情勢はどんどん動く。このブログもそういう動き続ける情勢についていかねばならんのかなと思う。そのための一番楽チンな方法は、日々の政局なんかのニュースを毎日とりあげて、それに短い論評をつけていくニュースサイト方式かな。きっとそうしたほうがアクセス数もあがるんだろうな。
けどそれじゃあ、自分自身のモチベーションが保てない。政局ニュースとか毎日やってたら、やってるうち絶対に「どうでもいいや!こんなの」と思ってしまうだろうな。そんな自分がいいとも、ましてや「高尚」だなんて露ほども思わないけど、ホントそういう生の政治とかダメなんだよね。興味がわかないを通り越して嫌いなんですよ。ずっと前にも書きましたが、私は「蝶を追う人」ですからね。「青い鳥を追う人」の現実とはズレちゃうんでしょうね。
ここんとこは特にそうで、政治的な文章とか本とかも読めないし、もう脳が受け付けない。元来がそうなのに、無理してたんだと思う。ここ数ヶ月で読み終えたのは、天童荒太さんの『悼む人』、曽野綾子さんの『天上の青』くらいかな。両方とも読み終えてからすぐにもう一度、今度はゆっくりと読み直したから、何ヶ月も楽しめました。今読んでいるのは立花隆さんの『臨死体験』。これはこれで面白い。同名のNHKドキュメンタリーでの取材から生まれた本なので、本とテレビの情報加工の違いなども比較できたのも興味深かったです。でもやっぱり『宇宙からの帰還』のほうがおすすめかな。
『天上の青』などで曽野さんの小説に登場するクリスチャンやその宗教観は好きです。思わずクリスチャンでもいいかなと思っちゃう(笑)。こういう小説を書く人が、なんで世界中から非難されているチリの虐殺者ピノチェトやフジモリをかばうのかなあ。『天上の青』でも、クリスチャンの波多野雪子が連続殺人鬼の宇野富士男と心の交流を持つんですよ。雪子は富士男を「教え諭す」のではなくて、すべてをありのままに受け入れ、同時に受け流し、非難せず、自然体で愛そうとします。「どこのどんな人なのか」を詮索せずに、目の前にいるありのままの富士男に、ありのままの自分で接する。だから富士男の毒にも染まらないし、富士男のほうが驚いて自然に心を開いてしまう。どこかで同じ寂しさをもつ二人ですが、でも決して雪子は富士男を受け入れつつも迎合することはないんです。男女の関係にもなりそうでならない。
本当のところはわかりませんが、その深い情感のこもった交流と、現実の曽野さんのフジモリとの接し方は随分と異質なもののような気がします。極めて政治的というか、生臭く感じてしまいます。小説後半に富士男が逮捕されてからの、雪子と富士男の長い手紙での交流の中でも、雪子は富士男に殺された被害者やその家族のことを忘れてはいない。ただ、被害者でもない自分が富士男の人格を否定するような、安っぽい正義をふりかざさないだけ。富士男を呼び捨てにする権利があるのは被害者の家族だけで、自分にはないという。そんな雪子は人間としてとても魅力的で感銘を受けます。でも現実の曽野さんは、フジモリの責任で殺されたり、一生を台無しにされた罪なき人々のことを忘れないで彼と接していたんでしょうか。曽野さんの心の中は曽野さんにしかわかりませんが、ただ政治にのめっちゃうと素朴な良心や魂の眼が曇っちゃうのもよくある話なので、私もくれぐれも気をつけないとと思います。
その前に読んだものでは日系イギリス人の作家、カズオ・イシグロさんの『日の名残り』がよかったです。これは映画化もされているらしくて、そちらは見てないんだけど、やはり一人称で語られる主人公の心理描写が直接的でない「わかりにくい」ところが胸にせまってくる、決して言葉通りに受け取ってはいけないところがいいのであって、これを映像で「わかりやすく」されてしまっては、とりわけイギリスの伝統文化やその美学をバックボーンとして共有していない者にとって、魅力半減ではないのかと思います。
特に後半でスティーブンスが主人のために、どうでもいいような客のどうでもいいような接待のために廊下に立ち続けるシーンが延々と描写されます。これがこの小説のクライマックスみたいなものだと私は思うのですが、このどうでもいいような長い描写の最後の最後に、「この夜が執事としての私の人生の中で最大の試練だったのです」という意味の一行があるのを見たとき、一気にスティーブンスの心情がどっと流れ込んできて衝撃を受けました。そこからラストの「時計の針は元には戻せないもの」という、それだけ読めば一見ありきたりのケントンの別れ際の台詞がしみじみと胸にしみて迫ってくる。これを映像でどう表現しているのかなあ。よほどの名優と名監督でないと表現できないか、極めて陳腐になってしまいそうに思うのですが。
まあ私って、本当はこういう開いた口がふさがらないような鼻持ちならない文章ばかり書いていたい人なんですが、こういう話と政治の両方について、それなりに語れてどちらも一流と言えるような文章を書けたのは、トロツキーと三浦小太郎くらいかな(笑)。私はそのどちらも書けないから困ったもんですが。さらに三浦さんは漫画評も書いていて、それも面白いからなあ。まだ書いておられないのはアニメとゲームくらいか。そのトロツキーと三浦さんの最大の違いは、トロツキーは私と思想的に近いけれども、おそらくそばにいたら我慢ならない嫌な奴だったに違いないと思うが、三浦さんは思想や考えは私と反対だが、きっとそばにいても心地よいくらいの好人物だろうということかな。麻生マンガ太郎なんてのが過去にいましたが、ありゃ単にマンガ週刊誌読んでるだけで、別にそれは悪いことではないけれど、それ以上に特になんかの文化的な素養があるわけでも、ましてや「オタクの味方」なんかでは絶対にないですよ。
本当は今日はね、「あ」さんへのレスシリーズからの流れで、共産党員でもある土佐高知さんのブログ(プラスそのコメント欄)で交わされている党組織論の議論について書こうと思っていたんですよ。大切な話だと思うし、GOあるみさんもエントリーあげておられます。私もエントリーをあげて議論をネットで横断的に広げていければ、そういうのが本来のネットの議論だと思うのですね。「勝ち負けゲーム」のくだらないエセ議論ではなくて。で、その枕として、政治というのはそれ自体が自己目的化して存在するのではないというようなことを書こうとしたら、こんなになっちゃった(笑)。
つーかもう最近、小説つながりで表現すれば太宰治の『トカトントン』でね。土佐高知さんとこのコメント欄(に限らないんですが)の中でも「~なのである」式の大上段にふりかぶった書き方をしている人を見ますと、ずっと頭の中で「トカトントン」ですよ。大切な話だとは頭ではわかっちゃいるんですけどね。どうも人間は、「頭」と「心」と「体」とそれに「下半身(爆)」がそれぞれ密接に関連しあいながらも別々の生き物らしいです。その中でも今は心が弱っているというか、単に生命力が低下しているだけかもしれませんが、ちょっと引きこもりに近い心情になっています。大げさに言えば、人恋しいくせに、他人とコミュニケーションがとれない感じ。なんでだろう。絶対にそれをしないとヤバイような簡単なことだって、なんかどうしても体が動かないです。これがあんまり長く続くとまずいなあ。3・28三里塚闘争からなんとか脱却していかなければと思う。
基本やはり私は論理や理屈が先にたって動くような頭でっかちな生き方はできないんだと思う。そういうものは後からそれが必要だからついてくるものだと思っている。三里塚で言えば農民の現実があって、それを許せるか、こんなことをしてしまう国家っていったい何なんだというところからすべてがはじまる。じゃあどうするのかという段になって、はじめて理屈が(後から)ついてくる。政治や思想は宗教じゃないんだからそれでいいと思う。それこそが本物だと思う。おかしいことはおかしい。それをおかしくないという屁理屈に意味があるとは思えないのです。だからもう一度その原点に戻って、徹底的に素朴実践主義の境地から再度はじめてみたいと思います。
以前にマザーテレサの言葉を使ったエントリーで、三浦さんから「そういう発想の人はかえって残酷になりうる時もある」という指摘もうけましたが、大丈夫です。私はどんな方向にしろ、残酷になりうるほど強くないですから。弱くていい。「頑強なまでに弱く」ありたいと思います。弱いからわかることもあるし、寛容になりうることだってある。これからも、ちっとも立派な人じゃない、みっともない姿をさらし続けます。愚民左派(=バカサヨク)代表として頑張る『旗旗』をよろしくお願いします。ただ、邪魔にはならないかわりに、万が一にも頼ったり、あてにしちゃあダメよ(笑
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