「公共」に対立する「開発」への疑問: 神宮外苑再開発が問いかけるもの

神宮の森伐採に抗議する人々(ANNニュース)

by 味岡 修

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都市に残る自然と開発計画

 僕らが座り込みをしている経産省前のひろばの周辺というか、霞が関界隈は、緑の多いところだ。街路樹である。これはプラタナス、銀杏、桜、栃の木などであるが、僕らに季節感を味あわせてくれる。高村千恵子は「東京には空がない」と言ったが、「ここには自然が残されている」とでも言うべきか。これは僕らが経産省の一隅にテントを張って脱原発ひろばをつくりだした時に気が付いたことだった。(あらためて知らされたことと言える)

 だから、神宮外苑の再開発で神宮の森の樹木が伐採されるという報道にはおどろいた。伝えられるところでは樹齢100年の木を含む3000本の樹木が伐採されるという報道だった。神宮の森といえば鮮やかな銀杏並木がよく知られているが、これも手が入ると言われた。この計画には反対の声が出てきて修正を余儀なくされているという声も届いていた。

神宮の森(外苑フューチャープロジェクトより)

 過日の新聞には「神宮外苑の銀杏並木がきれいに紅葉している写真」が小さな囲み記事にあった。記事には「再開発事業で伐採される計画の変更は縮小されるようだ」とあった。以前に、この計画を認可した新宿区側の裁判での発言をみたが、銀杏並木は残されるが、認可した新宿区の地域では3000本に及ぶ樹木の伐採は変わらないと言われている。

 この開発事業は基本的には神宮外苑にある神宮球場と秩父宮ラグビー場を入れ替えて建て替えることにあるが、同時に高層ビルや高級ホテルなどをつくることにある。これはオリンピックとともにはじまったものだ。オリンピックは祝祭であるが、この祝祭は権力(国家)の威信を高めるものとして政治的に推進される。同時に資本の欲動を、つまりは経済的なもうけ事の契機にも利用される。

祝祭資本主義と開発の矛盾

外苑フューチャープロジェクトより

 祝祭資本主義という言葉があるのだけれど、「祝祭を契機に開発を」という名目で資本の欲動を満たそうとするわけである。いうまでもなく、資本の欲動は必然であるが、そのときに発生する矛盾がある。これは現在、開発という名目で行われている事業に共通することと言える。オリンピックを契機にして周辺地域の再開発が提起され、様々の構想がでてきたのだが、神宮球場や秩父宮ラグビー場の建て替え、高層ビルの開発の建設などがその実体だ。これには様々の矛盾がある。

 ただ、名目的には利便的で、機能的な施設に作り替えることで、公共性を高めるということがそこにうたわれているが、それは、あまり疑問も提示されず、その推進途上で様々に指摘されるようになる。近々のところでは、築地市場の移転問題があった。神宮球場や秩父宮ラグビー場の建て替えは、老朽化のためというが、これはすんなりと通ることのように見える。だが、少し検討してみれば疑問もある。建て替えとして構想されているものではなく、現在の場所で改修すればいいのではと考えられる。

 神宮球場や秩父の宮ラグビー場は、伝統があり、親しまれてきた存在である。僕は、子供とともに、あるときは一人で神宮球場に通った。僕は巨人ファンだが、東京ドーム切符が手に入りにくい時代によく通ったのだ。神宮球場は、古いし、不便なとろもあるが、風情もあって、東京ドームとは違う良さもあった。この伝統と風情を残して改修すればいいと思う。アメリカの野球場には、そういうものが多くあり、甲子園球場もそういうものとしてある。同じことは秩父宮ラグビー場についてもいえる。屋根付きの人工芝のラグビー場なんてラグビーにふさわしいか疑問だ。

 建て替えというのは、より機能的で利便な施設へ、という名目がある。それは高層ビルや高級ホテルなどの施設を創ろうとすることである。それが本当の狙いだろう。資本(三井不動産など)は、ここで投資して、より利潤の期待でできる施設を創るということを意図しているのであろうが、果たして、それは可能かということがある。資本の欲動として、投資先を探すのは必然であるが、それは果たして可能性のあることか、ということがある。僕はリニア建設のことを想起する。神宮の森を構想ビルや高級ホテルを建てることが需要を満たすのか、それを喚起するのか、これは疑問を呈してもいいのである。

リニア新幹線

公共性と自治の課題

 こういう問題だけではない。「神宮の森」は、明治神宮の管理下にある存在だが、これは「公共の森」という性格を持ってきた。だから風致地区という指定があり、開発などに規制があった。風致地区というのは、自然環境を維持するためのエリアであり、建設物の高さは制限された。19メートルである。オリンピックを契機に風致規定は解除されたが、それは高層ビルなど建設を可能にするためである。これは公共の場としての神宮の森を守ってきたことの排除であり、その具体的なあらわれが街路樹などの伐採である。

 公共の場の維持のためにつくられて風致指定を解除し、高層ビルを創ることが容認された。事業者の論理からいえば、これは公共的なものの発展のためというのだろうが、果たしてそうなのだろうか。これは資本がというよりは、「開発が公共性の発展だ」ということへの疑念が出てくる事柄だ。開発が悪いのではない、開発の中身が問題なのだが、これまで開発と言われればそれ自身が前進的なことのように考えられてきた。開発の中身が具体的に問われなければならないのだ。こういう問題は、開発という名目で展開されていることに関係するが、原発もリニア建設も同じ問題に遭遇してきたのである。

 神宮の森は、明治神宮に管理権があるから、その処理は明治神宮の勝手だろうというが、神宮外苑が公共の場としてつくられてきたことはその経緯からみても明らかである。少なくとも、その側面は明瞭である。僕は再開発に反対し,異議申し建てをしている動きをみながら、こういう公共性はどのように守られるのか、そこでの困難は何かを考えた。

 この問題に関わっている斉藤幸平は、次のように語っている。「神宮外苑は、あまりお金を使わなくとも市民が自分の時間を豊かに過ごすことのできる場所でした。ある意味、私が目指したい脱成長経済の先取りをしている公共空間です。こうした公共空間の破壊が全国で進んでいますが、まずは市民の力で神宮外苑の再開発にストップをかけたい」。そして彼はコモン(公共)を守るための自治ということも提起している。

 神宮の森が、脱経済成長を先取りしている公共空間という評価は違うが、公共空間であることは共通認識と言える。福島の海もまた公共空間である。そこには水質保護などの規制があるのだが、公権力は、汚染水の海洋放出がその規制に反しないのかどうかも検討しないのが現状だ。汚染水の海洋投棄と闘う主体(漁民を含む地域住民)の自治ということは検討に値する提起だと思った。民主主義も含めて自治ということに興味あることだが、長くなるので別の機会に論じたい。

味岡修(三上治)※タイトルと見出しは「旗旗」でつけたものです

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。