原発再稼働は社会的不正行為だ

by 味岡 修

8月に再々稼働がもくろまれている高浜原発

8月に再々稼働がもくろまれている高浜原発

■ 「不正事件」ばかりの昨今だが

 カラスの鳴き声の聞こえない日はあっても、社会的な「不正」の聞こえない日はない。そう言っても大袈裟ではない。東京新聞でも、朝日新聞でも、いや、産経新聞でもいいのだが、この一年間報道された社会的不正事件を拾い出したら、この欄には書ききれなくなるだろう。

 僕らはテレビで団体や企業の責任者が出てきて取ってつけたような謝罪をする風景を何度見て来たことか。メデイアは報道というべき報道をしているのか疑問もわくが、これでもか、といわんばかりのしつこさで事件を追いかけているように見える。事件としてしつこく報道はしているが、正直いって的確なコメントなんて滅多に出会わない。こうした事件はすぐに忘れられていき、次から次に事件として出てくるのだろうと思う。絶望に似た思いでそんな感想を抱くのは僕だけではないと思う。

東京医大性差別受験抗議 おそらく、発覚した不正は氷山の一角であって、その背後には見えない形での不正が進行しているのだと思う。例えば、東京医大の不正入試事件は女子や受験浪人に対する差別を発覚させた。これはどうやら医学部の慣行のようでもあったらしいことがうかがえる。僕は僕らが学生になる前後に流行った女子学生亡国論を思い出したのだが、女性に対する社会的な差別がこんなふうに進行してきたことに今さらながら驚く。日本ボクシング連盟の喜劇的とも思わされる不正事件は伝統的な日本の社会構造を彷彿とさせたが、日本社会は都市化した、あるいは市民化した段階での社会的規範(倫理)を形成することに失敗したのだと思えてならない。

■ 共同意識(幻想)と権力関係の崩壊としての不正

 僕らは個人として社会の諸領域で判断し行動をしているが、同時にその個々の判断や行動は集合として社会的(共同的)活動となる。この社会的活動は国家から諸社会(企業・団体・学校等)での活動として現象するが、それは単なる集合ではない。そこには共同意識(幻想)と権力が媒介する。この共同意識は諸個人の個人的意志に対する一般意志である。社会は多様な形態と領域を持つが、個人の集合と共同意志で成り立つが、そこに媒介される権力によって成り立つといえる。

 共同意識は法と言っていいが、それに個人の規範や倫理が対応している。法は禁止の体系であるだけではなく、命令もするものである。それは赤信号を渡らないという事が、渡るなということを意味するようなものだ。赤信号を渡ることで起こる混乱や事故を防いでいるのだ。個人は赤信号をわたらないという判断や行動をすることでそれに対応しているのであるが、それは法が個人の倫理や規範になっているのだ。不正とはこの法の根底が崩れていることをあらわすものである。

 法を犯すことは広い意味と狭い意味とがある。広い意味とはそれは社会的不正なこととしてやってはならないことであり、狭い意味は刑法に該当するようなことである。例えばセクハラという罪が刑法の構成要件として規定がないからといっても、社会的に許されない行為というのは広い意味だ。社会的に不正として東京医大の不正入試は狭い意味でも刑法の対象になる。だが、女子や浪人の減点は刑法上どういう罪に該当するかは分からないが、広い意味での法に反する不正であることは間違いない。

■ 欲望の体系としての権力とそれを規制する憲法

 不正事件には権力が介在している。権力は共同幻想(意識)の発生によって成立するものである。それは共同の関係を秩序づけ、統治するものであるが、共同の関係の根本にある法を反するものを排する力として存在する。法権力に伴う権力と言ってもいいものである。
 これはある意味で消極的な権力である。法の禁止体系によるものであるからだ。これに対して軍隊という権力は違う。軍律や規律を執行(命令する力)として存在するからだ。

 しかし、現実の権力は欲望の体系としてあり、支配する力として現象する。法を超えた欲望を持ちそれを展開する。僕は政治権力の究極の像としてゴミ当番のようなものをイメージする。これに対する他者を支配する欲望としての権力はその対極にあるものだ。これが現実の権力である。

 法に反する不正というのは権力の欲望からも発生するのである。権力のこの性格と構造に対して、憲法という法が出てきて、権力を縛る、権力を制限するということが出て来たのである。権力は法に反す行為を取り締まるものとして出てくる一方でそれが法を犯すものとして出てもきたのである。だから権力自身を縛り、制限する法がでてもきたのである。近代の権力のあり方を変えよとする革命は憲法制定(権力)の創出として出て来たものである。

■ 不正が発生する権力構造を見極めることの大切さと困難さ

 もろもろの社会的不正は個人の判断や行為が生み出すものであるが、同時に権力によって発生するのである。僕らは社会的不正において、なにがそれをうみだしているのか、見極めなければならないが、ここに介在している権力構造についても見極めなければならない。ここが問題を切開するときの困難性ではあるが、解決の糸口を示唆もしてくれるところだからである。

 ボクシング連盟の事件、東京医大の事件など、それを批判し、繰り返しを防ぐ道は、この構造を見極めることから出てくる。僕らはこの暑さのなかで、経産省の原発再稼働に対峙しているが、これには原発再稼働という社会的不正(権力犯罪)をみているからだ。これは電力業界や独占資本、あるいはそれと一体化した官僚の欲望の発露であるが、それを拒むことを難しくしているのは権力装置である。連鎖的におこる社会的不正事件につながれることを事件として発覚せずともやっているのだ。

 社会的な不正事件はそれをただそうとする動きがあり、そこから露呈してきていることが多い、僕らはそこによき兆候というか、希望を見出す。自分にのしかかっている、あるいは自分を支配する権力、あるいは権力装置と闘うスポーツの選手や内部告発者に希望を感ずる。社会が変わることの端緒はこういうところから出てくるのだ思う。(三上治)

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 書店が閉店していく動きが毎日のように伝えられます。致し方のないことだが寂しいかぎりです。散歩でなじみの古本屋さんもいつの間に消えていっています。これは言葉に関わる(意識的に関わる)とする人にはとても切実なことです。

 書店に行けば『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子)や『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)が店頭を飾っています。百万部をこえるベスタセラ―であるが、これは良いことだろうと思います。どんな形にせよ、本が売れ本屋が潤うのであればいいとことに違いないのです。それにしても、本や雑誌は売れないのが現状です。

 流砂はあまり売れることを想定した雑誌ではありませんが、60年世代(1960年世代)の遺言として栗本慎一郎氏によって提起されました。栗本氏は体調もあって、共同編集者の三上治が主に編集・発行を担当し現在に至っています。今は14号を発売中です。

 この手の雑誌を出していくには編集者や書き手、それに読者の間に、共通の思想的な主題やテーマがあって、そこが雑誌の成立基盤だと考えられていました。しかし、この基盤は解体というか、変容しています。ここに雑誌を出すことの困難性があるのですが、それについてはあらためて申しません。

 こうした時代の中で書くとは何か、僕らの言葉は状況(世界)とクロスすること(相渉ること)はできているかを自問し続けながらやって行こうと思います。
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流砂14号 目次

  • 個人や自由てのが大事なのだ | 三上治
  • 戦後史の宿痾(5)-占領期安保交渉の政治過程 | 伊藤述史
  • 続・水飲み鳥は「国体」「勅語」の上空を飛ぶ | 橋本克彦
  • ミッシェル・フーコーと吉本隆明の対話について-全体の考察、つまり、世界認識の方法にかんする〈覚え書き〉 | 中村明徳
  • 日本国憲法の前近代と超近代 | 中村礼治
  • 吉本隆明についてのセミネール14 | 柴崎明
  • 相模原殺傷事件と戦争・再論 | 高岡健
  • 教育勅語のこと | 彌永健一
  • 沖縄で何が起きているか その2 | 古木杜恵
  • 神聖政治から国家へ | 宮内広利
  • 吉本隆明のまなざし 死生観(6) | 佐竹靖邦

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