戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
第66話 何がそうさせたか
戸田はたまの行為をユダの裏切行為として批判したこともあったが、その後、戸田はその考えを改めなければならなかった。
もちろん、たまの背反行為には赦すことのできないものはあるが、それ以前に自らを問わなければならない、重大な責任のあることを知ったのである。
戸田はたまをしてそうさせた責任について、自問自答しなければならなかった。この問題は単なる「裏切行為」として、ひとりたまのみを糾弾することのみをもって解決するものではない。反対同盟そのものの、資質こそ問わるべき重大問題だった。
今までも清宮カ、藤崎米吉、岡野順、今、また竹村たまという、一連の脱落者を同盟から出したことは、打ち消すことのできない事実だ。だが、竹村たまをもって、最後の脱落者だと、誰が断言できるだろうか。いつまた第二、第三の竹村たまが出ないとも限らない。ここが脱落者をくい止める限界点だという一点は、どこにも見当たらないのだ。これを見忘れていかなる三里塚闘争もないのだと、戸田は身に染みて思わされた。
この問題点を同盟各自がはっきりと見究め、総括してかからないと、しまいには総崩れする時が来るのではなかろうか。俺だけはとどんなに自負してみても、そんなものは一つの観念にしか過きず、何の役にも立たず、根も葉もないものだった。
なぜなら過去に自負した最も強い人物が、次々と脱落していった。彼等を特別に裏切者だときめつける根拠が、どこにあるのだろうか。誰もかれもの中に、同志を裏切らんとする恐るべきエゴが、たしかに内包されているのだ。
これに無知で、今後の同盟をどうするというのだ。たまをしてそうさせた最大の理由は何なのか。これを考えることなしに、決して三里塚闘争の新しい展開は見られないのではなかろうか。少なくとも国家権力と対決して闘うには、どうしても農民の生活基盤が重要な拠点であり、これと分離してどんな闘いもありえないことがわかってきた。
闘いの中に生活基盤としての拠点を築くために、私たちは、どれだけ真剣にそれを考えたことがあるだろうか。いや、一度たりともなかったのではないか。この意味で闘う農民の共同体は、果たして可能なものだろうか。もし、これが不可能だとすれば、三里塚闘争は敗北するかも知れぬと、戸田は考えに考えつめた。
こう考えてくると戸田は責任重く、耐え難くなった。一切をかなぐり棄てて、身軽になりたかった。
これもたまと同じように、権力に対する絶望感から来るものだろうか。過去の多くの同志たちも皆、このような心境の仲で、同盟から離反していったのではなかろうか。
やがて第二期工区内の闘いも、開始するだろう。この時は何を武器として闘ったらいいのだろうか。過去の闘いはすでに終わった。過去の闘いの延長線上に、今後の闘いはあり得ないことを、戸田は知らされた。
闘いは新しく、再び出発しなければならない時がきたのだ。「俺は空港に一坪の土地も売らない」と、自負してみても、売らざるもえない境地に、刻々追いつめられていく農民――敵権力の手中に政策をもって、押さえ込まれている農民であることを知らずに、いくら実力闘争だと喚いてみても、所詮は自らの墓穴を掘るようなものだ。
闘いは新次元に突入した。要は二期工区内二四世帯の農民の闘いをいかに生きるかだ。それが今後の三里塚闘争の課題だと、戸田は考えつめた。
「第九章 仄々(前編)」了 目次へもどる
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