大晦日に考える「労働と人間」。小幡 績さんの論考を補助線に、来るべき2026年への視座を求めて

1.はじめに:書斎の空論と、路上の実感

 東洋経済オンライン(2025/12/27付)で掲載された小幡 績さん(慶応大学大学院教授)の「2026年は変化の時代が終わり、すべてが変わり、『ついにAIが資本主義を滅ぼす年』になる」という記事を大変に興味深く拝読しました。ただ、仕事中のぐったりとした休憩時間にスマホで記事を読んで、失礼ながら思わず苦笑い。学者先生はわしら一般庶民に竹やりでミサイルと闘えと言うんやなと。

小幡績氏の予言「2026年、AIが資本主義を滅ぼす」

小幡績さん(東洋経済より

 小幡さんによるこの刺激的なタイトルの核心は、資本主義をあくまで「情報の差(アービトラージ)で利ざやを稼ぐゲーム」と定義する点にあります。そしてAIでこの差がなくなるだろうという主張です。

 しかしこれは一般には資本主義の価値法則のことにすぎません。つまり、表向きには需要と供給の法則により、より利ざやの大きいところに、市場原理によって資本が流れ込み、もって必要な社会的資源が均等配分されることを言っているだけです。小幡さんはそれを時間差による「消費者からの搾取」と表現されますが、価値法則に基づく資本家同士の競争の歴史や、リスクをとった先行者利益に「搾取」などと言う表現を使うのは、いささか混乱した苦しい表現だと思います。

【参考記事】価値法則の貫徹

 それはともあれ小幡さんは、この「時間(情報)の差による搾取」の歴史を、帝国主義時代の「中央と周辺」の差から、大量生産、金融による投資、そしてイノベーション(技術やその他の先進価値)として描き出されます。ここまでは資本主義の歴史の側面として見る限り違和感はありません。ただ小幡さんは資本主義の「本質はただひとつ。『時間による搾取』なのである」とまで言い切る点には論理の飛躍があります。

 細かくは長くなるので本文を読んでもらうとして、やや乱暴に端折るならば、ここから小幡さんは、AIが普及すれば、天才も凡人も知能の格差はなくなり、誰もが最適な答えを出せるようになる。市場から「情報の非対称性(自分だけが知っている有利な状態)」が消滅する時、資本主義の原動力である「利潤」は生まれなくなり、システムそのものが終了するとおっしゃるわけです。

 そこに描かれるのは、労働者への搾取も、国家による暴力や戦争も存在していないかのように無視された、まるで「商人と消費者」以外の摩擦がない世界で、グローバル資本主義がグローバルなまま静かにフェードアウトしていく、極めて楽観的で「ネアカ」な未来予想図です。

 そして重要なことは、こういう未来予想図、最近の「AI社会」を予想する議論でわりと似たようなものがたくさんあると思いませんか?つまり知的格差がなくなって平等になる系のやつ。

現場視点からのツッコミ

 おそらく小幡さんは「客観的に資本主義の終焉を予想しただけで、それが楽観とかバラ色の未来とは言ってない」とおっしゃると思います。そのへんは『NEXUS』のハラリ氏が典型的なんですが、小幡さんの文章はハラリ氏のように答えのない不安だけを煽る点がないところが、ハラリ氏よりも、よりネアカに見えるわけです。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏と『Nexus』

 要するに小幡さんの描く、情報と時間がすべてを制するとする資本主義像は「商人資本主義」の視点しかないのではと思います。来年と言わず明日の生活を心配する現役世代、過労死するまで働く下層の労働者、生活保護ギリギリで暮らす高齢者、国策に翻弄される地方の生活者、そんな私らからすると、小幡さんの予想は十分に楽観的です。

 だいたいなんやねん!「イノベーションが読者には難しいだろうから」と例示したのが、今年流行の服を買って、翌年にはもう着れない消費者って!そんな毎年、毎季節、服を買い替えて翌年には「恥ずかくして着れませんわ」って、今の世の中では十分に勝ち組やねん!私ら10年前の服でも着れたら着ますけどなにか?って感じですわ。そんな私らの感覚だと、小幡さんの言うような未来には絶対にならんと思いますわ。

 小幡さんの資本主義分析は、特に欧米資本側からの主観的視点から論じており、いわば資本主義の客観的・原理論的な構造については考察せずに無視している点、たとえば「マルクスは、その一部分、資本家と労働者の階級対立の部分にだけ注目したのであるが、資本主義においては、マルクスの認識よりも、もっと壮大で深遠な搾取が行われてきたのである」と言う部分にそれが表れていますね。

 また、資本主義が市場をもとめて国民国家の形成から「愛国心」を掲げて金儲け(資源・市場・領土)のための戦争を行うという、マルクス没後の資本主義の変化やその分析についても無視しています。それゆえ、労働者(人間)への搾取も戦争による殺戮もない、ネアカな資本主義になっており、そこから未来を展望している点が気になります。

 これは小幡さんのことと言うより余談なのですが、「マルクス」の名前を単なるスケープゴートとして出しがちな風潮は、足元をすくわれる元になりかねません。マルクスはもう200年以上前の人であり、現代のマルクス主義やその周辺の思想は多様な発展をとげています。なのでへたするとニュートン力学時代の知識で量子力学を批判しているようなことになりかねませんよ。

 だいたい今のAI競争も、実際はアメリカと中国の「覇権争い」の側面もあるじゃないですか。それが高じて緊張が高まれば、実際の戦争にだってなりかねませんし、そこで日本が無関係でいることはできません。「AIが普及して差がなくなって資本主義が平和に終わる」なんていうのは、政治的リアリズムが欠如したファンタジーに見えてしまいます。

 小幡さんの文章を読んでると、まるで資本主義が「賢い人たちがやる高度なゲーム」みたいに見えてくる。でも実際、みなさんが現場で見てる風景はそんなもんではないでしょ?

 本来、資本主義の終わりを論じるなら、AIがどうこう言う前に、「なぜこれだけの高い生産力がありながら、貧困や戦争や差別がなくならないのか」という問題にも前向きに向き合わなあかんのではないでしょうか。

 さて次に、そういった問題を無視したままAIが社会に浸透していったらどうなるのか、果たして小幡さんの言うようになるのかを考えてみたいと思います。

2.おもちゃと兵器を一緒にするな

「AI社会」について、それを小幡さんは何かしら書斎のパソコンの前だけで考えている、AI格差を考えていない、まるで市井の庶民と大企業が対等に、月数千から数万のAIで平等に共存するみたいに思っている。せいぜい起業家が月10万円程度のAIを導入するレベルのことしか小幡さんの頭にないのではと思えます。

「おもちゃ」と「兵器」を同列に語る欺瞞

 小幡さんの文章からは、「消費者としてのAI利用」と「生産手段(資本)としてのAI独占」の違いが全く見えてきません。まるで、みんなが同じ「ChatGPT Plus(月額3,000円)」を使って、ヨーイドンで平等に競争する牧歌的な世界を想像してるように見えます。

 そんな「夢物語」はネットの黎明期にさかんに語られましたし、もっと言えば資本主義(市場経済)の当初にも語られました。なんなら、新自由主義者は、今でも資本主義がそんな自由な挑戦にあふれた世界だと言ってますよね。もはやそれを信じている人は少ないですが。

 いいですか、現場の感覚で言うと、おそらくAI社会はこうなります。
 まず、大資本は数千万円規模で自社専用のAIを開発します。それを月100万円かけて複数本走らせます。あるAIは市場をマーケティングし、営業AIが広告販売戦略をたて、経理AIが予算を組みます。それらのAIが相互に接続・連携して会社を運営します。これだけお金をかけても、部長クラスの役員を大勢雇うより安くすむのです。

 つまり社長と数名の仲間、その下にはいきなり現場リーダー、そして多数の非正規社員だけいればいいのです。なんなら社長と非正規社員だけでもいいくらいです。海外駐在員?そんなものはネットで募集かけるなり探すなりして外注すればいいのです。その外注先もAIと下働きの労働者に仕事させるでしょう。

「月数千円のAI」と「企業が持つ数千万のAI」の違い、これは単なる性能差だけの問題ではありません。「消費財」か「生産手段」かが決定的な違いなのです

  • 庶民のAI(=消費財): 私たちが使うAIは、あくまで「企業が提供するサービス」です。またぞろ新自由主義者あたりが「それを使えない怠け者」とか言いそうですが、私たちはあくまでも「消費者」なのです。うがったことを言えば、それもデータ吸い上げられて、結局は巨大資本の養分にされる。
  • 資本の巨大AI(=生産手段): 一方、GoogleやAmazon、あるいは金融資本が持つAIは、市場を支配し、労働者を管理し、世論すら誘導できる「兵器」となる可能性があります。

 つまり小幡さんの議論は、竹槍(スマホのAI)とミサイル(巨大資本のAI)を並べて、「これからは武器の時代だ、みんな武器を持てば平等だ」と言うてるようなものです。

「起業家レベル」の想像力の限界

 小幡さんがそうかは知らないのですが、いろいろとバラ色な(平等になる)未来を考察する学者の先生だと、周りにいるのは学生かベンチャー社長くらいなんでしょうね。だから企業経営レベルの話になると、「AI活用=スタートアップの業務効率化」みたいなイメージになってしまうのかもしれません。

 でも、本物の資本主義の現場はそんな可愛いもんではありません。

  • 物流: Amazonの倉庫みたいに、AIが労働者の動きを秒単位で監視して、「次、右へ行け」「遅い、クビにするぞ」と指令を出す。
  • 金融: コンマ何秒の世界でAI同士が殴り合って、庶民の年金資金を吸い上げる。

 ここではAIは「パートナー」やなくて、「極限まで搾取を効率化するための自動機械(オートメーション)」として機能する。この現場の恐怖感が、書斎のパソコンの前では想像できないのかもしれません。

 どだい「市井の庶民と大企業がAIで対等になる」なんて、ちょっと考えにくい話です。 かつて産業革命の時も、「機械が入れば労働は楽になる」と言われたけど、結果はどうだったか? 機械を持ってる資本家層が強くなって、労働者は機械のペースに合わせて働くようになっただけでした。

 今の社会構造のままAI社会に移行していった場合も、それと同じことになるのではないか。「資本や武器としての高度なAIを持つ支配層」に、「日常生活の消費財としての安価なAIを買う被支配層」が使われるという、むしろ従来の格差がやがて身分制度に近いものになっていく可能性さえあると思います。いわば「AI地主とデジタル小作人」みたいな。

「AIと人間」の関係とは「人間と人間」の関係である

 一方で、結局のところAIとは技術であり、それを支える巨大なインフラです。「AI社会」を論じる場合に、どうしても「AIと人間の関係」という切り口でのみ論じられることが多いことが非常に気になります。

 ですが技術はそれを使う人間しだいだとよく言われますよね。ではAIは誰が建設し、所有し、そのパワーを使うのか?「AI社会」と言うくらいなら、そこではAIが人々の生活に不可欠なものになることを想定しているわけで、それと同じように不可欠となる水や電力、あるいは交通網は、まがりなりにも一応は公共財として認識されてきました。だったらAIはどうなのかということです。

 つまりここまでで私が言いたかったことは、AI社会の問題や課題とは、一見するとまるで「AIと人間の関係」のようにみえるけれど、実は「人間と人間との関係」でもあるということです。

 結局、小幡さんのようなタイプの論調は、無意識かもしれませんが、この人間と人間との関係、すなわち「AI技術による社会的対立の隠蔽」に加担してしまうことになりはしないでしょうか。 「AI対人間」という構図に見せかけながら、その実態は「AIを所有する巨大資本 VS 一般の持たざる者」という、資本主義の構造にAIが落とし込まれてしまいますと、資本主義の消滅どころか、逆に超古典的な資本主義の矛盾を強化・復活する手助けをしてしまうのではないか?そんな危惧も、あながち杞憂とは言い切れないでしょう。

 そのあたり、現場で真面目に働き、質素に生活する労働者の、肌で感じる「持たざる者のリアリティ」の方が、よっぽど未来を正確に予見しているように思います。

 最後にAIが国境を越えた「重厚長大産業」であるという点が、いつも見逃されているという点があります。次にそれを見ていきます。

3. AIの実体は巨大な「昭和的重厚長大産業」である

 小幡さんの論考に限らず、どうしても昨今のAI社会の予想が浮世離れして物足りなく感じる点は、AIを「形のない知能(ソフト)」としてのみ捉えて、それを支える「圧倒的な物質的基盤(ハード)」については、なぜか見て見ぬふりをする点です。AIは魔法ではないきわめて唯物論的な存在なのですから、ここも同時に考えておかなくてはならないはずです。

「AIクラウド(雲)」という名の鉄とコンクリート

 AIはスマートでも軽やかでもありません。 その実態は、巨大な半導体工場、サッカー場何個分ものデータセンター、莫大な電力を供給するための発電所、海底を這う光ファイバー網…。これらはかつての製鉄所や造船所に匹敵し上回る、まさに21世紀の「重厚長大産業」です。

データセンターが電力を“食い尽くす”(TBS CROSS DIG)
  • 物質への依存: AIを動かすGPU(半導体)を作るには、信じられないほど純度の高い水と、大量の有害化学物質、そして希少金属(レアメタル)が必要。
  • 電力の争奪戦: アメリカでは、Microsoftが原発(スリーマイル島!)の再稼働を支援し、Googleが自前の小型原発(SMR)を発注。2034年までに世界のデータセンターの年間消費電力は2900テラワットになり、これは地球上にインド2つ分の電力消費国が増えたのと同じ計算になる。
  • 場所の占有: クラウドと言っても当然に現物は空に浮かんでるわけではない。土地を買い占め、要塞のような建物を建てて、そこを物理的に占有しなければならない。自然環境への負荷や地元住民との軋轢が生じている。

 これらを無視して「やがて人々の差がなくなる」とか言うのは、あたかも製鉄所を見ずに「鉄は勝手に湧いてくる」と言うようなものです。

「日本独自のAI」論を警戒せよ

 最近は「日本独自のAI」という声も聞くし、高市政権も乗り気だけれども、AIはかつての日本独自のOSとか、スーパーコンピューターの開発とはわけが違うのです。この米軍基地にも匹敵する迷惑施設を、どこにつくるのか?そしておそらくそこには新設する原発がもれなくついてくるでしょう。アメリカよりもその選定と建設ははるかに難航するでしょうし、まさかまた沖縄の米軍基地跡あたりにでも押し付けるのでしょうか。

高市早苗首相

 おそらく、いざデータセンターと原発の建設が決定されてしまえば、それに疑問や反対を唱えようものなら、よく考えもしない人が、自分の首を絞めているとも気が付かず「技術の大切さがわからないネオ・ラッダイト」とか笑う…くらいならまだマシでしょうね。またぞろ非国民、反日、中国の回し者とかウヨクに叩かれることも目に見えている。そんなディストピアが日本に訪れるかもしれないのです。ゆえに今後の政府の動きはちゃんと注目していかないといけないと思います。

近年のAI論にみる「唯心論」への逃避

 これは過去の自分自身への反省もこめて言うのですが、結局、最近の小幡さん的なAI論考は、経済を「心理」や「情報のやり取り」だけで説明しようとする「経済唯心論」に陥ってるんじゃないかと思う。 対して、「それを動かしてる電気はどこから来るんや?」「チップは誰が作ってるんや?」「データのタグ付けみたいな単純労働はどこで誰がやるんや?」という地に足がついたシビアな視点が必要だと思う。

 繰り返しますが、AIは技術であり国家規模の巨大な装置です。電子的な賢いプログラムでも資本主義を終わらせる魔法でもありません。技術はそれを使い、所有する人間しだいで人々を幸福にも不幸にもします。

 とにかく中国に負けるな米国に追いつけのイケイケどんどんの発想で、かつ、今のままの社会へと資本家と政府主導で落とし込めば、昭和の重厚長大産業が公害や労働災害を生んだように、新しい形の利権と歪みを「再稼働」し、それを世界中に撒き散らすでしょう。2026年、「AIが資本主義を滅ぼす」のではなく「2026年、AIという重厚長大産業による、地球規模の囲い込み(新たな帝国主義)が完成する」そちらのほうがリアルに感じられるというものです。

 さて、では私たちの幸福と未来が、AIの使い方(性急な競争原理でない持続可能なAIとの共生など)次第であるならば、結論的に、私たちの側からの未来展望が必要になってきます。実は小幡さんが描くような、もうひとつのネアカなAI社会も実現可能であると思うからです。

4. 対案と未来展望ー権利としてのAIへ

「疎外」を超えた先の活動(何をするか)

 資本にとっての「AIによる労働の削減」とは、「コストカット」のことでしかありません。それは社会的な流れであって、個々の社長さんがどうこういう話ですらないのです。

 資本と政治家に任せといたら、私たちは労働からの「疎外」どころか、社会から「排除」されかねません。AIによって人間の疎外された労働が減って、そこから何をするか考えられるような。それは資本にまかせておいたら絶対にやってこない未来やからね。

「失業」ではなく「自由」の分配を

 でも、技術そのものは、うまく使えば人間を「食うための労働」から解放する力を持ってる。AIによって「コストカット」ではなく、人間らしく生きる時間を増やすこと。これを資本任せにせず、私たちの側から「権利」として奪い取る構想が必要です。

 資本の論理だと「AIが仕事をする=人間はいらん=失業」になる。 これを「AIが仕事をする=人間は働かんでよくなる=時短」と読み替える闘いです。たとえば…。

  • 労働時間の抜本的短縮: AIが生産性を2倍にするなら、給料そのままで労働時間を半分(例えば週休3日、1日4時間労働制など)にする。これを労働法で整備する。
  • ワークシェアリング: 仕事が減るなら、残った仕事をみんなで分け合う。一部の労働者が過労死するほど働いて、残りが失業する今の構造をひっくり返す。

「賃金」から「生存権」への転換

 労働力商品化(自分の体を切り売りすること)を前提とした資本主義のドグマをひっくり返し、AIの富を人間に還流させる。

  • データ配当(デジタル・ベーシックインカム): 巨大企業のAIはネットに書き込まれたデータ(集合知)を勝手に学習して賢くなったもの。いわば「人類の共有財産」をタダ乗りしてる。その使用料として、企業に適正な負担を求め、すべての人に配る。
  • 生存の無条件化: ベーシックインカムと言っても、近年マスコミで竹中平蔵氏などが提唱しているのは、夜警国家の思想を引き継いだエセなものです。本来ベーシックインカムとは労働の対価ではなく、生存への対価という思想(社会的報酬)。「生きてるだけで最低限は飯が食える」仕組みをAIの生産力で担保させる。

「疎外」を超えた先の活動(何をするか)

 実はここが一番大事な点なのですが、AIによって人間が徐々に「生きるための労働」から解放されると仮定して、はじめて「そこから何をするか考えられる」わけですね。 生活の不安がなくなって、強制労働から解放された時、人間は何をするかという。ちょっと例示的に思いつくことを書いてみますが…。

  • 創造と哲学: 誰かに売るためやない、自分のための芸術、学問、遊び。かつての貴族だけが持ってた特権を、すべての庶民が手にする。
  • ケアと対話の復権: AIにはできへん、人間同士の触れ合い、介護、育児、教育、あるいは単なるおしゃべり。今は「金にならん」と軽視されてる活動こそが、一番価値あるものになる。
  • 社会参加: 自分の住む街や社会のことを、みんなで時間をかけて議論する。これこそ「民主主義」の本来の姿。

 いかがでしょう。このごろAI社会やシンギュラリティの足音が聞こえるせいか、「労働がなくなって働かなくてもよくなると、人間はかえって幸福になれない」みたいな動画をYouTubeで見かけるようになりました。それを見て、こんな記事を書いている私がどう思うかといえば、「そりゃあそうだろうなあ」ということなんです。

 周囲の環境や労働のあり方が変わっただけで、単に「楽になるよ~」だけでは、人間は真の意味で堕落するし楽しくない。そういうことではなく、人類史における古代から中世、そして近世から現代という人間の自我(常識)が変化していったわけで、そういう人類史的な画期を段階的にでもまたがなくては何度も失敗するだろうということです。

 私は14年ほど前に「アンパンマンと共産主義」というエントリを書いたのですが、このやなせさんのアンパンマン世界において、私たちは全員がバイキンマンなんですよね。アンパンマン世界で全員がバイキンマンの村や国があったとして、そんなの本当の幸せを感じられるわけないですよ。

アンパンマン

 そんなの旧ソ連や東欧圏を見てもわかりますよね。心がバイキンマンのまま(悪人ぅて意味じゃないよ)、得するよ、楽になるよみたいなスローガンの元で、形式的な国営化をその上に接ぎ木し、さらに自分の意図に従わない部分には暴力的な弾圧を加えて矛盾を糊塗する。つまり革命前と思想的な根本の部分は何も変わっていないんですよ。

5. 結語:2026年はAIをめぐる闘いの分岐点

2026年はAIをめぐる闘いの分岐点

 小幡さんは「2026年に資本主義が終わる」とおっしゃられたけれど、私たちはこう言い換えましょう。

2026年は、AIの果実を『資本』が独り占めするか、『人間』が取り戻すか、その最終戦争が始まる年だ」と。

「人類解放に資するはずの技術」を「人類がより苦しむための道具」にしないために。 あちこちで現場の人間が、ちゃんと思想を持って「それはおかしい」「そのAIは誰のためのもんや」と声を上げ続けること、抗い続けること。

 つまらないというか、まだ問題意識だけの結論かもしれませんが、結局それが、暗いディストピアを回避して、本当の意味での「ネアカな未来」を手繰り寄せる唯一の道だと思う。