財務省前も国会前も連日抗議の声が溢れ出ている

安倍&籠池 トカゲの尻尾切りby 味岡 修

 今日は月例祈祷会もあり、経産省前に出掛けた。「3・11」後という事もあって今日の祈祷会は深みがあった。毎回、中身は濃くなっているが、この会に参加するたびに死者の事を考えさせられる。今回は「3・11」7年目ということもあり、東北大震災の死者のことをあらためて思った。

 親や子を亡くした人たちの経て来たことを想起させる報道記事に心うたれながら、僕らが死のことを考えるのは生きてあること、その現在を考えることに他ならない、と思った。大震災は2011年の3月に起こったことだが、原発震災は現在も続いていることだし、また、その震災による死者を生み続けているのだと思えた。復興以前なのだということをあらためて考える。僕らが、「3・11」にあたって忘れてはならないことである。

 春の匂いを感じさせ、幾分か暖かくなってきたと思ったので、いつもより一枚薄着できたが、やはりちょっと寒かった。でも、なんとか我慢できた。財務省には抗議の人が詰め掛けようになってきているが、国会周辺では昼と夜を問わず連日の抗議行動が展開されている。現在は森友学園の国有地取引をめぐる公文書の改ざん問題であるが、これは森友学園問題が次々に露呈させて現在に至っている事態への批判である。

 森友学園問題は不正な国有地取引である。そして、これに安倍首相が関与していた。これは誰の目にも明らかなことである。権力(権限)を使っての金銭の収得(いわゆる贈収賄事件)、いわゆる口利きと少し異なるが、国有地を不当な価格での譲渡した不正取引事件である。贈収賄とはちがってどのような法が適用されるかはともかくとして、権力がその権限を乱用した事件である。

 これが発覚するや安倍は「俺は関与しない」としらを切り、弁明をした。この安倍の行為を隠すために周辺(権力機構)が公文書の改ざんなどやってはならないことである。この国有地取引がどのような法(訴追)の対象になるかはともかく、政治家(権力者)がやってはならないことである。公文書の改ざんもいうまでもないことだ。自ら関与した行為が政治的に許されぬ行為であることが発覚した首相はひたすら逃げを打ち、その周辺はもみ消しのためこれまた不正な行為を次々と繰り返す。

 封建時代というか、あるいは専制君主(権力者)の振舞いを彷彿させるような、古典的な権力者とそれを取り巻く姿を僕らは見ている。安倍は封建時代の藩主(殿)であり官僚は家臣である。それを思い起こさせて驚いているとでもいうべきだろう。
 現在の政治や政治家には規範が課されている。それは権力者に、あるいは権力行使者に時代や社会が課すものであり、権力の濫用をしない、戒めることだ。かつてなら徳治という形で、現在では法治ということ形で権力者に課する前提であり、政治家として権力の運営に携わるものに要求される前提的な規範である。この最低限のというべき規範を踏みにじる行為を安倍はやっている。安倍を支持している政治家も同じである。

 これまで安倍に対する批判は彼の政治的方向についてであった。例えば、戦争についての考えとそれにそった法案の提起や憲法を改正しようとする動きについてだった。これは国家権力を暴走させる動きであり、彼が現在の権力をどのように行使しようかということについてだ。この安倍に対する批判は当然のことではあるが、彼が権力の乱用に対する自戒性を持っているかについてはそれほど意識されなかった。そんなことは前提的なことだと誰しも思ってきたからだ。

 ただ、彼が立憲(権力の乱用を戒める)という政治的常識を理解しているかのついての疑念は出ていたし、彼の手で憲法をいじってもらいたくはないという事としてあった。権力についての考えという政治家としての規範において。彼の資質を含めて人々に疑念を抱かせたのが今回の事件とそれへの彼の対応である。その事に気がついていないのは安倍夫妻だけではないのか。

 安倍や麻生などが政治家としてどのような存在かを露呈させているのが今回の事件であり、彼等に憲法改正などを扱わせてはならない、それが巷の人たちの偽らざる反応である。そして公文書改ざんを発覚させて、官僚(性)の問題を露呈させた。官僚は政策集団であるが、それが政治の実際を仕切る存在として、それのあり方に対する疑念は問題となってきた。

 僕らが今、経産省前で座り込みをやっているのは行政を仕切る集団に対する行動である。その時に一番の眼目は彼等が国民の代表として、国民の主権の託された存在として建前はあるが、実際はそれを無視して独善的に振る舞う(権力行使)をすることへの異議申し立てと変更の要求である。原発の再稼働や存続を国民の意志や意向(声)を無視し、国民の知らないところで進める行為についてだ。これは暴走する権力の動きに対してのことだ。官僚が国民主権を託された存在ではなく、国民の上にある(お上)であるという伝統的権力の継承者であること、それによって実施される政策に対してである。

 今回、公文書改ざん問題で露呈させたのは官僚が国民主権を託された存在(公僕)というにはかけ離れた存在であることだ。先のところで政治家は法治を担う存在として規範が要求されると言った。それは官僚についてもいえることだ。権力を乱用せずに民主的で公平な振る舞いが要求されるのである。そいう規範ではなく、官僚が伝統的なお上としてあるあり方は封建的な家臣とおなじような、権力者(上)への忠誠であって、民主的で公平な振る舞いを持っていない存在だということだ。法治にそった存在にほど遠いことを露呈させたのである。

 日本の権力のあり方、その所業を見るたびに僕らのこころを暗くするが、官僚は開かれた存在にするしかないし、閉じて行こう動きに対峙しなければならない。日本の権力の構造を変える、そのあり方を変えるために、僕らは歴史に目を向けることを促されている、そんな時代だが、官僚の動きに注目しつづけなければならない。(三上治)

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。