来週は花見の真っ盛り。「そだね…僕らも日比谷公園で」

自衛隊by 味岡 修

 季節とは匂いなのだろうか。春の匂いとは素敵な言葉だが、山全体からに匂うようにやってきた幼年期の春が思い浮かぶ。僕が幼年期を過ごした故郷の山々も随分と変わってしまってはいるのだろうと思う。吉野の住人で歌人でもあった前登志夫の『いのちなりけり吉野晩禱』を読むと吉野周辺でも山桜をみつけるが難しくなった、とあった。
 前さんは10年前に亡くなっているからこれは遺稿文を集めたものだが、山桜は何処の山々でも見かけたのに、山の道々ではあまりみかけなくなった、と書いていた。吉野の桜といわれる場所のものは往年のままだろうが、周辺では変わってきているのだろうか。里山などが荒れているのと同じなのか。桜の木は意外と寿命が短いらしいから、手を加えないままだと絶えてしまうのかもしれない。桜の季節になると吉野行きたいと思う。桜狂いで庵まで作った西行のことはいつも思い出しているが、吉野の桜をみることは憧れのままで終わってしまうのだろうか。

 僕らが座り込んでいる経産省前からは斜め前の外務省には早咲きの桜がことしも満開である。樹の大きさから察すれば戦後に植えたのだろうが、何処よりも先に咲くとはセンスのあった御仁が植えたのかと思う。平和外交を真っ先やっているとは言い難い外務省だが、そういう日がくることを願う。僕は花見が好きだったし、周りも僕の花見好きを知っていてよく誘ってくれた。遅くまで花見といえば出かけて行ったものだ。かつては自然に体が、反応したというか、無意識に出掛けたのだが、最近は花見が好きなはなぜだろうと考えることがある。今年は日比谷公園のカモメひろばで花見をやる。3月25日(日)の川柳句会の終わったあと(午後4時ころから)。花見で会いたいと思う。

 週末には花見だというのに、国会は森友学園の国有地不正取引事件で揺れている、これは単純な事件である。安倍夫妻の権力乱用という権力犯罪であり、そこから、またいろいろの犯罪が出てきている。その過程で日本の権力のあり様(何よりも駄目な権力)を露呈させている。その安倍を総裁にいただく自民党は党大会で憲法9条に「自衛隊明記」する憲法改正案を決定しそうである。これは自民党憲法改正本部が細田本部長に条文作成案の一任をとりつけようとする動きがみえるのだ。自民党の改憲4項目は9条、緊急事態条項、合区解消、教育である。それぞれ、問題のある改憲項目だが、これについてはそれぞれ機会を設けて問題点を指摘するが、ここでは、9条の件について述べておきたい。

 自民党の改憲の眼目は大きくは二つあって、一つは現憲法の自由で民主的な性格、近代憲法としての性格を国家主義的な性格に変えようというものであり、現憲法の立憲的性格の改定である。憲法の個人主義的性格というか、自由と個人の尊厳という思想の影響の強い性格の改定である。これは自民党が保守政党であるが、彼等の保守思想は自由や個人の尊厳という事をイデオロギーとしてはともかく、思想として持つものではなく、国家主義思想でそれを制限しようとするところが強いからだ。もう一つは憲法9条の改正だった。9条の平和条項(非戦条項)の改正である。これが憲法改正の中心の項目であったことは論を待たない。誰もが認めるところだ、この場合に、憲法9条がアメリカ占領軍の日本弱体化政策から生まれたものであり、特に第二項の「交戦権は認めない」は国家主権の制限であり、その改定で国家主権の回復を目指すということだった。

 自民党憲法改正草案では特に憲法9条(2項の廃止)は前提であった。だが、昨年の5月に安倍首相は「憲法9条の2項は残し、自衛隊の明記」を改正の方向として提起してきた。これは従来の憲法改正案(構想)の変更であったが、それの経路(考えを変えた経路)は明らかにされなかった。だから、いろいろと憶測をするしかなかったのであるが、一般的には何が何でも憲法を改正したい、そのためには公明党を巻き込むための方向転換かと推測された。これは間違ってはいないのであろうが(政治戦略、戦術として)、これはもう少し、大きなところでの理由を見なければいけないと思う。

 安倍が憲法9条の第二項を残したまま、自衛隊を明記する改正案は自衛隊が憲法違反であるという議論が多いためであるという。違憲という学者もいるし、自衛隊を違憲という国民はいる。自衛隊は憲法9条の第二項に「前項の目的を達するために」、というところをいれた。そのために「陸海空軍そのたの戦力は、これを認めない」「國の交戦権は、これを認めない」というところは国際紛争を解決する手段としての陸海空軍は認めない、交戦権は認めないという意味になり、自衛隊はこの規定外の軍(存在)であるとされてきた。だから、自衛隊は憲法に違反しない存在であるという解釈があった。自衛隊は自衛(自衛のため戦争)の軍隊であり、憲法上は国際紛争解決の手段の軍隊ではないという解釈で根拠づけられてきた。このことの是非はあると思う。僕は自衛のための闘いはやるが、そのためには史的に見て国家軍隊は役立たない。妨害物になるし、敵対的存在になることを危惧するから、自衛隊のようなものはいらないと考える。自衛隊が違憲かどうかに関係なく、自衛隊を否定する考えはある。そして、また、現在の自衛隊を自衛のための軍隊として認める考えもあると思う。専守防衛の軍という考えである。僕の意見はこれとは違うが、その考えとは協調して、国家軍隊の創出と闘う上で共同しても良いと思う。自衛隊の存在についての最低限の考えはこの辺と考えている。

 安倍は自衛隊違憲論があり、それをふりはらうために「自衛隊の明記」を書き込むという。彼にその案が否定されても現行の憲法解釈は変えないという。自衛隊の憲法解釈は変えないというのだから、なぜわざわざ、「自衛隊の明記」という憲法改正をやるのか明瞭ではない。なぜ、自衛隊の合憲化をこんな形で進めようとするのか明瞭ではない。明瞭でない法案だから反対しにくいという政治的戦略があるのだろうか。それも考えられるが、そうだけではない。

 僕は隠されて、表には出したくないという本当の理由があるのだと理解する、自衛隊の存在を違憲とする考えがあるのを払拭するというが、こうした消極的理由ではなしに、「自衛隊を明記」することで、国民の意志から生まれた軍隊に自衛隊を飛躍させる、それを作り変えるという考えがあるのだ。自衛の軍としての自衛隊というがそれは名目であり、アメリカ軍の要請で出来た軍であり、国民が創出した、国民によって制定された、そうした精神的背景を持たない軍であることは誰しもが認めることだ。その構造を変え、自衛隊が国民の意志を背骨に持つ軍に変える方法として、そのだ一歩として憲法明記をというのである。これは、「前項の目滝を達するため」といい文言をいれることで、自衛隊が憲法に違反しないという解釈を可能にしてきたが、それ以上に憲法9条という非戦条項は戦争の否定と軍隊を否定する共同意志として機能してきた。自衛隊が合憲か否かという規定を超えて、戦争と軍隊の否定である。安倍はそれを変えたいのではないか。自衛隊が自衛の軍であり憲法に違反しないと言ったところで、自衛隊を拘束する共同の意志として9条は作用してきた。自衛とか、自衛のための戦争という概念やイメージが曖昧なことに問題はないとはいえない。これについては僕の考えを披瀝したいが、今回はペースがない。

 安倍は「戦争のできる国」にしたいといわれてきたが、戦争をもっと本格的に考えている。国家という事でもいいが、戦争の構え(備え)を第一に置いた国家の構成をめざしているのである。その意味で憲法9条を持つ、それが作用する国家を変えたいのだ。自衛隊の精神的位置づけをかえること、国民的な背景を持つ軍隊へと、その精神を変えることで国家意志の発現としての軍事行動ができる軍隊への改変を密かにめざしているのである。かつて三島由紀夫は天皇の栄誉大権によって自衛隊に精神的背骨をいれることを目論んだ。こ憲法への自衛隊の明記は憲法9条の実質的無効化であり、本格的な軍の創出を目指しているのだ。

 自衛隊は装備の点で言えば世界有数の軍隊になった、しかし、その精神的な背骨は弱い。自衛のための軍の限界である。ここを超える試みというか、そのだ一歩が憲法への「自衛隊の明記」である。安倍にとって憲法は権力を縛るものではなく、国民を縛る統治の道具である、この点で憲法を利用しょうと考えているのだともいえる。

 花見を大いに楽しもう。酒を控えているのは残念だが、花見はしたい、しかし、僕らは背後で進む自民党の憲法改正の動きに目を離さないでもおこう。(三上治)

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。