牛肉問題から見える資本主義

牛の画像:Teacher's Galleryより
画像:Teacher’s Galleryより

 先日のエントリに「不親切なブログ」を運営されておられる看護師のけいた様からコメントをいただきました。以下はその一部です。

良心的経営者はどこでも同じような悩みを抱えているようですよ。(・ω・`)牛肉の輸入自由化とか言ってるくせになんで草だけ食って成長したアルゼンチン産の牛肉が自由に輸入できないんでしょうね。超安くて(固くて)ウマイのに。とはいえ肉牛を1kg太らせるために、牧草が8kg必要だそうです。developing worldの食糧事情の向上を環境問題と切り離して考えることはできません

 この書き込みを読んで思い出したのですが、昔見たNHKのドキュメンタリー番組で、第三世界の人々が貴重な主食としているトウモロコシを、穀物メジャーが「先進国」の牛のエサとするために大量に消費しており、もし、世界の人すべてが今食べている牛肉を、2回のところを1回に減らすだけで、全世界の飢餓問題はすべて解決してしまうと言ってました。どうも中国の急激な経済発展によって、中国人も富裕層から順に牛を食べはじめたのも大きいとのことでした。

これらのことから、以下のようなことを思いました。

◇その1-人を踏みつけるシステムの荷担者としての自分

 日本人もみんな牛を食べているわけで(私なんか売ってるわけで)、中国人が普通に牛を食べはじめたことを批難するわけには絶対にいきません。しかしあの巨大な人口がすべて牛を食べはじめたら・・・。
 「牛肉1kgを生産するために、8kgのエサが必要」であり、そしてそのエサの多くは、アフリカなど多くの貧困国の人々が主食にしているトウモロコシだとしたら。もう考えただけで恐ろしいです。

 「先進」地域の人間一人が消費するエネルギーは、熱量に換算して大型恐竜一頭に匹敵するんだと、エコロジー団体の方などからよく聞きます。都会の街の人ごみを見渡した時に、これだけの数の恐竜が歩いていて、世界中の資源や食料を消費し続けているところを想像してみてほしいと。

 つまり、もし世界中の人々すべてが「先進」地域なみの暮らしをはじめたら、あっと言うまに食料は食いつくされ、地球はパンクしてしまうということが言いたいのでしょう。そういう意味では私達の国も含めて、貧乏な国が貧乏なままでいてくれることを前提にして社会が成り立っているということです。だから経済援助や食料援助などは「施し」ではなくて私達の「義務」なんではないかと時々考えるのです。あるいは現在の資本主義はやはり人類にとって致命的なシステムなんではないかとか。

 要は「先進諸国」にとって、貧困国で餓死者がいっぱい出たり、次々と国家が債務不履行に陥ってもらうのも困るが、ともかく自分達が管理できる範囲で(地球が壊れたり、先進国の人々が打撃を受けない程度に)ゆっくり「発展」するべきだということになるんでしょう。要は私達が「先進」地域の人間としてその生活水準を維持しながら「普通に」暮らしていることは、もうそれだけで、どこかの誰かを踏みつけにし、傷つけて生きているということを忘れないようにしたい。

 貧困地域の「発展」を言うのなら、自分達をモデルにして「遅れた奴らを助けて自分達に近づけてやる」みたいな傲慢な発想ではない、別の発想を考えてみたい。最低限、彼らの「生活水準」を向上させるなら、特にアメリカを中心とした地域で、その分だけ自分達の「生活水準」を低下もしくは転換することを考えないと不可能だと思う。

◇その2-資本主義の原理の担い手としての自分

 たとえそのことでアフリカなどの人々が餓死することになろうとも、穀物メジャーなどの企業は、一円でも高い利益を得るためには、貴重な食料を牛のエサとして売ってしまいます。また、食肉産業の観点から考えても、「牛肉1kgを生産するために、8kgのエサが必要」だから無駄だとか問題だというのは、少なくとも資本主義の論理ではありません。資本主義の論理は「牛肉千円を生産するために、500円のエサが必要」というものです。だから全然無駄でも問題でもないわけです(お気づきかもしれないが、これを否定するのが「もったいないの思想」です)。

 そのために回り回って人が死のうが、別に直接物理的に殺したわけでもないので、そんなの知ったこっちゃありません。何しろ貧乏なのは「自己責任」ですから。自分達は努力して金を稼いだのだから、その金を「努力していない」貧乏人に回すために徴収するなんて許せない。税金は自分ら金持ちのためにこそ使うべきだということになるわけですね。

 資本主義は、基本として「金さえあれば何でもできる」「金さえあれば何でも(人の命や心さえ)買える」といのが原理原則です。だから、資本主義に対しては原理の貫徹よりも、「それをいかに修正するか」(もしくは「廃止」や「止揚」でもいいが)ということのほうがより大切なのです。ここで重要なのは、一番大切なのが「修正」「廃止」「止揚」という部分ではなく、「いかに」という部分だということだと思う。

 日本ではライブドアの堀江社長が、非常にわかりやすく(ある意味マンガチックに)「金さえあれば」の精神を具現していますが、私が彼をめぐる問題にほとんど燃えなかったのは、やはり資本主義を信じていない者の一人として「何をいまさら」という気持ちがあったんだろうなあと自己分析する次第です。

◇その3-命を「管理」対象とする資本主義的傲慢さ

 アメリカと牛肉といえば、現在はBSEと相場が決まっているのですが、私は一番に「捕鯨問題」を思い出します。まあ、鯨が本当に保護しなくてならない対象であるならば、甘酸っぱい想い出の沢山ある「鯨カツ定食」を食えなくなっても、それはまあ別にいいわけです。

 私がどうにも腹にすえかねるのは「牛は管理できるが鯨は管理できない」という発想ですね。命を「管理」するのは、現代においてはやはり一種の「必要悪」だと認識してほしい。生き物を殺して食べることは動物として仕方がないことですが、やはりそこには経済原理から離れた命への畏敬の念と感謝の心を忘れない、決して無駄や飽食を行なわない、「もったいないの思想」が大切だと思います。

 こういう「牛は管理できる」的な発言の背景には、なんでも「資源」として合理的に割り切る資本主義イデオロギーがあるわけです。よく「もうイデオロギーなんて時代でない」という方もいますが、それは単に現代の支配思想である資本主義イデオロギーを無批判に肯定する役割しか果たしません。社会の支配的イデオロギーの中にいるから、それがイデオロギーだということさえ気がつかないまま、「イデオロギーなんて関係ない、役にたたない」と言っているんではないでしょうか。社会に関わったり、ましてや(方向はともかく)多少なりとも変革しようとするなら、絶対にイデオロギーと向き合うことは避けて通れない課題です。

◇その4-そして自分を振り返る

 きっと突っ込みたくてうずうずしている方も多いと思いますが「そういうお前も『バーベキューセット半額』で売っとるやんけ」ということになります。
 バーベキューセットを考えたときには、完全に「経営者頭」になってますから、深い考えは何もなかったわけですし、今日こういう内容のことを考えてみたからといって、ほとんど初めてと言っていい「ヒット商品」を廃止することもないわけです。何しろ貨幣を使わずに「一人共産主義」で生活することはできませんから。

 資本主義社会で生まれた自分は、資本主義イデオロギーの持ち主であり、生まれながらの資本主義者です。そして他の人間やより弱い者、さらに人間以外の生物に対して差別者であり、抑圧者です。自分だけが綺麗で潔白だとはまったく言えません。そのことを今日の思いでまたしても思い知らされます。そしてそういう思いが私をまた左派へとかりたてるのです。

 左翼というのは「他者否定」ではなくて「自己否定」を精神構造の基本とします。理想主義ゆえにそうなりがちです。そして自己が所属する階層や集団、その中で「目指すべき」とされる理想像のようなものを否定、攻撃します。各種の革命運動の創始者やリーダーが、判で押したように「金持ちの高学歴者出身」というのも、決して運動するだけの余裕があったということだけではありません。むしろ下層からのしあがってきた社会的リーダーの方が右派的・保守的になる傾向があるように思うのですが、それは元来「自己肯定の思想」があるからだと思います。

 しかし「自己否定」は容易に「人間否定」となり、「理想主義」は容易に「独善」へと転化し、結局は「他者否定」に回帰します。こうして「人間性の肯定」という左派本来の持ち味を失っていく過程。それが今までの左翼のあり方だったのかなあとも思いますし、どっぷりと資本主義イデオロギーの中で生きながら、それを客観的に対象化することの難しさを感じます。

 人間を肯定しながら自己と世界を時代精神の主観から切り離して対象化していく。そして主観ゆえに時代や社会に無批判だった自己のあり方を否定していき、その否定がまた人間性の肯定につながる。

 まだ全くこうして文章にするような段階ではないのだけれど、そんなことができないかなあとぐちゃぐちゃした頭で考えさせられた、けいた様のコメントでした。

1件のコメント

>「貧乏な国は貧乏なままでいてくれなくては困る」ということを前提にして社会が成り立っている

社会が発展する条件として、格差は必要ではありません。
確かに資源が限られている現在では、どの国にとっても他国が資源を消費する事は問題ですが、
それはあくまで結果であって前提ではありません。
問題は『資源比人口のバランスが悪い』という事で、資本主義や共産主義といった話ではありません。
貧困国の発展それ自体は何の問題もありません。ただバランスが良いか悪いかという問題です。

>経済援助や食料援助などは「施し」ではなくて私達の「義務」なんではないか

貧困国が貧困なのはその国の政策の結果であって、先進国に責任はありません。
よって援助は先進国の義務とは言えません。

>「普通に」暮らしていることは、もうそれだけで、どこかの誰かを踏みつけにし、傷つけて生きているに違いない

そんな事は無いでしょう。牛肉1kgを食べなくなったら8kgのトウモロコシがアフリカの貧しい人達に行き渡るのか、
というとそんな事も無く、ただトウモロコシが8kg分栽培されなくなるだけです。

>「牛は管理できる」的な発言の背景には、なんでも「資源」として合理的に割り切る資本主義イデオロギーがあるわけです

命を管理する、という行為は畜産文化を持つ社会全てに当て嵌まる事で、
別に資本主義社会の専売特許ではありません。
管理出来る出来ないという発言は単に技術的な難易度に由るものではないでしょうか。

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