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小説・三里塚

小説・三里塚 戦後最大の住民闘争、三里塚。実在の開拓農家をモデルに、敗戦、開拓、闘争と、その波乱の道のりを感動で描く。

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中核派本多暴力論批判-昨6.11新宿の騒ぎによせて

革共同本多延嘉氏
 今日は、昨年の611新宿の騒ぎに関して思い出した、暴力に関する論文を紹介したいと思います。

 もともと新左翼潮流の間では、暴力論について種々の考察がなされており、一般に「否定の否定の論理」と呼ばれるものが基本にありました。が、大衆運動に歴史というものが存在しないこの国では、それらが正しく継承されず、いつしか否定の否定ではなく、単なる肯定、すなわち、「暴力一般の否定」の裏返しにすぎない「暴力一般の肯定」へと歪められてきたように思います。それは革命思想や大衆的実力闘争、ましてや直接行動と呼ばれるもののとは似て非なる、根本的に全く異質なものです。それは右からではなく、他ならぬ左翼の立場からこそ徹底的に批判し、乗り越えていかなくてはならないものです。

 「暴力一般の肯定」とは、「俺は正しい。奴は間違っている。だから排除してもいいんだ」ということであり、煎じ詰めれば「奴は敵だ。敵は殺せ」以上の内容をもちえません。するとその判断は、暴力を行使する側が一方的にくだすという論理になり、そこには彼我の弁証法的な考察も暴力論もクソも何もありません。どんなに高尚な横文字をちりばめたところで、カラッポで中身のないものです。豊かなヒューマニズムに立脚しているはずの左派の政治として、それはなんと貧しい政治内容でしょう。それでどうして大きな顔して「在特会」を笑えるのか。所詮は同じ穴のムジナじゃないか。そんなものに自身の未来を投機してでも参加する人民がいるでしょうか。

 私が611新宿問題について苦言を呈した時、それをあたかも「目的はいいけど手段が悪い」という言い方に、勝手に切り縮めてしか理解ができない、すなわち、戦術問題と、運動論や思想性の問題の区別すらつかず、私の主張を日本共産党や市民主義などの一部に見られる「暴力一般の否定」と同じようなものとしてしか見れない、そうして自分の脳内に勝手に作り上げた「草加耕助」を罵倒している、そんな愚か者もいました。そんなことをされても、現実の「草加耕助」は痛くも痒くもないのであり、自分の思想性の貧しさや底の浅さを露呈しているだけなのです。

 こういう、左翼思想とは異質な内ゲバ主義は、左右を問わずにあらゆる大衆運動で蔓延しています。殴らなかったから、排除するにあたって丁寧な言葉を使ったから、だからいいんだということにはなりません。内ゲバ主義は疎外された「思想」であり、別の言い方をすれば「文化」です。そういう文化風土があるからこそ、それを裾野として、党派による極端な内ゲバだって発生・存続するのです。内ゲバ主義は、まず自分自身の足元から根絶することでしか、なくすことはできません。

 以下はクラウゼヴィッツの『戦争論』を研究した、『戦争論・暴力論の革命的復権』というタイトルの論文(1985年8月発行・機関誌「理論戦線」所収)の第8章以下からの抜粋です。
 これは「革命派」の書いた論文ですから、そういう意味では市民主義者や右派の方には違和感や拒否反応があるでしょうが、そんな人も含めて(違和感のある部分はスルーして)、できるだけ多くの方に読んで考えてほしいと思います。結局、常に考え続けて継承していくことしか、解決法はないように思います。そのお題の一つになれば幸いです。

(追記)なお、以下の論文とあわせて、こちらの文章 もあわせて読んでいただければ、私の言いたいことをより理解いただけると思います。

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2ちゃんねるブント (戦旗)スレまとめ part1 (5/5)

前エントリーからの続き)

85年3・21チームスピリット粉砕闘争_戦旗・共産同
803 :名無しさん@3周年:04/05/10 16:52
コレ↓ってマジ? インター・日向=大セクト、中核=弱小セクトだったの??

お名前 : 協賛しゅみ゛者
登録日 : 2004年5月10日1時44分
————————————————————–
中核からではないのですが、当時の三里塚無党派活動家(労農合宿所系)の立場から一言

> 大党派として自分たちのような小党派の批判を受け止める
> 度量があると思っていたらしい。

三里塚においては中核派は第2または第3勢力でしかありませんでした。
当時は、三里塚といえば管制塔占拠のイメージが強く、3・8分裂当時は、動員力ははるかに「熱田派」が優勢でした。少なからずいたノンセクトもほとんどが熱田派・インター・日向派にシンパシティーを感じていたのは事実です。(実際、私のように公然と「北原支持」を表明したのは、びっくりするほど少数派でした。)

したがって、北原派支持第一党派である中核派は、三里塚闘争的にはきわめて追い詰められていました。(この当時、中核派は一切の大衆運動を三里塚闘争に集約するという「三里塚基軸論」を打ち出していましたから、一歩も二歩も先を行く日向・インターに対してコンプレックスを抱いていました。(そのように解釈すれば、あの度外れた「脱落派」呼ばわりもインター・日向の「大セクト」にする「弱小党派」の精一杯の強がり、と理解できます。)

#もっともだからといってインターへの襲撃が免罪できるものではありません。(念のため)

インター・日向の現在の姿からすると80年代初頭の隆盛は想像することができませんが、中核派を凌駕する潮流であったことを踏まえておかないと、当時のことはよく理解できないかもしれません。

805 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:06
>>803
こりゃまた随分な解説だなw

3・8分裂から一年後の集会では県警調べでそれぞれ熱田派が2000名、北原派が3400名なんだけど。
(ちなみに主催者発表は熱田派が3,950名北原派が12,150名w)
ノンセクトが熱田派に流れたってのはあるかもしれないし、管制塔闘争から力を持ち始めた赤ヘル三派に中核が一定の危機感を持っていたのもある程度事実だろうけど、熱田派の方が遥かに優勢だと思っていた人なんて当時の戦旗やインターの活動家の中でも少数だったんじゃないか?

806 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:23
>>803 確かに「諸雑派」の数ではかなわなかったかもね。
北原派は解放派(狭間)、蜂起、西田戦旗だっけ。3400の大半は中核系だったんではないの?
熱田派2000のうちインター、日向はどの程度なの?

808 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:32
>>803
ノンセクトって中核嫌いってのが多いだろうから労農合宿所からはそう見えたのかもな。

809 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:35
分裂後にしか三里塚に行ったことのないオレとしては一度でいいから分裂前の集会に行ってみたかった。
1万人近い(色とりどりの)メットの隊列ってさぞかし壮観だったんだろうな。

810 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:57
条件闘争で収束したい青行石井一派とそれを利用しようとした四ターがために塚はこんなことになっちまった。
チュンも頑な過ぎるが、禍根はそこにあり。人民の砦を瓦解に導いた罪は重いと思う。その頃の四ターは管制塔の頃とは大違い。獄に入った同志が可哀想になるくらい変節してしまってたなぁ・・・

811 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:20
>>810
当時のことについてインター諸君(プロ青でもいいけど)の弁明を聞きたいものだ

812 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:24
>>809
そりゃそうよ、壮観、すごいエネルギー。全国から来てたからな。
新左翼見本市で、普段目にしない党派もいた。あんなに集まるのは三里塚か狭山闘争ぐらいか。

813 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:27

お名前 : すえいどん
登録日 : 2004年5月10日17時27分
———————————————————-
以下、時系列的に整理したもの。ご参考まで
1979年6月15日 いわゆる6.15協定問題
1982年2月 石橋委員長代行、内田行動隊長辞任(話し合い問題で)
1982年7月 成田用水菱田工区結成
1982年?月 第四インターレイプ事件でD査問(自己批判拒否)
1982年11月 石井新二、実役に一坪再共有化提案(1億5千万を集める方針)
1982年12月 実役、用地内の反対で一坪再共有化案きまらず
1983年1月9日 同盟旗開き、石井新二ら「共有運動取り組みのお願い」配布
1983年1月27日 実役、「お願い」配布問題となる
1983年2月12日 「反対同盟大地共有委員会」名で全国に募集開始
1983年2月28日 実役、議題は再共有化、石井の北原解任動議で流会
1983年3月8日  反対同盟分裂
1983年5月29日 仙台熱田派集会 中核派排除
1983年7月1日  大阪熱田派集会 中核派排除
1983年9月 第四インターA、B、C、D除名
1983年11月 菱田地区が成田用水計画に組み入れられる
1984年1月 中核派、第四インターへのテロ、5件の襲撃で5人重傷
1984年9月 中核派、2期工事阻止の自民党本部放火事件
1985年10月 中核派、2期工事阻止の10・20三里塚闘争241人検挙
1986年10月 東峰十字路事件1審判決、29人に執行猶予付き有罪判決
1986年9月14日 熱田派集会、菅沢事務局長、政府との話し合い解決を求める
1988年9月21日 千葉県収用委員会会長襲撃事件
1989年3月 熱田派,戦旗と絶縁
1991年 第1回成田シンポ(隅谷調査団)、熱田派参加

814 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:34
>>812 それをおかしくしちまった、その端緒となった連中が許せないよ今も・・・
同盟の半数が快く思わぬ一坪再共有など、なんで分裂してまで持ち込む必要があったんだか。。

815 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:56
>>814
分裂を確信的に進めたのは中核だと思いますけどね。
82年12月にのちに熱田派へ行く党派の集会があり、そこで、北原事務局長は83年の反対同盟三大方針といって、一坪方針を明確に訴えている。旗開き以前に同盟として決定していた、と見れる。ところが、年末から年始にかけて、中核が強引に反対オルグをしたのか、突然一坪が問題化していったのが実際のところ。
一坪問題は当時青行路線とうかたちで明確化していないものの、中核がなんらかの危機感をもち、それに抗するために持ち出された方便では。だから、いまでは平気で一坪をやろうともいうわけだしね。

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2ちゃんねるブント (戦旗)スレまとめ part1 (4/5)

前エントリーからの続き)

三里塚・成田空港、農作業風景586 :名無しさん@3周年:04/03/30 10:23
ついでに三里塚現地での思い出を語ってください。

587 :名無しさん@3周年:04/03/30 10:50
>>586
で、現地ではひたすら援農していた思い出しかありませんw

590 :名無しさん@3周年:04/03/31 13:46
援農、援農、また援農・・・・・
来る日も来る日も援農ばっかしだったなあ・・・
顔真っ黒になり、汗と泥に塗れた日々、、
この先に日本革命があるとおもーた。
けど、ほんとつらかったなぁあ・・・

591 :名無しさん@3周年:04/03/31 21:33
援農・・・ いやーおかげでビニールハウスの架け方マスターして、今は家庭菜園でそのノウハウ活用してるよ。
妻は、どこでそんなの覚えたのと聞くけど、活動してたこと言ってないから、なんとなくムニャムニャでごまかしてるけど・・・

592 :名無しさん@3周年:04/03/31 21:43
漏れは牛の世話ばっかだった。
牛糞の処理と乳絞り。酪農のプロになっちまったw

593 :名無しさん@3周年:04/03/31 23:30
ふーん。
農業ばっかりやってたわけ?
機動隊と戦ったりするわけではないの?

594 :名無しさん@3周年:04/04/01 01:10
夏は来る日も来る日も芋畑で草むしり。
都会の学生には草むしりくらいしかやらせる仕事無いんだけどね。

595 :名無しさん@3周年:04/04/01 08:58
豚の去勢やってた人いますか?

596 :名無しさん@3周年:04/04/01 09:52
あーやったやった。
我ながら股間を押さえてぶるっちまった。

620 :名無しさん@3周年:04/04/02 14:36
去勢とかタネ付けは心臓が凍った・・・

597 :名無しさん@3周年:04/04/01 09:54
へー、純粋の農業の手伝いやるだけなのか。
政治党派がわざわざそういうことやるのはなんか意味があるのかな?

598 :名無しさん@3周年:04/04/01 10:47
>>591
オレもビニールハウス架けやった。
ムチャクチャ寒い日だったんだけど中がものすごく暖かいことに感動した。

601 :名無しさん@3周年:04/04/01 12:27
牛とか豚のお産付き合った人いますか。感動ものでした。

604 :名無しさん@3周年:04/04/01 12:37
戦旗と仲のいい畜産農家っていたっけ?
オレ牛や豚の世話はしたことないなー。

605 :名無しさん@3周年:04/04/01 19:41
農作業の後の農家の五右衛門風呂と風呂上りのの焼酎いかったなあ。労働の神聖さを実感した。
農民の労働も疎外されてんだろうかなど考えたりしながら帰路についたものだ。

613 :名無しさん@3周年:04/04/01 21:18
>>605
おお、五右衛門風呂の同士がいたな。
あれは確か辺田だったっぺ。

漏れはBFではホントにいろいろなこと経験させてもらったけど、
具体的に書くと完全に人物特定されちゃうからな。

春になると思い出す。筍の天ぷら。うまー!

606 :名無しさん@3周年:04/04/01 19:44
なんかいつの間にか援農スレになってないか???
まぁ、いろいろ聞けて楽しいけどさw

607 :名無しさん@3周年:04/04/01 20:14
農作業なんて全くやったことのない学生にとって作業そのものはキツかったけどさ。
一日の仕事を終えて、トラクターの後に腰掛けて夕暮れの農道をトコトコと帰る時間は結構いいものだったな。
>>605氏のように労働の神聖さっつーかそんなもんも感じたな。
「人間の生活って案外これが本来なんだろーな」とか考えたよ。一ヶ月やそこらでまた地区に帰る学生の感傷なのは間違いないんだけどさw
焼酎とカツオのタタキ(醤油にニンニク入れるの)ウマーだった。
もう農作業には出なくなった隠居したジイサンの話なんかも含蓄があって楽しかったな。

608 :名無しさん@3周年:04/04/01 20:18
デモの時の警察の挑発には、今思い出しても頭に来る。メットをはぎとられたりこずかれたり、つきとばされたり、罵声をあびせられたり。こいつら、いつか復讐してやるからな、と真剣に思った。

609 :名無しさん@3周年:04/04/01 20:35
>>607 俺は都内出身だから田舎料理とかは初めてだった。
三里塚のおっかあらのつくる味噌汁や簡素な煮つけやそんな素朴な料理がやけに美味かった。
腹ペコだからなおさらに。遠慮なく戴いたらとても喜ばれて恐縮したものだ。
党派は違うが、つい懐かしくなりカキコしました。スマソ。

>>608 同感!!

610 :名無しさん@3周年:04/04/01 20:37
結構聞いていると面白いねえ。
なんか、のんびりとした感じを受けるね。
実際は大変だったんだろうけどさ。

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2ちゃんねるブント (戦旗)スレまとめ part1 (3/5)

前のエントリーからの続き)

404 :名無しさん@3周年:04/02/13 20:05

85年11・10三里塚_戦旗・共産同現地単独集会
宮台真司が松原グループにいたというのは、ホント?
松原氏はいまどうしておられるのか?
私は彼らを直接知らないが、活気のあるグループだったらしいね。

405 :名無しさん@3周年:04/02/13 20:47
>>404
活気はあったさ
でも松原問題で党が松原グループへの糾察隊を送り込んで、一人一人ボコボコにしてからみんな口をつぐんでしまったけどね

これ見てドキッとしてるブント古トロ元中央部の諸君 人の口に戸は立てられないてこと、今後は良く考えたほうがよろしあんたらは立派な内ゲバ党派や、スローガンとは裏腹にな

ま・・・今はどうか知らんけどな

409 :ちなみに‥‥:04/02/14 03:21
>>145
もともとBUNDの資格は、活動暦10年以上で、非転向の逮捕歴があって(逮捕暦は必須ではない)、かつ「理論戦線」か「戦旗」に論文が載るようになってはじめてBUNDの選考資格ができることになってた。これにBUNDの推薦人2名以上があれば党中央の選考により晴れて?BUND(党員)になれたわけです。
それまではBUND候補で、活暦の足りない若手はキム候補だった。けれど80年代に入り、定期の党大会を復活するにあたって、それまで曖昧化していたBUND(党員)候補やキム候補の資格を統廃合して整理したのさ。
「ブント主義の再生」にも書いてあるけど、厳格な党員資格によるレーニン主義党建設ってやつで、その辺は日共のゆるい党員資格による党勢拡大とはちょっと違うところかな。
それがだんだんオール(拡大党大会みたいなもの)から、グランワークショップへと、党組織論もヘチマもないパラチェン的転換になっちまった。

416 :名無しさん@3周年:04/02/14 18:45
>>406
>松原グループ?糾察隊?詳細キボンヌ。
松原グループメンバーを一人一人別々に呼び出して、公園だとか人目につかないところでボコボコにしたんだよ
ちなみに成田空港業者のトラック同時炎上ゲリラでパクられた福本がゲロったときも、荒氏は「絶対テロってやる」といっていた周りでとめるのが大変だったんだよ

422 :喫煙者:04/02/14 22:12
>>416
コケた者にたいしては、戦旗派は「去るものは追わず」が基本だったんですが、コケたり屈服した指導部については指導責任を追及することにしたのはたしか88年の党大会で決めたんです。

N(←なるたけ実名はよそうよ)は地区指導者で、彼ただ一人の権力への供述により、次々と逮捕者が出て、地区もカードルも手ひどい権力弾圧を受けました。んで、BUND(同盟員)全員にアンケートを取って党大会でこういう場合どう対処するか討議しました。地区討議と同盟員の多数が(みんなカンカンだったので)「制裁を加える」を可としたものが過半数だったように覚えています。私は制裁反対の立場でしたが、誰にも共感を作れませんでした。

これを「制裁は加えず、組織離脱を認めたうえで、自己批判と金○○万円を弁済させる」ということで皆を説得したのは荒指導部でした。荒氏が「我々は指導責任を追及するが、だからといって警察権を持っている訳じゃないんだ」と言うのを聞いて、わたしはホッとした覚えがあります。それでも納まらない諸君はかなり居ましたが‥‥

だから
>荒氏は「絶対テロってやる」といっていた
>周りでとめるのが大変だったんだよ
と416さんがおっしゃるのは、ちょっと事情が違います。

ついでにいえば、全党員アンケートと言うやり方は、中核派がよくやっている方式です。中核派ではそもそも定期的な党大会を開催している形跡がみられない(党規約に規定されているのに!)ので、アンケート方式を多用してるのでしょう。もと中核の知り合いの話では中核派はコケたメンバーからは活動資金を徴収してましたね。(みんな80年代頃までの話ですが)

425 :名無しさん@3周年:04/02/14 22:53
そのときの党大会で荒さんは、ある例を引き合いに出し、「テロるべきだ」という部分に対して、絶対にその道に入るべきでは無いと皆を説得したのが事実。
また党員の資格に関しては、レーニン主義に照らして、10年以上の活動家は無条件に党大会への参加が出来ることを述べていたと思う。

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2ちゃんねるブント (戦旗)スレまとめ part1 (2/5)

前エントリーからの続き)

85年7・28戦旗・共産同政治集会
196 :名無しさん@3周年:03/10/31 20:14
そろそろ本題に戻って戦旗のヒト思い出を語ってください。

202 :名無しさん@3周年:03/11/11 01:09
元同志のみなさん!!
ちょっと困っていることがあります。
右翼対策ということで対人スプレーを持ち歩いていたわけですが、賞味期限はとっくに切れていても、そのまま不燃物に出して、回収の人に迷惑をかけるのもあれだし、てきとうに窓から噴射するのも危険。人のいない河原とか山奥で噴射しきるしかないのでしょうか。どうしましたか? 
防犯用にカバンに入れときますかねえ、他人にあげるのも変だしなあ

それと、困ってはいないのだけれども、道を歩いているとき、後ろの方が気になるとか、車に乗ってるとまわりの車が気になるとか、ありませんか?(あるある~

電車でドアの近くに立っているとき、関係ない駅でも、ベルが鳴り終わった頃降りたくなってしまうとか(ちょっとある~

昼間ガラガラにすいている電車の先頭車両に乗っていたとき、発車のベルが鳴り終わってから、おもむろにさりげなく、誰もいないホームに降りた人を見て、「どこかの現役の人かな?」と思ったことありませんか(一回だけありました)

帰宅のルートや時間を、意味なくずらしてみたり

こういうのは、浮気調査をまくのには、少し役に立ちますかね

あと、実家に機関紙誌がけっこう残ってるんだけど、値段はつかないよね、捨てるか、あるいはここで過去の勇ましい文章をうぷしてさらs

205 :名無しさん@3周年:03/11/13 10:44
ねぇねぇ

労共闘=中核におけるマル青労働 解放における革労協
社学同=中核におけるマル学同 解放における反帝学評

みたいなもんなの?

206 :名無しさん@3周年:03/11/13 14:37
解放における反帝学評 には近いけど
中核におけるマル学同とはだいぶ違うんじゃないかな。

分裂直後の一時期を除いてマル学同は革共同の指揮下。
社学同は上部団体なしの各大学独立社学同のようなものがあった。

207 :名無しさん@3周年:03/11/13 15:58
>>205>>206
>>205が言ってるのは戦旗(荒派)での社学同のことだよね?
80年代に再結成された荒戦旗での社学同は完全に共産同の指揮下にあったわけだけど....。

213 :名無しさん@3周年:03/11/17 23:39
今さらの疑問なんだけど、パラチェンの時って組織内には動揺は無かったのかな?
だって自分が信じていた(そのためには非合法活動も辞さない覚悟の)その”核”の部分を捨てちゃったわけじゃん?

「も~~~やってらんねぇ」とか思わなかったのかな?

大体「パラチェン」読むとソ連・東欧の社会主義体制の崩壊をパラチェンの動機のひとつに挙げてるけど、何で反スタが党是のセクトがスターリン主義国家の崩壊を見て動揺するんだ??そこが分らん…。

215 :名無しさん@3周年:03/11/18 00:38
>>213
反スタは革共同。ブント日向派はスタ克だ。

217 :名無しさん@3周年:03/11/18 00:57
中央からの一方的なパラチェン押しつけに反発して半分以上の同志が脱落したけど、その中でも一定の部分はサークル的に再結集して学習活動を続けています・・・。

221 :名無しさん@3周年:03/11/18 15:06
>>217
マジ?運動現場にでてこないの?
もったいねえ、いま動かないでいつ動くんだ?
党建設なんかしてる場合じゃねえぞ。

223 :名無しさん@3周年:03/11/18 19:03
パラチェンしてもすぐにマルクス主義を捨てたわけではないからね。
マルクスラディカリズムの復興を党是としていたわけだし。

マルクス主義を捨てたのは多分、96年後半から97年夏にかけてイギリス経験論を通じての倫理学への接近あたりだと思うけどマルクス主義はダメダと言い出した後はパラチェン直後より脱落者は少ないと思う。そういう所がカルトっぽい。

225 :名無しさん@3周年:03/11/19 00:25
>>217
>中央からの一方的なパラチェン押しつけに反発して
>半分以上の同志が脱落したけど、その中でも一定の部分は
>サークル的に再結集して学習活動を続けています・・・。

マヂでつか?
パラチェンで半分くらい脱落したっていうのも驚き(初耳)だけど再結集している人たちがいるってのも驚き….。
>>221さんが言うとおり今反戦の声を上げるべきでは?てか何かやるんならオレも結集してもいい?
コケたヘタレでもよければ…..。

232 :名無しさん@3周年:03/11/22 13:41
オレ3・8分裂後に結集したんだけど、何で戦旗は熱田派に属しているのかよく分からなかったです。
連帯する会の言ってることとかよく分からなかったし。

各派の機関紙なんか読んでると、戦旗は北原派に近いんじゃないか?という疑問はずーっと持ってました。でもアレです。北原派だと中核の言いなりになっちゃうのかなーとかは思っててちょっとそれはイヤだったですね。正直。

内部でも「インターやプロ青の諸君とともに頑張ろう」って言うよりも
「何?またあいつらそんな事言ってんの?しょーがねーなー」みたいな
「中核もダメだけど、彼らも大概だなぁ」っていう雰囲気だった記憶があるのですが。

中核に対する申し入れとか、外では散々笑われていたようですけど何か「熱田派に属している苦悩」みたいなのはオレのような下っ端活動家にも伝わってきました。

3・26闘争は後の熱田派を中心に闘われたようですけど、分裂以前にも支援党派は何となく2ブロックに色分けされていたのでしょうか?

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2ちゃんねるブント(戦旗)スレまとめ part1 (1/5)

 懐古的資料室に収録しております「2ちゃんねるブントスレまとめサイト」ですが、これは明らかなデマから単なる煽りや荒し、広告野郎まで、一つももらさず、原文のまんま全部載せるという方針で掲載しています。けど、やはりそれだと読みにくい。いつかは少しばかり編集したバージョンも載せたいと思っていましたが、ブログのほうでそれをやることにしました。今後、Part2 以降も月一本くらいのペースでぼつぼつ載せていきます。

 まあ、資料室のほうにちゃんと原文を表示しているわけですから、ここでの編集が主観的、恣意的になってるんじゃないかと思い悩む必要もあまりなく、文句があるなら原文を読んでくれと言うことで。ただ、こんなものを載せても誰が読むのかという問題が最後に残るわけだが(笑)。まあ、若い人には教科書でしか読んだことのない過激派(新左翼)の実態が本当はどうだったかとか、同年代のバブル期青春世代の方には同じころにこんなことしてた奴もいるということで。また、70年代以前に活動していた大先輩の皆様には、自分たちが去ってから後輩は何をしていたのかとか、そんな興味で読んでください。

‘80年代のブント(戦旗)活動家よ思い出を語れ

成田用水攻撃粉砕!三里塚緊急現地闘争の戦旗派(85年7月14日)
1 :名無しさん@3周年:03/10/07 19:15
80年代、まだブント(戦旗)が左翼党派だった頃..
3・8分裂を乗り越え、用水闘争を戦い抜き、次々と結集する仲間と共に、トマホーク、レーガン、全斗煥、指紋押捺など数々の政治的課題を勇猛に、そして陽気に闘った仲間よ

今思い出を語れ!

オレはさっさと消耗してコケたが、まあその辺はお互い様っちゅーことで(w

12 :名無しさん@3周年:03/10/09 11:34
今はオサーンばっかりだろうけど、少なくとも’80年代は左翼活動家も若者が中心だったので、思想よりも噴き上がるエロリビドーに忠実になってしまったんだろうなぁ。

でも戦旗って組織内恋愛には割と寛容だった気がするんだけど??

18 :名無しさん@3周年:03/10/09 13:26
>>12
オレが聞いたのは’70年代後半~’80年代初頭辺り?の「恒常的武装闘争」の時代は組織内恋愛はNGだったけどそれへの反省からか、’80年代中盤あたりは割と寛容だった感じがあるんだけどね。確かに地区をまたいだ恋愛は歓迎されなかったみたいだけど。

って言うか他の地区の同志とは、あんまり親しくなるな..みたいなのはあったねえ。これはどこの左翼もそうなんだろうけど...。

学生なんか全国どこの闘争へも行くわけだから、他の地区の学生と仲良くなったりしたけど、そういうの軽く釘をさされたよ。「結構面倒くさいんだな...」と思った憶えがある。

19 :名無しさん@3周年:03/10/09 13:29
> って言うか他の地区の同志とは、あんまり親しくなるな..
> みたいなのはあったねえ。
> これはどこの左翼もそうなんだろうけど...。

なんで???マジレスきぼん

21 :名無しさん@3周年:03/10/09 13:41
>>19
多分レーニン主義的に色々あるんだろーけど(笑)オレのような半端な活動歴の人間にはよく分らん。
詳しい人よろしくお願いします。

多分アレかな?
下の人間同士仲良くなって分派とか作られるの恐れたのかな?
それにいくら全国同じ党規で活動してるからと言ってもしょせん人間の作る組織だからさ、地区によって雰囲気とかは異なるわけだ。「えーーあの地区はあんな感じなんだ。それに比べてウチは」とかそーいう不満とか出るのをイヤがったんじゃないのかな?
もちろん機密保持というのが大前提にあるんだろうけど...。

「人事異動」で他所の地区から来た人が、前の地区のことをあれこれ喋るのも咎められてたし。

22 :名無しさん@3周年:03/10/09 15:12
Tさんがやめた本当の理由って知ってる?

24 :名無しさん@3周年:03/10/09 17:42
戦旗を語る時にはパラチェン同様、Tさんの更迭のことも避けては通れないのか??
あれだけバイタリティ溢れる人だからどこでも元気にやっていらっしゃると思うけど。

25 :名無しさん@3周年:03/10/09 17:48
T女史って自発的離脱じゃないの?

26 :名無しさん@3周年:03/10/09 17:50
>>25
冗談じゃない!彼女はアラに飛ばされたんだよ!!!!!!!

29 :名無しさん@3周年:03/10/09 18:07
>>26
Tさんの更迭ってパラチェン以前だよね?
何か政治的な確執でもあったの?それとも人間的な対立だったのだろうか?

Tさんは下部からはものすごく慕われてたな。悪く言う人見たこと無かったよ。
案外その辺が遠因なのか...??

32 :名無しさん@3周年:03/10/09 21:50
どっかで仲居やってるとか書かれてる人のことか?

35 :名無しさん@3周年:03/10/09 23:03
>>29
荒に無理難題ふっかけられてたよ。あれを見たTさん寄りの組織の人間も、獄から出てきたばかりの荒には何も言えなかった。当時の人間はほとんど残ってないけどな

36 :名無しさん@3周年:03/10/09 23:07
今は亡き大田リョウも、Tさんに惹かれていたみたいだった。
もう大昔の話だけど。

37 :名無しさん@3周年:03/10/09 23:26
>>35
ほとんど入れ替わったんね。

41 :名無しさん@3周年:03/10/10 21:42
Tさんはね、戦旗派の「反天連の担当」だったわけ。
反天連(反天皇制運動連絡会)は呼びかけて諸党派といっしょに実行委員会作ったりしていたけれど、しかし、反天連自体は無党派主義の集団だったわけ。あの短パンのオヤジの古本屋さんとかさ。
反天皇制の闘争で、戦旗派は「反天連が呼びかけた実行委員会」に参加して―というかぶる下がって、反天連にとっても世話になっていて、Tさんも反天連の人たちと仲良くしてたわけ。
ところが戦旗派は、ある日突然、「あんな無党派主義の集団にくっ付いているのはいけない!」とか言い出して、反天連から急に離れたわけ。それで、Tさんは戦旗がイヤになっちゃったんだろうよ。

42 :名無しさん@3周年:03/10/11 14:46
>>40-41
いや~これは戦旗の体質なのか荒さんの個人的資質なのか..

自分の組織の中では、結果的にイエスマンばっかりになったり
市民運動の中ではイニシアチブを取れないとすぐキレてしまったり...

ただ荒さんの中では
「組織はイエスマンばっかりじゃイカン!」とか
「セクト主義はイカンのだ。広範な市民とも共闘しなければ」っていうのも
ウソではなく思ってるんでしょうねえ。

気まぐれなのか忍耐力が足りないのかはよく分かりませんけど
それに振り回される人は大変でしょうね...。

43 :名無しさん@3周年:03/10/11 18:37
組織から離れた人は元の組織をボロクソに言うからな。わり引いて捉えたほうがいいよ。

44 :名無しさん@3周年:03/10/11 18:44
Tさんは、ボロクソ言わず、沈黙を守っている。
当時、反天連にいた某キリスト者さんは、Tさんに同情してたな。

45 :名無しさん@3周年:03/10/11 18:54
>>44
早見某とか小林某とは違うんですね。それは立派。

47 :名無しさん@3周年:03/10/11 19:55
中核とかそうでもないんじゃない?

48 :名無しさん@3周年:03/10/11 19:59
>>47
ん?何が?やめた人がボロカスに言うかどうかってこと??

う~ん確かに2ちゃんを含めてネット上で「元中核」って人あんまり見ないなあ。戦旗とインターはよく見るけど(笑)
やっぱアレじゃない?元の組織があんまり路線変更せずに継続してるとさ後ろめたさの方が先に立つんじゃない?

49 :名無しさん@3周年:03/10/11 20:01
>>48
なるほどね。納得すますた。

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文献採録】左翼運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ(後編

5.思想としてのスターリン主義は近代ブルジヨア・イデオロギーを克服していない

資本主義では人間は歯車(機械体系への人格の従属)となる これまで述べてきたこと(前編中編)をつうじてスターリン主義はブルジョア・イデオロギーとも、プロレタリア・イデオロギーとも異なる第三の範躊に属するものだなどとはいえないこと、そうではなくてプロレタリア革命の主体がブルジョア的価値判断や、ブルジョア個人主義、合理主義などを思想的に克服しきっていくことができないままに次第に変質し、固定化されたものであり、従って一国社会主義建設可能論といったイデオロギー内容そのものへの批判としてなすことより、政治思想的克服をめざす方向性を定めるべきことが、一つの結論として確認されるだろう。

 われわれの観点からいえばスターリン主義批判の核心は、一国社会主義建設可能論の存在といった単なるイデオロギー的誤謬に求められるものではなく、その政策、思想、政治の反人民的、官僚的専制的内実に対する止揚の方向においてこそ求められるべきものである。このことはブルジョア権力を打倒し、当面一国的にプロ独国家建設をなす以外ない現実下にあっても、党の政策内容においては実践的にスターリン主義を批判克服できる可能性を有していることを意味する。

 世界革命の挫折や一国的孤立化にあっても、思想的対象化により真の共産主義的作風・党風をつくりだすことさえできるならば、スターリン主義は乗りこえることができるし、またそのためにわれわれは苦闘する以外ない。
 そこでの基軸はブルジョア・イデオロギーの党的反映、近代ブルジョア階級の思想としての合理主義、ブルジョア・アトミズムの克服にあり、人民に立脚した共産主義思想にもとづく党とプロ独国家の建設によるその止揚にある。

 スターリン主義は端的にいえばブルジョア社会における人間像、ブルジョア・アトミズムとその裏返しとしての合理主義を克服しきれぬまま、人間的なものの考え方、人間の尊厳を失ったロシア・マルクス主義であり、官僚層の国家支配においてプロレタリアートが単なるその管理操作の対象におとしこめられた、歪んだ政治経済機構により生み出されているものである。

 ブルジョア社会にあっては人間性の表出は自我の表出としてたちあらわれ、他方では機械体系への人間の従属の結果として、あらゆる人格も一個の歯車としてしか存立されないというチグハグな共存を常としている。本来マルクス主義はそうした資本主義社会における人間の疎外感からの解放を、例えば『経哲草稿』における労働の四つの疎外の概念の提出をつうじ求めたものであったにもかかわらず、ロシア・マルクス主義の現実は、それをなしえなかったということなのだ。
 だから、そもそもの労働力の商品化の廃絶をつうじたブルジョア的疎外からの克服が、商品経済を止揚できず、価値法則を真に規制しえない現実下にあって何一つなされていないのであり、思想的にもブルジョア近代主義を超える地平においてのプロレタリア思想が開示できないでいるのである。従ってその根っ子はブルジョア・イデオロギーと同根といえる。

デカルト そもそものブルジョア・イデオロギーは18世紀ブルジョア革命を経てつくり出されたものであり、自由・平等・友愛といったテーマは、封建遺制からの人間の解放として、人間の内的な世界の自由・個人の自我の発達の独自性の承認といったことをテーマとしていた。科学の発達は合理主義の登場をうながし、「われ思う、ゆえにわれあリ」といったデカルト的概念は、近代主義的な人間意識の発達をもたらした。

 だが結局それは人間生活を規制する資本家的商品経済に支配的な思想としてまとめられ、ブルジョア・イデオロギーとして形づくられていった。主体=個人の利己心の追求と繁栄をそれとして追いもとめ、貨幣の蓄積によってその実現をはかっていくという原理が、私有財産制と自由競争にもとづくそこでの本質的な原理となり、ここにあっては自己以外のすべての他在は敵であり、社会は競争の場であって、教育はいかに他者よりすぐれた労働力をつくりあげるかの手段として選ばれるようになったのである。

 資本により労働力が商品化されることをつうじて、人と人との関係が物と物との関係として表現される世界、貨幣の物神崇拝をつうじその蓄積が人間的至福への道とされる世界にあってぱ、当然主体としての人間意識もまた疎外されざるをえない。そこにおいて作りだされた価値判断の体系として近代合理主義や、ブルジョア・イデオロギーは成立している。

 そこでは第一に機械制大工業の発達とそれへの人間労働の従属の結果として、たやすくはとりかえのきかない物質的生産手段=機械体系のもとに、いくらでもとりかえのきく労働力として人間の従属が枠づけられており、したがって人よりも物を大事にするという観念が根本的なものとなっている。
 戦争にあっては兵よりも武器を第一とするというファシスト共の思考が典型であり、商品、貨幣、資本の物神化にみられるように、本来人間の労働力により生み出されているものが自立化され、それ自体価値を生みだす源泉であるかのように錯乱して考えられ、人間労働ひいては人間そのものの蔑視と、機械や「それ自体価値形態をもち交換価値として機能する特殊な商品」(『経済学批判』マルクス)としての貨幣への崇拝が、物の崇拝思考として社会生活を規定しているのである。

 しかもこうしたなかで、第二には生産手段の私的所有者が労働力以外持たざる者を、労働者として雇用し労働力を支配することにより、人間の人間の下への支配と隷属の関係もまた生みだされざるをえないわけであり、有産階級が自己に隷属するものとしての無産階級を社会的差別観念をもって見下すことが、必然的なものとなるのである。この世界で差別されない存在になるためには貧乏人は金持ちになる以外ないのであり、必然的に貨幣の蓄積を唯一の目的とする人生がそこでは展開される以外ないのだ。

 第三には社会的交換価値を生みだす労働が直接に交換価値を生みださない労働に対し社会的差別、抑圧の関係をつくり出し、その結果家事育児労働に従事する女性が男性に従属するとか、もはや生産過程にかかわれなくなり労働力として機能できなくなった老人が社会的に排除されるという関係性が、不断に再生産される。そのために女性は自己の性を商品化し、男性に売り渡したりもするし、性産業としてぞれが社会的に構造化されてもいる。

 第四には少数のブルジョア階級が多数の労働者階級を支配しつづけるために、常に社会的な差別観念がつくり出され、より下層に目をむけさせるための民族的差別であるとか、内なる排外主義としての部落差別が構造化される。天皇が崇拝され、ブルジョア支配の宗教的背景とされる一方で、社会的な排外主義により被抑圧民族・人民が差別・抑圧の対象とされることにより、そもそものブルジョア支配は維持されるのである。世界でもっとも進んだブルジョア国家であるアメリカにあっては、かつての奴隷であった黒人や有色人種に対する社会排外主義の風潮は、他の如何なる帝国主義よりも強いものであり、それがアメリカの自由と繁栄をうしろだてているのである。

 ブルジョア社会の個人生活にあっては、いわばこうした社会生活の本質的な構造にもとづいて、一方では理念としてのヒユーマニズムがあるべき姿として空語的に強調されつつ、実際には結合されない私的労働力としての個人は自我としてのみ自己を表現することしかなされないのであり、資本に隷属した人間の疎外感の吐露だけが、そこにおける人間的自己発現の自由の領域をしめている。

 言い換えればもはやどうにもならない社会的規定力をもつ資本家的商品経済社会における人間労働の疎外、社会生活における資本家支配のくびきからの逃亡と、ドロップアウトを合理化し、自己をなぐさめる手段としてのみ個人の自己発現の場はあり、それが芸術や文学活動の主要な領域をしめるのである。
 同時に個人の人格は資本や社会機構に完全に隷属したものであるがゆえに、意識性としてはその呪縛からのがれでたものが強調され、尊大ぶったり、傲慢であったり、あるいは利己的で非協調的となり、また面子や体面やプライドだけを気にするという存在に、社会的な差別感、価値観に規定されることによって本来的になりがちである。
 それがブルジョア的近代と、思想としての個人主義からもたらされているものであり、かつ社会生活においてつちかわれているブルジョア的価値判断の正体であるのだ。

マルクス マルクス主義は私的労働生産物の社会的交換の止揚、価値法則の廃絶を労働力商品化の克服をなすなかで実現し、人間労働が窮迫と外的合目的性に規定されえない社会的に結合された自由な労働へと高めあげられることを目標とし、ひいては資本家的商品経済のもたらしたあらゆる疎外からの人間の解放をめざす思想としてそもそも出発した。
 それは19世紀ヨーロッパに既にみられた近代社会における人間の苦悩からの解放を目的とし、『ドイツ・イデオロギー』や『経哲草稿』をもっての近代ブルジョア・イデオロギーの批判をなすなかで、近代ヨーロッパをこえる世界の啓示として『ゴータ綱領批判』や『資本論』中に、まさしく万人が一人のために、一人が万人のために生きることができる共産主義社会の実現として展開されたのである。

 にもかかわらずかくの如き方向性を持ったマルクス主義に、弁証法的理性を有した物質の自己運動論だとか、宇宙史の総体までも規定する万能の科学としての弁証法的唯物論だとかの、科学主義のよそおいをかぶったエセ理論をくくりつけ、労働力商品化の廃絶もなしえないままに社会主義の到来まで宣言してしまったのがスターリン主義なのである。しかもブルジョア・イデオロギーを思想的に克服し、独自のプロレタリア的世界観をつくりあげることもできぬままに、ブルジョア的な位階制のみとり入れ、マルクスの理想とは似ても似つかぬものをもって独断的な「労働者の祖国」を宣言しているのだ。
 結局のところそこにあっては、近代ブルジョア思想をいかに克服しえるのかの課題を設定しえず、単なる生産力発展第一主義の観点しか持ちえず、かつ党による労働者支配の強要しかなしえていない。

 別の言い方をすれば、近代合理主義をより純化した形で生産手段の国有化をつうじ導人したにすぎず、そこでのスタハノフ運動にしろ、スースロフ流のリーベルマン方式(物質的利潤刺激)の導人にしろ、あるいはホズラチョート制度による出来高払いの採用にせよ、要するに生産力の発展を追求し、国民総生産を高めあげるという発想でしかなく、ブルジョア国家に追いつき追いこせという理念以外の何も提示していない。
 またそこでの前提となるプロレタリアートの組織化、国家的目的に向かっての政治的集約ということも、極めて機能的にしか考えられず、全人民の政治的動員だとか、大衆みずからが政治経験をつうじ学ぶといった路線とはほど遠い強圧的なものでしかない。

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文献採録】左翼運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ(中編

2.スターリン主義批判の原点としてふまえられるべき諸点~スターリン主義批判の系譜

ハンガリー革命 1956年2月ソ連共産党20回大会で突如なされたフルシチョフによるスターリン暴露は、文字通り全世界のプロレタリアートを震憾させた。スターリンの無謬の神話が音をたてて崩壊していくなかで、ポーランド、ハンガリア労働者階級はソ連への隷属と官僚支配の打破、生活苦からの解放を求めてたちあがり、これに対するソ連軍の戦車による制圧、ハンガリア人民との激突は、ソ連共産党-クレムリン指導下の国際共産主義運動、ひいては共産主義の内実そのものが極めて官僚主義的に歪められたものでしかないことを、全世界の人民の眼に焼きつけた。

 1955年の日本共産党六全協における右転換以来共産党中央との対立関係にあった全学連指導部が中心となり、58年勤評、警職法闘争を闘いぬくなかで、1958年12月第一次共産主義者同盟が結成されて以来、トロツキー主義の強い影響下になされてきたスターリン主義批判は、こうした歴史的過程を反映するなかで、ほぼ以下のような諸点にまとめられるものである。

(1)まず第一に、一国社会主義建設可能論にもとづくマルクス主義の修正に対する批判である。

 これはそもそもレーニンが「一国における社会主義革命の完全な勝利は不可能であり、そのためには少くとも、いくつかの先進国の積極的な協力が必要とされる。そしてわがロシアをこの先進国の一つにかぞえることはできないのである」と1918年11月に提起していることを(全集28巻、P115)スターリンが1926年1月、『レーニン主義の基礎』の改訂をなすなかで、「一国での社会主義の勝利の可能性とはどういうことか?それはわが国の内部の力でプロレタリアートと農民とのあいだの矛盾を解決することができる、ということであり、また他の国々のプロレタリアたちの共感と支持をうけていれば、まえもって他の国々でプロレタリア革命が勝利しなくても、わが国でプロレタリアートが権力をにぎって、その権力を完全な社会主義社会の建設のために利用することができるということである」と、いわばなし崩し的に改ざんしていったことへの批判である。

 これはさらに中国共産党に対する批判とも絡みあわされる形で、過渡期(プロ独期)と共産主義の第一段階としての社会主義社会が二重うつしにされており、マルクスの『ゴー夕綱領批判』の内容が修正されていること、社会主義社会であるなら国家は死滅しているはずであり、労働証書制が採用され、価値法則も止揚されているはずだといった、端的には対馬忠行の『マルクス主義とスターリン主義』にまとめられる内容として提起される。
 つまりマルクス主義の原則的観点からのイデオロギー的逸脱に対する批判である。

(2)第二には世界革命の放棄が、ソ連一国防衛主義として1930年代スペイン革命の放棄、抑圧や、ドイツ革命の挫折をもたらし、中国革命に対してもコミンテルンの誤った指導として、国際共産主義運動の混迷をもたらしてきたこと等の批判である。

ヒトラーとムッソリーニ ソ連共産党20回大会における平和共存路線への移行以前から、1928年コミンテルン第9回拡大執行委での社会ファシズム批判や、1935年コミンテルン第7回大会でのディミトロフによる反ファッショ統一戦線の提起など、国際共産主義運動、各国革命に対する指導はまったくジグザグしており、結局は「社会主義の祖国ソ連を防衛せよ」という方針につらぬかれたものであった。

 プロレタリア国際主義を内実としてもちあわせぬこの方針は、各国の闘う人民を孤立化させ、ファシスト共の餌食にさせてきたのであり、独ソ不可侵条約の締結などは、ヨーロッパにおける反ナチ・レジスタンスの方向性を喪失させ、ソ連に対する不信をつのらせるだけとなった。

 毛沢東が中国人民解放軍をひきいて抗日民族統一戦線を構築し、独自の遊撃戦理論をつくりあげたのも、いわばこうしたコミンテルン指導の方針(オットー・ブラウンの堡塁戦、陣地戦)に対するアンチとしてである。スペイン革命にあってはPOUMに従ったジョージ・オーウエルが『力タロニア讃歌』においてフランコを助ける共産党指導部を糾弾しているし、中核派の野島三郎の『革共同の内戦論』は、どこでもかしこでもスターリン主義者が裏切ったと、それ自体全く正しい指摘だが裏切り史観でつらぬかれる形で書かれている。

(3)第三にはブルジョア議会主義への埋没と二段階戦略の固定化が、ブルジョア体制内化=共存化してしまい、闘う前衛党としてのエトスを喪失させ、ひいては選挙で一票とる運動へと革命運動そのものを矮小化させていることに対する批判の系列である。

民青のデモ隊 特にこれは日本共産党の現在、つまり日本におけるスターリニストの運動路線に対する批判として展開されてきたものであり、1961年綱領の採択以来、民族民主革命の実現にむけての民族民主統一戦線の形成をという政策要求、制度要求闘争路線が、闘う労働者階級人民と一切結合していないばかりか、むしろ常に体制の左足としての敵対者としてあらわれていることへの指摘といえる。

 ラジカルに闘う者をすべてトロツキスト、暴力主義者の闘争破壊として糾弾し、反トロキャンペーンによって戦線から放逐しようとするそのやり方は、狭山差別裁判糾弾闘争や三里塚成田空港粉砕闘争において、闘う大衆団体(部落解放同盟や三里塚芝山連合空港反対同盟)から糾弾され、人民大衆が共産党から離反する結果をもたらしており、否、そればかりかそうした敵対者をすべて権力の手先よばわりしていく偏狭な体質は、革命的に闘おうとするものは唯一の前衛党であるはずの日本共産党には属しえないという皮肉な結果をもたらしている。

 共産主義者同盟のスターリン主義批判の原点はいわばここにあり(=『われらの対立-共産主義者同盟と共産党』佐々木和雄著)、かつ依然として最重要の批判点として現在もある。

(4)第四に党の官僚化、一党独裁によるプロレタリア独裁の歪曲が、複数主義を認めず、ソビエト(議会)の無力化と空洞化をもたらし、党が人民に君臨する専制支配を生み出してきたことへの批判である。

ソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)のチェコ侵攻 1920年代の左翼反対派が、書記局を牛耳るスターリンの専制に対する批判としてこれをなして以来、党的に少しでも疎外されたり、あるいは自己の権利運動として革命運動をとらえる部分は、すぐにこれを口にしたがるというように、一方ではブルジョア・アトミズムからのアプローチそのものでしかないアナーキイな傾向をも内包しつつ、しかし1930年代の血の粛清の如きスターリン主義の最も悪しき発現もここに見られるように、政治としてのスターリン主義に対する批判の原点を、これは形づくってきた。

 党が自己の上に君臨し、専制的な官僚機構が国家をおおい、個人の自由な自己の発現が圧殺されるという印象を持つことは、ブルジョア的個人主義を価値判断の基礎にすえる限り、たしかにこの上ない苦痛であり、個人解放というブルジョア的原理にまっこうから反することであって、マルクス主義者はこの克服をめざす以外ない。

 だが同時にこれは近代における機械体系への人間労働の従属だとか、巨大管理機構への個人の従属というブルジョア社会における基本的な社会=人間関係においても同様に問題とされてきたことであって、それとオーバーラップして「自由な個人」が組織を批判することとも絡みあう問題であり、特定の価値判断に立って一個の目的意識の体系をなす党活動においては、一面として排除される以外ない領域もふくまれている。
 だから例えば『ソ連における少数意見』での、ロイ・メドヴエーデフの市民的自由の主張という正当な見解や、同じようなものとして見られがちのソルジエニーツインのギリシア正教の昔に帰れ、それがロシアの本来の姿だというような主張は、とても一緒くたには論じられないものである。

 言い換えれば官僚主義批判だとか、個人の自由の圧殺とか、党的ヒエラルヒーの批判の内容において、如何なるものを持ちえているかこそが、スターリン主義批判の位相を決定しているのであり、従って政治としてのスターリン主義の克服の問題は、一番つよくこの領域に求められるものであるとわれわれは考える。

(5)第五に民主主義の形骸化、基本的人権の無視、専制的官僚支配が文化的にも停滞をもたらし、スターリンイデオロギーの諸科学への押しつけとして、芸術や科学の自由な発展をもたらしてこなかったという第四の領域とも絡みあう内容での批判。

 社会主義リアリズム批判だとか、言語は上部構造に属さないというスターリン言語論に対する批判、ルイゼンコ学説に対する批判など、イデオロギーや芸術などの分野におけるスターリン主義の克服は、トロツキーの『文学と革命』であるとか、黒田寛一、宇野弘蔵、武谷三男、吉本隆明、三浦つとむなど様々な領域の、様々な分野においてなされてきたし、これからもなされていくだろうと思われる。

 以上の如き幾多の領域にわたる批判のつみ重ねの中から、日本において例えばスターリニスト・レジーム、スターリニスト革命、スターリニスト政治経済法則などの概念をつき出すことによって、〈反帝・反スタ〉を標榜する革共同や、反社帝のためには日米安保も承認すべきという中共派なども生み出されているわけであり、スターリン主義批判は明確に概念規定されぬまま日本革命的左翼の自明の課題であるかのような体をなしつつある。

 われわれはわれわれの観点においてスターリン主義の克服を問題とする時、まずもって以上述べられてきたようなスターリン主義批判の内容は前提的にふまえられるべきことであり、かつ正当な批判の内容であることを確認しなければならない。
 そのうえでわれわれにとり基軸的といえるものをとり出し、われわれ独自の方向性を確定していきたい。そのためにも次にスターリン主義の反人民性の最も卑劣な発現となったソビエト・ロシア1930年代の血の粛清に至る歴史的過程を俯瞰し、問題とすべき点を抽出していこう。

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文献採録】左翼運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ(前編


 ハンガリー動乱(映画『君の涙ドナウに流れ』より)
 私が18歳の頃、戦旗・共産主義者同盟、正確にはその傘下の大衆組織である社会主義学生同盟(社学同)への結集を決めた論文です。今となってはこの論文をそのまんま信奉しているわけではもちろんないし、たとえば中国スターリン主義の人民抑圧の実態に無知で、態度が甘すぎるという批判もあるでしょう。それでもその骨格部分というか、ものの考え方や発想方法において、現在の私の人生観にも大きな影響を与えた論文です。

 実はそのこと自体、自分でも全く気がついていなかったのですが、ネットなどで文章を書きはじめるようになって、あらためてそのことに気がつき、我ながら憮然としました。それくらい、特に左翼運動といわず、人生のあらゆる場面で応用が利いてしまうということでしょう。まあ、自分としては生きていく上で決して悪い影響ではなかったと思ってはいます。とはいえ、いまさらこんなの掲載していったい誰が読むのかという話ではあるのですが、羽賀さんの投稿もあり、私と真面目に「論争」したいという物好きな(特に右派の)方は、せめてこの論文くらいは一読しておいてほしいと思ったものです。

 とにかく10代の頃の私にとって(そして当時の多くの左派の若者にとって)、左翼運動を進めるとかいう以前に、どうしたらソ連(スターリン主義者)のようにならないか、自分が属する運動や組織が、ソ連なんかとはどこが違うのか、そこが大きな問題であり、それがはっきりしないくらいなら、どこの運動や組織に属するのも嫌だという、強い不信感がありました。

 まず、当時の日本共産党は、ソ連、中国、ポルポト派などのあり方に対して「あんなものは左翼ではない」から「自分たちとは無関係」という見解であり、これは私には問題外であると感じられました。
 次に<反帝・反スタ>を標榜する中核派は、「カクマル戦争」にのめり込んでおり、それが左翼運動全体に影を落としていましたし、たとえばこちらの元中核派(しかもゴリゴリの)方々が集っている掲示板を精読していけばわかるように、彼らの「反スタ」とは結局は「一国社会主義論」などの理論的な批判に終始しており、かつ、その立場から自派に逆らう者すべてを「粉砕・打倒・処刑」すべしなどという路線であって、私にとってはそれこそがスターリン主義そのものであるようにしか感じられませんでした。
 こういう中核派スターリン主義に対して、<トロツキズム>の第4インター派が、70年代後半から「反内ゲバ主義」を掲げて急速に勢力を拡大しました。しかしそれも私には、「左翼運動内部の誤り」であることを認めている点で共産党よりはマシではあるけれども、そんなの別に左翼でなくても言えるレベルのことであって、左派の意見としては物足りない没主体的なものだし、結局は共産党と同じものであるとしか思えませんでした。

 いったい、みんな立派なことを言って、当たり前のように「スターリン主義」を批判しているけれども、スターリン個人を悪者にしてそれで終わりなのか、あるいは今は立派なことを言っているあなたがたが、数年後にはスターリン主義的な政治を行っていないと言い切れるのか、その保証はどこにあるのか。ほらほらもう反対派に対して抑圧的なことをしてるじゃないかと。
 この私の問いに対して、「そんな『保証』なんてどこにもない」と言い切ったのが戦旗派でした。「スターリン主義とは『自分の外にある打倒対象』ではなく、自分の中にあるものだ。ゆえにスターリン主義と闘うとは、自分の日々の実践や、その自己点検と省察、主体形成のことでしかありえない」。さらに「その闘いに終わりはなく、それを忘れた時に党はいつでもスターリン主義に落ち込む」と言われ、これこそ私が感じていたこと、言いたかったことだと思いました。ゆえに戦旗派は、「反スタ」ではなく、「左翼運動内部のスターリン主義を克服していく」それも理論的な口での批判ではなく、実践的にスターリン主義を超えるような左翼運動と組織を登場せしめるべきだという、<スタ克>の立場に立っているということでした。そしてこの論文を読み、それがインター派のような「活動家の道徳」レベルではなく、ちゃんと社会変革の運動や左翼理論と結びついていること、つまりスターリン主義とは別個の地平で左翼運動が成立する可能性を示したものとなっていました。まさに「我が意を得たり!」と猛烈に感動し、その可能性に自分を投機してみたいと思ったのです。

 このサイトでも、数年前にそのあたりをちょいと書いた時、主義者Yさんあおざかなさんから「スタ克の内容を知りたい」というリクエストをいただき、この論文の転載を考えましたが、すかさず黒目さんから、「そんなの戦旗が言い出す前からノンセクトの間では常識だよ(フフン)」みたいなことを書き込まれて、悪気はないんでしょうけどなんかやる気をなくして今日にいたっておりました。けど、先日、GO@あるみさんのところでスターリン主義の話題を論じる機会がありまして、再びこの論文を読めるようにアップしておきたいと思うようになりました。ようやくにして「懐古的資料室」にひっそりこっそりアップすることができましたが、さほどアクセスも反応もなく、まあ、このまんま読みたい人だけが読んでくれたらいいかと思っておりましたが、羽賀さんの投稿もありーので、表に出しておくことにしました。

 まあ、全部をブログに載せるには長文なので、3回にわけて、予約投稿機能で3日で全部表示されるようにしておきます。その間、ちょっとネットはお休みします。集会4連チャン疲れと、私生活でやることがたまってしまいましたので。ネットは暇がある時にやる、生活を犠牲にしないことを原則としておりますのでご容赦ください。お気が向きましたらランキングへの投票クリックもお願いしますね。それでは、以下本文です。 

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2ちゃんねるブントスレまとめサイトをオープン

86年3・23三里塚闘争 懐古的資料室の中に、2ちゃんねるブントスレまとめサイトをオープンさせました。まあサイトつーか、コーナーになるわけだけれどね。

 2ちゃんねる共産板において数年間にわたって続き、現在も一応は形の上で残っている同スレのうち、今のところ、2003年分2004年分だけ完成しています。今後も一週間に一年分くらいのペースで追加していく心積もりでいます。また、本編以外にも関連スレもいくつか収録しており、それは今後の分も適時収録していく予定です。

 なお、明確な荒らしや広告投稿などは削除して話題を追いかけやすくしようかとも思いましたが、判断に迷うものもありますし、どうしても主観がまじりますので、すべて2ちゃん公開時のまんまで収録しています。問題のある投稿も散見されると思いますが、記録と言う性質上ご容赦くだされば幸いです。いずれ時間ができましたら、読みやすくした編集済みバージョンもぼちぼちと公開したいと思います。

 さて、最初に2ちゃんねる共産板に同スレが「80年代のブント(戦旗)活動家よ思い出を語れ」というスレタイで立ったのは2003年のことです。

1 :名無しさん@3周年:03/10/07 19:15
‘80年代、まだブント(戦旗)が左翼党派だった頃..
3・8分裂を乗り越え、用水闘争を戦い抜き、
次々と結集する仲間と共に
トマホーク、レーガン、全斗煥、諮問押捺など数々の政治的課題を
勇猛に、そして陽気に闘った仲間よ....

今思い出を語れ!

オレはさっさと消耗してコケたが、まあその辺はお互い様っちゅーことで(w


「パラチェン」とやらを果たして左翼思想からテイクオフした(要するに左翼思想を放棄した)SENKI派(=現アクティオ)は、まだまだなんかよくわかんない変な奴という目で見られていたし、さらにパラチェン後の97年に彼らが引き起こしてしまったロフト事件で叩かれまくっていた記憶もまだ新しかった頃です。騒動も下火になっていたとは言え、どうせこんなスレ立てても叩かれまくるだけで短期に消滅するだろうと思われました。

 ところが実際には比較的に良スレとして展開し、ちょうど同じ頃に活動していた他党派や他潮流の元活動家も合流してその2、その3と続いて徐々に名物スレ化し、現在でもその49(!)が「アクティオを語れ」というタイトルに変更して続いています。ただし当初の「80年代活動家よ思い出を語れ」という趣旨とは全く別物になっていますので、基本的には終了したスレだと言っていいと思います。どこで消滅したかは判断が難しいところかもしれませんが、とにかく私も参加してとても楽しいスレだった。そこでこのスレのかつての参加者の皆さんや、このスレの存在を知らなかった皆さん、さらに趣味者の方々とも共有できるように、消滅したと思われる時点まで見やすい形で記録を残しておくのもいいかもしれないと思いました。

 まあ、何より「読みかえしてみて面白かったから」ということですね。これをdat落ちのまんま埋もれさせておくのは、あんまりもったいない。だって普通に面白いんだもん(笑)。一般には知られていない貴重な証言や新事実もたくさんここで公開されましたしね。歴史化の一環としても保存していいだろうとも思ったし。
 さらには、いわゆる2ちゃん独特の「煽り」や「荒らし」も適当な分量で入っている。こういう言い方が適切なのかどうか私にはわかりませんが、「古き良き2ちゃんねる」とでも言いましょうか、いわば2ちゃんの古いベテランさんが「煽りと荒らしは2ちゃんの花」とか言っている、そういう緊張感というか、今の(とりわけ政治系の板の多くで見られるような)プロ的に人を傷つけることを目的とする輩の殺伐としたものとは少し違う雰囲気がこのスレにはあったんじゃないかと。それも残しておきたいなと思った。

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