歴史の瞬間に立って-60年安保闘争の記録より

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60年安保闘争

はじめに(解説:草加耕助)

 この文章は今では歴史の教科書の一節になった60年安保闘争の直後に、「私は反米でもなければ、反ソでもない。とりわけ親米でもないが、親ソでもない」という若き日の松山善三さん(後に有名な映画監督となる)が一般市民の一人として書き残したものです。それだけに左翼的な文章を読んだだけではわからない、当時のごく普通の国民的な雰囲気がよくわかると思います。

 この文章に見られるように、当時のブント(に指導された全学連)に対しては大きな国民的同情がよせられていました。しかし同時にそれは「安保粉砕、日帝打倒」という左翼スローガンへの支持というわけでは全くなく、最大公約数として「やっとつかんだ平和と民主主義を守りたい」という素朴な意識であり、それを破壊せんとする自民党-岸内閣への不安と怒りであり、そしてその岸と最もよく闘う若き全学連への期待とシンパシーだったのです。
 安保反対はまさしく「全国民的な課題」として取り組まれましたが、そのことが闘いを巨大化させた最大の強みであると同時に、後に続くものを充分に残し得ずに雲散霧消して自民党を延命させた最大の弱点ともなりました。

 つまり、今から考えれば、安保をなくしたいという人民全体の願い(闘争課題)の実現のために先頭に立って全力で闘いつつ、同時に「そのためには革命が必要なんだ」ということを訴えて「日帝打倒派」の存在を反安保運動の中に作り上げていく、そういう運動と組織の両輪的な発展における好循環を作れなかった。自分たちへの大衆的な支持と運動の高揚に舞い上がって「安保が潰れるか全学連が潰れるかだ」という「いけいけドンドン」な思考に陥ってしまい、そして結局はブント(全学連)の方が潰れたということだと思います。
 この文章を読んだだけでも大衆の意識は、当時の社会党や共産党の思惑をはるかに超えてしまっていることがわかりますし、そういう主張が受け入れられる余地がある数少ないチャンスでした。つまりついて行けずに取り残されているのは大衆ではなくて未熟な組織のほうだったのです。

 この文章は、そういう当時の世相と一般市民の意識を100の論文を読むよりも雄弁に物語ってくれており、左翼運動の歴史やこれからを考える上でも貴重なものだと思います。
(以下本文)

歴史の瞬間に立って

松山善三(シナリオ作家) 「主権者の怒り」(1960年8月15日発行)より

ついにその瞬間は来た

 有権者の三分の一を越えるという二干万人余の新安保反対請願も日本歴史はじまって以来という空前の大衆行動も、「十九日午前0時」という“時”をおしとどめることはできなかった。
 携帯ラジオから流れる「新安保自然承認」というニュースを、私は首相官邸の前に集結したすわりこみのデモ隊の中で聞いた。一瞬、挫折感にも似た空虚な空気が、人々の顔をかすめたが、次の瞬間、デモ隊の人々は、立ち上がっていた。フラッシュとフライヤーに浮かび上がるデモ隊の人々の顔には、憎しみと怒りが、さらにこの暴挙をけっして許すまじという決意の色が赤々と燃えていた。

 宣伝力ーの上に立った社会党横路節雄氏が、「自民党は安保が成立したといっているが、これは無効です。これから議員面会所の前で、安保無効宣言を発表しますから、移動してください」と、声をからして叫ぶ。しかしデモ隊は動こうともしない。
 真白なホータイを頭にまいた全学連の京大北小路中執が、マイクを加藤委員長代理に渡す。二人の顔は蒼白だ。加藤委員長代理が、トラックの下からさし出された学友からのアンプル――ブドウ糖でもあろうか、ストローですい上げ、「学友諸君!学友諸君」と語りかけようとした時、議員面会所の方から北大の旗を先頭に各地の大学の旗をおしたてた学生の一隊が「岸を」「倒せ」「岸を」「倒せ」と叫びながら、怒濤のごとく首相官邸へ向かって流れて来た。

 汗とほこりにまみれた学生たちの顔、顔、顔が私の目の前を洪水のように流れて行く。「岸を」「倒せ」「岸を」「倒せ」というシュブレヒールは、時に「岸を」「殺せ」「岸を」「殺せ」という憎悪の言葉に置きかえられたが、しかし、その言葉は、さらに後続する「岸を」「倒せ」「岸を」「倒せ」という統一の中で、すぐに消えていった。
 「岸を」「倒せ」は「安保」「反対」「安保」「反対」にうけつがれ、それはさらに「国会」「解散」「国会」「解散」の合唱にうけつがれる。まるでそれは美しい、荘重な音楽を聞くように、私の皮膚をつきぬけて、身をふるわすような感動となって、私の心につきささってきた。

樺さんの死から

60年安保 樺美智子さん虐殺抗議 その日の朝、全学連の抗議集会が日比谷の野外音楽堂で開かれていた。「学生虐殺抗議、岸打倒、安保粉砕」のスローガンの下に、ニメートル四方くらいにひきのぱされた当日の現場写真と、セーターに身をつつんだ樺美智子さんの写真が壇上から、集合した学生諸君を見下ろすようにしてさがっていた。

 あいさつに立った樺美智子さんの父は、マイクの前に立ってしぱらく絶句した。異様な、しかし悲しみにつつまれた一瞬がすぎた。
「私もその日は学者、研究者の抗議集会に出席していました。民主主義は、もはや国会の中にはなく、わずかに抗議集会やデモの中に燃えのこっていると信じたから」
「娘は死の前日まで、ほとんど夜も眠らないようでした。デモから帰ってくると、卒論の準備におそくまで机に向かい、翌朝またデモに出かけて行くような毎日でした。明治維新史講座が娘の机の上にのこされていました」
 とトツトツと語って、こみ上げる涙をぬぐった。そしてまた、
「娘の死が民主主義と平和を守る、なにほどかの力となり得るならば、父としての悲しみは薄らぐだろう」と。

60年安保 樺美智子さん虐殺抗議集会 その言葉には真実があふれ出ていた。しかし、美智子さんの死が平和を守る大きな力になり得たとしても、父として、母としての樺先生夫妻の悲しみは、永遠に深く胸をかきむしられるような思いとなって決して消えないであろう。それは、セーターに身をつつんだ可憐な少女のつぶらなひとみが、はっきりと物語っている。一ファシストに牛耳られたおろかな不安な日々の政治下になかったならば彼女の未来には、恋や結婚や育児という、輝かしい、そして美しい人間の生活があり得たはずだ。

「ふたたびあやまちはくりかえしません」と国民は原爆の地広島に誓った。しかし、私たちはふたたびあやまちをくりかえしたようだ。岸首相を政権の座に送ったことである。そして、未来ある一少女の無残な死を招いた。
 私たちは一体、だれがだれに何を誓ったのか。戦争責任の追求が政界におけるほど、安易に見すごされている世界を私は知らない。今日の不幸は、岸首相を政権の座に送ったその日から予測されていたはずである。しかし、美智子さんの霊は、樺先生にあてられた次のような一国民の投書によって慰められるだろう。
「私は今日まで保守党支持者であったが、岸内閣のような国民を裏切る政党には今後絶対に投票しない」
 そしてその手紙の中に百円札が一枚おりこまれていたという。

 学生の歌声に  若き友よ手をのべよ
 輝く大陽青空を ふたたび戦火でみだすな…

 高らかな学生たちの合唱を背に、私は音楽堂の外へ出た。公園には地方代表がそれぞれ旗を中心にしてぞくぞくと集結していた。

不気味な南平台

60年安保 機動隊 その不安なニュースは午後二時ごろから人々の口から口へと伝わっていった。「南平台に焼き打ちをかける」というのである。女子学生の死が全学連の学生たちを異常に興奮させているというのである。私は南平台へ車を走らせた。
 道ゆく人々の足取りはせわしく、その顔には不安な政局へのあせりがみえるようだ。岸首相はデモを一部の反対分子ときめつけ、「野球場や映画館は満員だ」とうそぶいたが、映画館の中でニュースに岸首相が登場した時、「パカ野邸、ひっこめ!」と観客が叫び、その叫びに拍手のわく現実を、ご存じだろうか。私は映画の仕事にたずさわって十余年、このような罵声を、幸運にも一度も耳にしたことはなかった。

 南平台の公邸付近は不安なニュースとは逆に、ひっそりと静まりかえっていた。隣の私邸の門とヘイには有刺鉄線が縦横にはりめぐらされ、門のすきまからのぞくと、内部はがっしりと、これも縦横にくみ合わされた丸太でささえられている。公邸の門をはいると、異様な光景に驚く。五十人ほどの警官が、テントの下の荒むしろの上に河岸のまぐろのようにごろごろとならんでねむっている。警官たちの顔には疲労のあぶら汗がうかんでいる。警備の警官にふみあらされたのであろう、緑であるべき庭二囲の芝生は茶かっ色に桔れていた。

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60年安保 国会前に集まった人々

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