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では「あるがままの現実」とは何か。それは利害関係と力関係が支配するこの階級社会のことである。この利害関係と力関係の支配する現実は、マキァベリの時代も われわれの生きる現代も変わつてはいない。否、むしろより一層徹底化しているのが現代なのである。まさにそこでは富と暴力を握ったものが社会を支配し、時代を制するのである。かかる構造は階級社会が終わらない限り ^変わりはしない。人類最後の階級社会としてのプロレタリア独裁期もまた、プロレタリアートが国家の全権力(=暴力)を握り、全生産手段(=富)を手にするのである。
革命連動とはこのような階級社会を廃絶するためにこそたたかわれるのであるが、その舞台もまた現実を離れてはありえない。この力関係と利害関係の支配する現実こそが唯一の舞台なのである。したがってそこでは空理空論によるのではなく、あくまでも現実に即した方針こそが求められるのであり、そのために決定的に求められるのはリアリズムに立脚した現状分析なのである。
また、そうしたことは敵に対してだけでなく、プロレタリア階級以外の階級・階層との連合や様々な地域的な 個別利害を有する団体との共闘をはかっていく場合においても鋭く問われてくる内容である。政治とはその核心が力の論理であり、パワーポリティクスであるといった 場合、つい「力(による利害)の押しつけ」こそが政治であると誤解されがちだが決してそうではない。マキァベリもまたそうしたことを主張しているわけでは全くない。問題なのは力関係(利害関係も含む)を基軸に、政治は運用されるべきだということなのである。
実際マキァベリは『君主論』の中で力関係に最大限の配慮をはらい、局面や対象に応じてある時はこれを押し通し、ある時は引き、ある時は協調すべきことを例証をひきつつ、つぶさに訴えているのである。
ともあれわれわれはここで、リアリズムの主体化こそ が『君主論』において学ぶべき第一の点であることにつ いてはっきりとふまえておこうではないか。すなわち、イデオロギーからの天下り的な現状分析ではなく力関係 (利害関係も含む)の織りなす複雑な諸関係に即した分析、リアリズムに立脚した分析の観点を学びとることである。
ちなみに、マルクス主義もまた同様の経緯を経て、現実的な人間解放の理論的支柱となりえたのである。マルクスは当初、へーゲル左派に所属する観念的なヒューマニストであった。そこにおける観念性は初期の文献でのフォイエルバッハ主義としてあらわされている。だが彼は「実践的リアリスト」エンゲルスと触れ合い、実践的な政治活動に関わることを通じて大きく変貌する。そして『ドイツイデオロギー』を執筆した頃を境に、現実に対する様々な哲学的な解釈や意味付与をやめ、「哲学を清算する」 (『経済学批判』)決意を打ち固め、リアリズムに立脚した 科学的共産主義者、革命的実践家へと自己脱皮するのである。そうしたことの成果が一八四八年の共産主義者同盟の結成へと実を結ぶこととなる。
マルクスは『ド・イデ』で次のように語る。
「われわれが出発する諸前提は、けっして手あたり次第のものでもなければ、教条でもない。それは空想の中でしか無視しえないような現実的諸前提である。それは現実的諸個人であり、かれらの物質的生活諸条件である」 と。
こうしたリアリズムに立脚したマルクスの社会分析は、社会のありのままの現実=市民社会とは結局のところ人間同士の利害関係によって動いており、その解剖学は経済学であることを明らかにしていったのである。そして市民社会は「(労働)価値の論理」によって動いていることをえぐり出していったのであって、かかるリアリズムに立脚したマルクスの努力が、社会科学の大著『資本論』を生み出し、共産主義理論の上に「科学」の名を冠 したのである。
このようなことからもリアリズムに立脚 した態度の大切さがはっきりとするだろう。われわれもまた「力の論理」の支配する政治的世界の中で、この現実をみすえ、これを打破する革命的リアリストへの自己変革をめざそうではないか。
われわれは、マキァベリに関して「目的のためには手段を選ばず」といった悪評をよく耳にする。これはマキァベリの一知半解にもとづく卑俗な謬見にすぎない。マキァベリの教えるところは「目的のためにこそ手段を選びぬけ」といったことなのだ。
すなわち目的を真に実現しようとするならば、現実的に選択しえる手段はそう多くはないのであり、もっとも有効な手段を選び出そうと思えば、それは一つか二つしかありえないということなのである。否、現実にはそれすらも見い出せずに政治的敗者へと転落してしまう者の方が庄倒的な多数を占めるのである。
ともあれこの「目的」と「手段」の弁証法的な関係性と、その中で最良の政治判断を下す「理性」の力をわれわれは『君主論』から学びとるのでなくてはならない。 なぜならば、リアリズムにもとづく現状分析により、主-客の力関係の攻防の推移を見とおし、その上で有効な政治方針を打ち出していく「理性的な政治判断力」こそが、革命運動の中にあっても鋭く求められるからだ。
レーニンはそうした政治の世界について「政治は算術よりもむしろ代数に似ており、さらにまた初等数学よりも高等数学に似ている」(『左翼小児病』)といみじくも語っている。このように「力の論理」である政治は、あくまでも理性の下に服されなくてはならず、人間の技術の下に統制されてはじめて力を発揮しぬくのである。マキァベリはそうした『力と理性」の関係につき、比喩を用いて次のように語っている。
「君主は……野獣のなかでは狐とライオンに習うようにすべきである。というのは、ライオンは、策略のワナから身を守れず、狐は狼から身を守れないからである。わなを見抜くという点では、狐でなくてはならず、狼どものどぎもを抜くという点では、ライオンでなければならない。」(P97)
ところで、この「理性」の立場で政治を貫徹すべきことは当為として認識されつつも、政治の現場にあっては往々にして感情論に押し流されがちである。だがこれは 厳に戒めなくてはならない。なぜならば、感情論に流されてしまうならば、必ずや敵に足もとをすくわれ、手痛い打撃をこうむるからだ。まさに政治の唯一の使命-そのつくり出す結果において目的=勝利のために貢献すること-を常に念頭におき現場に流されることなく政治判断を下す態度こそが大切なのである。
そうした意味で宗教的な倫理主義は克服されなくてはならない。というのも、宗教的な立場にあっては、自己の行為それ自体が最大の関心事であって、自己の善行において完結してしまうのであるが、政治にあっては、その関心事は結果であり作用だからである。
その点で両者は決定的に位相を異ならせるのである。この両者の違いを強く主張したかったからこそ、『君主論』はチェーザレ=ボルジア讃美をはじめとするインモラルな表現を好んで使用したのだといえよう。マキァベリはサヴォナローラを典型とする政治と宗教の混同、説教をもって政治におきかえるような無能なリーダーがイタリアを大国の思うがままにさせ、自滅の道を開くであろうことに対し、敢えてモラルに挑戦することをもって警鐘を乱打したのであった。
このことはしかし、革命運動にとって倫理や道徳ないしは善意といったものが必要ではないといったことを意味するわけではまったくない。マキァベリの原動力が「イタリアの解放」といった「大いなる道徳」であったように、われわれ革命運動に生きる者にあってもその原動力は「普遍的人間性の解放」といった「人類最高の道徳」 の実現にあるのだ。だが、「地獄への道は善意でしきつめられている」(レーニン『なにをなすベきか』)といったこともまたもう一つの真実なのである。倫理主義に陥ってしまったとき、そのとき人はこのもう一つの真実を忘れ 自滅の道を歩むのである。あたかも敬虔な僧侶政治家サ ヴォナローラが「清潔な政治」を訴え、民衆の総意で迎えられながらも、自らのまねいた失政により、民衆の手によって火刑に処されたようにである。
われわれはこうしたことに断じて陥らぬために、次のマキァベリの言葉を胆に銘じておきたい。
「人間いかに生きるべきかということのために、現に人の生きている実態を見落としてしまうような者は、自分を保持するどころか、あっというまに破滅を思い知らされるのが落ちである。なぜなら、なにごとにつけても善を行なうと広言したがる人は、よからぬ多くの人のあいだにあって破滅せざるをえないものである。」(P85)
「君主は、戦いと軍事組織と訓練以外に、いかなる目的も、いかなる配慮も、またいかなる職務も、もってはいけない。つまり、これが統治者に本来属する唯一の任務なのである。」「あなたがたが国を失う第一の原因は、この職務をなおざりにすることであり、あなたがたが国を 手に入れる基礎も、またこの職務に精進することにある。」 (P81)
このようにマキァべリは軍事を政治における最大の核心問題としている。政治が本質的に「力の論理」である以上、軍事力が最重要の切り札となることはあまりにも当然の帰結である。
だがこの軍事問題について、将来必要だからもつ必要性がある、といった消極的な取り組みであってはならない。軍事力は、その直接的な行使の局面=戦争において必要不可欠な手段であると同時に、平時にあっても極めて重要な「政治的手段」であることについてふまえておかなくてはならない。「つまり、非武装があなたのうえに およぼす弊害はいろいろあるが、とくに問題なのはあな たが人に見くびられることである。」(P81)人に見くびられている者が政治的勝利を治められるはずもなく、より強いもの、武力を備えたものに服従を強制させられる以外ないのである。
まさに軍事力を有していないものは’ 政治の最重要な切り札を持ち合わせていないのと同義で あって、これを有したものから足もとを見すかされ、自己の利害を主張する余地など寸分もなくなるのは明らかである。
要するに軍事力は、戦時にあっては敵を物理的にせん滅する手段であると同時に、平時にあっても敵を心理的に骨ぬきにし、屈服を迫る重要な手段であるということである。これはまた攻撃に際してばかりではなく、防衛に際しても相手にこちら側の反撃を予想せしめ、戦争の抑正カとなり、防衛力となって、容易に相手が理不尽な要求を主張することのできない情況をつくり出すのである。
文字通り「武装せる予言者はみな勝利を占め、備えのない予言者は滅びる」(p36)ということなのだ。
それゆえ日共のような「平和革命」路線などというものは、政治の本質を無視し去った観念論でしかなく、敗北は必至なのである。
政治革命を志向する限りにおいて、軍事と暴力の内包は必然であり、まさにわれわれはそうした観点に立ち「党の武装」を更に一層おし進めていくのでなくてはならないのだ。それはまた同時に、われわれ自身が自らを「武装せる予言者j =「軍人」へと打ち鍛えていくべきことをも意味しているのである。
これらのことは今日のわれわれにとり、極めて焦眉の課題である。われわれは党の武装の前進をもって中曽根の戦争国家計画を迎え撃ち、破防法弾圧体制を食い破って天皇在位六十年式典東京サミット粉砕闘争の大爆発をつくり出す任務をおっているのだ。また党の武装による抑止力作用によって、革命党に対する反革命的武装襲撃をはね返すのでなくてはならないのである。