負けまいとあせればあせるほど、下腹がへこんで、肩先に力がはいり、頭がのぼせるんだ、味方が負け色になったらみんなへそに気をおちつけろ、いいか、わすれるな、黙々塾は一名へそ学校だぞ、そう思え」
 先生はひとりひとりにへそを押してみた。
「あまり押すと先生、小便がもります」と二塁手のすずめがいった。そこで先生もわらった。

 その日の試合は製粉会社の裏の広場でやることになった、中学の運動場は修繕のために使用ができなかった、朝からの快晴でかつ日曜であるために見物人はどしどしでかけた、豆腐屋の覚平は早く商売をしまって肩にらっぱをかけたままでかけた、見ると正面に大きな網をはり、白い線を大地に引いて、三ヵ所に大きなまくらのようなものをおいてある、二本の長い線の両側に見物人が陣どっているが、草の上に新聞紙を敷いて座ってるのもあり、またむしろやこしかけを持ち出したのもあった。

 覚平はかくまで野球が人気をひくとは思いもよらなかった。かれは野球とはどんなことをするものか知らなかった。かれは豆腐おけをになって町を歩くとき、おりおり子供等に球を頭にあてられたり背骨を打たれたりするのでむしろ野球に対して反感をいだいていた。
「すりこぎをふりまわすなんてつまらねえまねをするもんだ」
 こうかれはいつもいった、だがいまきてみると子供等ばかりでなく、労働者も商人も紳士も役人も集まっている。
「大変なことになったものだ」

ああ玉杯に花うけて

 かれは肝をつぶしてまごまごしていると後ろから声をかけたものがある。
「覚平さん」
 ふりかえるとそれは八百屋の善兵衛であった、善兵衛はなによりも野球が好きであった、野球が好きだというよりも、野球を見ながらちびりちびりと二合の酒を飲むのが好きなのである、かれもあまり野球の知識はないほうだが、それでも覚平よりはすべてを知っていた。
「やあおまえさんもきてるね」と覚平がいった。
「おらあハア三度のご飯を四度食べても野球は見たいほうで」と善兵衛がいった。
「おれにゃわからねえ」と覚平がいった。
「じゃおらあ教えてやるべえ」と善兵衛はいった。
「ところで一杯どうです」
「これはこれは」
 ふたりは一つのさかずきを献酬した。善兵衛はいろいろ野球の方法を話したが覚平にはやはりわからなかった。
「つまり球を打ってとれないところへ飛ばしてやればいいんです」
「なるほどね」

 ふたりが草に座ってかつ飲みかつ語ってるうちに見物人は刻々に加わった。中学の生徒は制服制帽整然とうちそろうて一塁側に並んだ。その背後には中学びいきの大人連が陣取っている、その中に光一の伯父さん総兵衛がその肥った胸を拡げて汗をふきふきさかんに応援者を狩り集めていた、かれは甥の光一を勝たせたいために商売を休んでやってきたのである。
 この日師範学校の生徒は黙々塾に応援するつもりであった、師範と中学とは犬とさるのごとく仲が悪い、だがこの応援は中止になった、いかんとなれば審判者は師範の選手がたのまれたからである、で師範は中立隊として正面に陣取った。

「早く始めろ」
「なにをぐずぐずしてるんだ」
 気の短い連中は声々に叫んだ、この溢るるごとき群衆をわけて浦和中学の選手が英気さっそうとして場内に現われた、揃いの帽子ユニフォーム、靴下は黒と白の二段抜き、靴のスパイクは日に輝き、胸のマーク横文字の urachu はいかにも名を重んずるわかき武士のごとく見えた。
 見物人は拍手喝采した、すねあてとプロテクターをつけた肩幅の広い小原は、マスクをわきにはさみ、ミットをさげて先頭に立った、それにつづいて眉目秀麗の柳光一、敏捷らしい手塚、その他が一糸みだれずしずかに歩を運んでくる。
「バンザアイ、浦中万歳」
 総兵衛はありったけの声で叫んだ。浦中応援隊は応援歌をうたった、手に手に持った赤い旗は波のごとく一起一伏して声調律呂はきちんきちんと揃う。

 選手は入場するやいなやすぐキャッチボールを始めた、それがすむと、一同さっと散ってめいめいのシートシートに走った。やがてノックが始まった。ノッカーは慶応の選手であった山田という青年である、正確なノックは士気を一層|緊粛させた、三塁から一塁までノックして外野におよびまた内野におよぶまでひとりの過失もなかった、次第に興奮しきたる技術の早業はその花やかな服装と、いかにも得意然たる顔色と共に見物人を圧倒した。
 ダブルプレー、トリプルプレー、その中に手塚のできばえはべっしてすばらしかった、かれはどんなゴロでも完全につかんだ、かれは頭上高き球をジャンプしてとった、左側に打たれた難球を転んでつかんだ、つかむやいなや二塁に送った。その機敏さ、洒脱さはさながら軽業師のごとく見物人を酔わした。
「手塚! 手塚!」の声が鳴りわたった。

 ちょうどそのとき黙々塾の一隊が入場した。
「きたきたきた」
 見物人は立ちあがってその方を見やった、同時に「わあッ」という笑声が一度に起こった。
 見よ! 黙々塾の一隊! それはマークの着いた帽子もなく揃いのユニフォームもない、かれらは一様にてぬぐいで鉢巻きをしていた、かれらのきたシャツにはメリヤスもあればねずみ色に古びたフランネルもあり、腕のないじゅばんもあった、かれらは大抵さるまたの上にへこ帯をきりきりと巻き、結び玉を後ろへたれていた、かれらのはいてるのは車夫のゴム足袋もあれば兵隊の古靴もある。九人はことごとくちがった服装、その先頭にコーチャーの安場は七輪のような黒い顔をしてこけ色になった一高の制服制帽で堂々と歩いてくる。
 いずれを見てもそれはいかにもみじめな一隊であった、かの花やかな浦中と対照してこれは何というきたならしい選手達だろう、見物人は戦わぬうちに勝敗を知った。

「だめだよ、つまらない」
 もう見かぎりをつけて帰ったものもある。一同は肩ならしをやったうえで、さっとシートに着いた、安場は上衣を脱いでノックした。それはなんということだろう。
 元来晴れの戦場におけるノックには一種の秘訣がある、それは難球を打ってやらぬことである、だれでも取れるような球を打ってやれば過失がない、過失がなければ気がおちつく、特に試合になれぬチームに対してはノッカーはよほど寛大に手心せねばいたずらに選手をあがらしてしまうおそれがある。
 なにを思ったか安場のノックは峻辣をきわめたものであった、難球また難球! 第一番に三塁手がミスする、ついでショートの青木、これもみごとにミスする、やりなおす、またミスする、三度、四度! 千三は次第に胸が鼓動した、見物人は口々にののしる。
「やあい、豆腐屋、だめだぞ」
 嘲笑、罵声を聞くたびに千三は頭に血が逆上して目がくらみそうになってきた。かれが血眼になればなるほど、安場のノックが猛烈になる。やっと球をつかんだかと思うと一塁へ三尺も高い球をほうりつける。見物人はますますわらう。
 さんざんな悪罵の中にノックはおわった。千三はいくどもいくども滑ったので身体はどろだらけになった、その他の人々も同様であった。

 やがて審判者がおごそかに宣告した。
「プレーボール!」
 浦中は先攻である。黙々の投手五大洲ははじめてまん中にたった、かれは十六歳ではあるが身長五尺二寸、投手としてはもうしぶんなき体格である、かれは手製のシャツを着ていた、それは白木綿で母が縫うてくれたのだが、かれはその胸のところに墨黒々と片仮名で「モクモク」と右から左に書いた。かれがこれを着たとき、すずめがそれだけはよしてくれといった、かれは頑としてきかない。
「おれは日本人だから日本の文字のしるしを書くんだ、毛唐のまねなんか死んでもしやしないよ」
 これをきいて黙々先生は感歎した。
「松下! おまえはいまにえらいものになるよ」
 見物人はいまかれの胸の片仮名を見て一度にどっとわらった。
「やあい、モクモク」
「モクネンジンやあい」
「モク兵衛やあい」

 だがかれは少しもひるまなかった、かれの鉄砲のごとき速球はまたたく間にふたりを三振せしめた、つぎは柳光一である。光一はボックスに立ってきっと投手を見やった、かれは速球に対して確信がある。千三は小学校にありしとき光一のくせをよく知っている、かれは光一がかならず自分の方へ打つだろうと思った。
「打たしてもいいよ」と千三は五大洲にいった。
「よしッ」
 五大洲はまっすぐな球をだした。戞然と音がした、見物人はひやりとした、球ははたして千三に向かった、千三は早くも右の方へよった。
「しめたッ」
 と思う間もなくかれは足をすべらした、喝采の声が起こった、球は一直線に中堅の方へ転がった。千三の目から涙がこぼれた。光一は早くも二塁に走った。

 つぎの打手は敵の主将小原である。ホームランか三塁か、いずれにしても一点は取るだろうと人々は思った、投手五大洲はじっと腕をくんで捕手のサインを見やった。第一球は高目のカーブであった。五大洲はそのとおりに球を投げた。小原はボールを取るだろうと思いのほか、かれはおどり上がってそれを打った、球はショートの頭をはるかに高く飛んだ、千三はうしろに走った、と球は伸びるかと思いのほか、途中で切れてさか落としに落ちた、ハッと思う間もない、光一は疾風のごとく本塁を襲うた、千三はあわててホームに投げた、球は高くネットを打った。

ああ玉杯に花うけて

 次の打者の三振でわずかに食い止めたものの、第一回において黙々は一点を負けた。千三は顔をあげることができなかった、かれはなくにもなけなかった。
 ぼんやりベンチへ帰ると安場はにこにこしていた。
「おい、だいじょうぶ今日の試合はこっちのものだぞ」
「ぼくはだめだ」と千三がいった。
「いやなかなかいい、すてきにいい」と安場はいった。

 柳がダイヤモンドに立ったとき群集は一度に喝采した。実際柳の風采、その鷹揚な態度はすでに群衆を酔わした。それに対して小原の剛健沈毅な気宇、ふたりの対照はたまらなく美しい。
「柳!」
「小原!」
 この声と共に学校の応援歌がとどろいた。黙々の第一打者は五大洲である。かれはかんかんにおこっていた。かれは頭の鉢巻きをかなぐりすてたとき、その斑々(はんぱん)たる火傷のあとが現われたので見物人はまたまた喝采した。
 柳は静かに敵の姿勢を見やった、そうして美しいボディスイングを起こした。のびのびとした四肢や胴体のあざやかさ、さながら画に見るがよう、球が手をはなれた。五大洲がバットをふったかと見ると球は左翼の頭上はるかに飛んだ、外野手は走った、内野手も走った、陣営騒然とみだれた、小原はあっけに取られてマスクをぬぎ捨てたまま本塁に立っている。
「ホームイン」

 五大洲の一撃で一点を恢復した。このとき三塁の背後の松の枝高くらっぱの音が聞こえた。ついで気違いじみた声!
「もくもく万歳! もくもく勝ったぞ」
「ぷうぷうぷうぽうぽうぷう」
 らっぱは千三の伯父覚平で、叫んでるのは善兵衛である。
 この声援と共にここにおどろくべき声援者が現われた、それは製粉会社の職工四、五十名と、木材会社その他の労働者、百姓、人足、馬夫(まご)! あらゆる貧民階級が一度にどっとときの声をあげた。
「もくもく勝った勝った」
 これに対して総兵衛ははじめは羽織を脱ぎつぎは肌脱ぎになりおわりにすっぱだかになっておどりだした。
「フレー、フレー、浦中!」
 野球場は見物人と見物人との応援戦となった。
 回が進んだ、一対一が二対二となり、五回、六回におよんだとき、浦中は五点、黙々は三点になった。二点の相違! このままで押し通すであろうか。千三は回ごとにミスをした、しかもかれは三振二つ、ピーゴロ一つを打っただけである。かれはすみに小さくなって涙ぐんでいた。覚平はもう松の枝に乗りながららっぱをふく勇気もなくなった。
「勝てないかなあ」とかれは善兵衛にいった。
「勝てそうもないなあ」と善兵衛がいった。すべての応援者も力が抜けてしまった。

 実際柳の成績はおどろくべきものであった、かれの球は速力において五大洲におとっているが、その縦横自在な正奇の球は回が重なるにしたがって熱気をおびてきた、どうかしてかれが敵に打たれこむときには小原がマスクをぬいでダイヤモンドへ進んでくる、そうしてこういう。
「おい、おれの鼻の穴になにかはいってないか見てくれ」
「なにもないよ」と柳は小原の鼻を見ていう。
「そうか、かにが一ぴきはいってるような気がするよ」
「そんなことがあるもんか」と柳はわらいだす。
 それを見て小原はまたいう。
「五大洲の頭にかにを這わせてやろうか」
「なぜだ」
「天下横行だ」
「はッはッはッ」
 これで柳の気がしっかりとおちつくのである、柳は小原の老巧に感謝するのはいつもこういう点にある。
 柳ばかりでない、手塚もいろいろな快技曲技をやって見物人を酔わした、かれはもっとも得意であった、ファインプレーをやるたびに見物人の方を見やって微笑した、ときには帽子をぬいで応援者におじぎをした。

 千三は暗い暗い気分におされてだまっていた。かれはこのままこの場を逃げだしたいと思った。と安場がにこにこしてきた。
「そろそろいい時分だよ」
「なにが?」
「ラッキーセブンだ」
「ぼくにラッキーはない、だめだ」
「ばかいえ、きみはたしかに勝てるのに勝たずにいるんだ」
「どうして?」
「きみは大事なことをわすれてる」
「なにを? 大事なことを?」
「うむ、先生に教わったことを」
 千三はじっと考えた。
「あッ、へそか」
「人間がへそをわすれたら、もうおしまいだ」
「そうか、うむ、ああへそだ、はッはッはッ」
 と千三はわらった。
「わかったか」
 安場はぐっと千三のへそを押した。ふしぎに千三は頭がすッと軽くなった、胸につかえたもじゃもじゃしたものが煙のごとく消えて、どっしりと腹の底に重みができた。
「見ろ! あの手塚てえやつはいまに大変なミスをやるぞ、見物人に賞められることばかりを考えてるからね」
「やる! きっとやる」と千三はいった。

 このとき五大洲は安打して一塁をとった、つぎのクラモウはバントした、手塚はそれを取って二塁へ投げようか一塁へ投げようかと疑惧してるうちに双方を生かしてしまった。三番は千三である。
「ぷうぷうぽうぽう」とらっぱが鳴った。
「青木! 青木! フレイフレイ」と善兵衛がどなる。
「豆腐屋ア」と敵方がひやかす。
 千三はボックスに立つ前にバットを一ふりふった、それは先生の手製のこぶこぶだらけのバットである。かれは血眼になって光一をにらんだ。いままでかれは光一を見るとき一種の弱気を感じたのであった、かれはわが伯父が入獄中に受けた柳家の高恩を思い、わが貧をあわれんで学資をだしてやろうとした光一の友情を思うと、かれの球を打つ気合いが抜けてどうすることもできないのであった。

 いまかれは臍下(せいか)に気をしずめ、先生のバットをさげて立ったとき、はじめて野球の意義がわかった。
 私情は私情である、恩義は恩義である、だが野球は先生および全校の名誉を荷のうて戦うのである、私情をはなれて公々然と戦ってこそそれが本当の野球精神である、このバットは先生を代表したものである、ぼくが打つのでない、先生が打つのだ。
 こう思って光一の顔を見やると光一は微笑している、その男らしい口元、上品な目の中にはこういってるかのごとく見える。
「おたがいに全力を尽くして技術を戦わそうじゃないか、負けても勝ってもいい、敵となり味方となってもよく戦ってこそおたがいの本望だ」
 千三はたまらなく嬉しくなった、かれはボックスに立った。それを見て光一は思った。
「かわいそうに青木は今日はばかにしょげかえっている、一本ぐらいは打たしてやりたいな」
 だがかれはすぐに考えなおした。
「いやいや、ぼくのお情けの球を打って喜ぶ青木ではない、そんなことはかえって青木を侮辱しかつ学校と野球道を侮辱するものだ」
 実際敵の走者が第一第二塁にある、少しもゆだんのならぬ場合である、かれは捕手のサインを見た、小原はすでに青木をあなどっている、かれは第一にウェストボールをサインした、第二もまた……第三には直球である。それは青木の予想するところであった。

 かれは光一の球が燦然たる光を放ってわが思う壺をまっすぐにきたと思った、かれは八分の力をもってふった。
 わっという喊声(かんせい)と共に千三は球がたしかに手塚に取られたと思った、が球は手塚の靴先にバウンドした、手塚はダブルプレーを食わして喝采を博そうとあせったのでスタートをあやまったのである、かれはバウンドした球をつかもうとしてグローブの上ではね返した、ふたたび拾おうとしたとき二塁手と衝突して倒れた。かれは起きあがったがあわてたために球が見えなかった、球はかれの靴のかかとのところにあったのである。
「ボールがボールが」とかれは悲鳴をあげた。中堅手がそれを拾うてホームへ投げた、がこのときはすでにおそかった、五大洲とクラモウは長駆してホームへ入り、千三は三塁にすべり込んだ。
「バンザアイ」
 天地をゆるがすばかりに群集は叫んだ、この叫びがおわらぬうちにすぐにふしぎな喝采が起こった。
 松の枝に乗っていた覚平と善兵衛はバンザイを叫んだ拍子に両手をあげたので、松の上から転がり落ちたのであった。落ちたまま覚平はらっぱをふくことをやめなかった。
「ぷうぷうぽうぽう」
「バンザアイ」

 こうなってくると黙々隊は急に活気づいてきた。一塁手の旗竿は二塁打を打って千三が本塁に入った。黙々は一点を勝ち越した。つぎのすずめはバウンドを打って旗竿を三塁に進めた。
 とつぎには安場の作戦が奇功を奏し、スクイズプレーでまた一点を取った。
 浦中は必死になった、小原、柳は死に物狂いに戦った、が千三の快技はあらゆる難球を食いとめた、かれはしっかりと腹を落ちつけた、かれの頭は透明で気がほがらかであった。

 七==五
 黙々は勝った、波濤のごとき喝采が起こった、中立を標榜していた師範生はことごとく黙々の味方となった。安場が先頭になって一同は中学の門前で凱歌をあげた、そうして町を練り歩いた。町々では手おけに水をくんで接待したのもあった。善兵衛は自分の店のみかんを残らずかつぎ込んでみかんをまきながら選手の後について行った。一同は喜び勇んで塾へ帰った。かれらは塾の前でみんなシャツを脱ぎ、へそをだして門内へはいった。
 先生は一帳羅の羽織とはかまをつけて出迎えた。
「勝ちました」と安場がいった。
「それは最初からわかってる」と先生がいった、そうして「ボールをやると同じ気持ちで学問をすれば天下の大選手になれる」とつけくわえた。

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