なかなか見えにくい国家の動きだけれど 原発や重化学工業の保持のため軍事との結びつきを強める中に憲法改正の動きをみておかなければならない

日本の軍需産業(死の商人)
ビデオ「軍事工場は、今」より(日本電波社)

by 味岡 修

平昌五輪を楽しみつつ人類の未来を思う

 はじめはもう少しだと感じていて、のり切れなかった平昌オリンピックだったが、終わりに近くになって結構楽しかった。カーリングなんて競技にはさして興味もなかったが、最後のイギリス戦は連れ合いと炬燵で楽しませてもらった。選手のキャラがいいのか、親しみが持てたのは不思議だったがよかった。

 スポーツ競技には国家などを持ちこまず、選手にそれを背負わせずということをいつも思っているが、競技は自然にそうなっていくのだろうか。果たして東京オリンピックはどうだろうか。1964年の時はまだどこか、選手も人々もそうしたことから脱しきれないでいたという記憶があるが、そこは大きく変わるのだろうか。

 古代のギリシャで戦争と併存しながら、こうした競技の大会が持てたことをあれこれ想像してみたが、戦争は消えたけど、オリンピックは残ったというようになればいいのだろう。人類にそんな未来は可能か。でもそうなって欲しい。このオリンピックでつかのま間つかのまとはいえ韓国と北朝鮮の融和的動きに焦ったような日本政府の対応は滑稽だった。日韓の会談で安倍首相が圧力継続を要請し、「内政干渉だ」とはねつけられたという報道はそれを示していた。

裁量・派遣労働-重要なのは雇用者に主導権があるか否か

 国会では裁量労働のことが議論されていたが、僕はかつて派遣労働が拡大していく時代のことを思い出す。派遣労働はかつて厳しき制限されていた。それには派遣労働には前近代的な労働形態の残滓があり、その非合理性を是正する要求の結果である。労働法という規制は必然だったし、必要なことだった。

 ただ、この労働のあり方の変化、規制緩和(派遣労働の領域の拡大と合法化)の動きも見ていた。これには高度成長が背景にあった。僕はその時期に「モグリ」と呼ばれていた派遣的な形態で仕事をやっていた。正確には請負仕事であったのだが、実態は派遣の形態でもあった。

 それをフリーランスの集合体として組織し、事業化もした。出版界や印刷業界を中心にして隙間の仕事を組織したのであるが、ここには従来の労働形態の変化の基盤を見ていた。ただ、この派遣労働の拡大は非正規労働の拡大と格差の拡大に結果していたことも知っている。

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 裁量労働というのは、労働の規制を不合理とする労働形態の拡大を背景にしてでてきたことであり、派遣労働の拡大の流れ中にあるものだと思う。このときに、重要なことは裁量の決定が雇用者にあるか、被雇用者にあるかということであり、そこでの力関係と権利の保障ということがどうなっているかである。この根本的なところでの問題を無視すれば、派遣労働が非正規の拡大に結果したことと同じことが結果することは見えている。

 時間制(労働時間制の規定)は矛盾もあるが、それ以外にまだ、労働関係を規定するいいものはないし、これは重いものである。現実に裁量労働が機能する条件や基盤にしっかり目をやれば、それがどのような結果にあるかはっきりする。裁量労働は現状では働く側に過酷になると思う。

 厚労省の人たちは実態を分かっているからこそ、データーを捏造したのであるといえる。それに対して労働の現実過程を知らない、本当は関心もない与党の政治家たちは、はたしてこうした法案をちゃんと扱えるのか。

見えないし説明もされない憲法改正の合理的必然性

 こうした国会の動きの向こうでもう一つ憲法改正の動きがある。結局のところの憲法9条の改定(自衛隊の明記)が焦点になっているのだが、この議論ではその必然性というか、理由が伝わってこない。つまりは提起者の説明がということになるのであるが、僕らはこのことを考えざるを得ない。今なぜ、憲法の改正なのか、自衛隊の明記なのか、こちらに伝わる説明がない。

 この疑問は多くの人の感ずるところであるらしいことは各種の世論調査からもうかがえることだ。だからと言って僕らは手をこまぬいているわけにはいかない。僕らは彼等の本当の考えをえぐり出し、憲法改正の意図というか、本当の理由を知らねばならない。言うまでもないことだが、安全保障の条件が厳しいとか、北朝鮮のミサイル発射などは関係がない。政府はそれを口実として利用はしているにしても。

原発への固執と「潜在核武装」の欲求

 ヒントはどこにもある。例えば、僕らが政府や官僚や電力業者や経済界の面々がなぜ、原発再稼働―原発存続に固執しているのかを考えるが、そこに重ねてもいい。原発に固執する面々の本当の理由は見えづらい。9条改正もそれに似ている。

 彼等がかつて主張していた原発建設の理由(「安心」「安い」「必要な電力」)などがことごとく崩れ去り、今や逆のことが露わになっている。安全ではない、原発は安くない、原発なくても電力は足りている、それに使用済み核燃料の処理問題が浮上している。だが、彼等はこうした事態の中でどのような説明もしないで再稼働を進めようとする。

 何故か。これは確かに権益(既得権護持)ということがあるが、さらには潜在核武装(いつでも短期間に核兵器を持てる状態)への欲求もある。この後者は、表立って主張はされていないが政府や官僚が原発保持を固執する根拠である。

 最近に出た山本義隆さんの『近代日本一五〇年』には詳しい説明がある。政府や官僚は固執には潜在核武装の欲求ということが推察できる。これはさらに突き込んでいえば、潜在核武装には軍事による重化学工業保持ということがある。原発は重化学工業の先端を象徴し、その破綻を露呈させたのだが、それを国家(軍事)で救済し、保持をということがあるのだ。

アメリカ型の軍事に支えられた重化学工業経済

 重化学工業が日本では国家や軍事と結びついてきた歴史があるのだが、今、そこに帰る動きが考えられる。原発の固執には潜在核武装と同時に、国家(軍事)による原発(重化学工業)を支えるという面を象徴するところがある。こうしたことから類推できることは、高度成長が破綻した日本の重化学工業の転換(高度成長経済モデルの転換)ではなく、国家(軍事)による支えに方向を見出そうとしている動きがあるということだ。

 重化学工業の主導による高度成長経済モデルが破綻したアメリカ経済は、金融経済と軍事経済(産軍複合経済)に次の方向を見出そうとしてきた。日本でも高度成長経済の破綻の後、「失われた20年」などと言われてきたが、そこでアメリカ経済を模倣するのか、どうかが焦点の一つだった。

 そして安倍政権は重化学工業主導の高度成長経済モデルの転換ではなく、アメリカの模倣に歩を進めているのであり、軍事に支えられた重化学工業の存続を志向しているのである。武器輸出の規制緩和をはじめとする経済の軍事化の進展はそれを物語っている。

国家(軍)主導の経済政策のために必要な憲法改正

 「原発依存から再生エネルギーへ」の政策転換には、重化学工業主導の経済モデルの転換が一体化している。それを志向するのでなく、安倍は重化学工業の保持を志向していて、そのためには軍事との結びつきを強めようとしている。安倍の「戦争のできる国」へという動きは、背後に経済と軍事との結びつきがある。憲法への自衛隊明記はこれと深く結びついてもいる。

 自衛隊の憲法明記は現存の自衛隊の法的認知ではなく、自衛隊の国家の軍隊としての本格的な創生であり、経済の軍事との結びつきによる発展と連動している、僕は昭和史を見直していて国家(軍)の主導ということを考えることが多いが、これは過去の話ではない。

 今、何故なのかが分かりにくい自衛隊の憲法への明記は、経済の軍事との結びつきに必要とされている。重化学工業主導による高度成長経済の破綻の後に、それを存続させるために軍事との結びつきを強める。そこに憲法改正の動きがあることを理解しなければならない。

 原発や重化学工業の保持のための軍事との結びつきを強める、その中に憲法改正の動きをみておかなければならない。安全保障の環境が厳しくなったなどは口実にすぎず、そこから憲法改正がでてくるなんて誰も思ってもいないけれど、政府が憲法改正に固執する一端はここにもあるのではないか。(三上治)

1件のコメント

「重化学工業が日本では国家や軍事と結びついてきた歴史があるのだが、今、そこに帰る動きが考えられる。原発の固執には潜在核武装と同時に、国家(軍事)による原発(重化学工業)を支えるという面を象徴するところがある。」味岡 修(三上 治) https://t.co/TnlJ3dSqT4

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。