戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
まず開拓者は現地に住み着かねばならなかった。武治は実家にあった古材や、あちこちから材料を掻き集めては、木の根に運んだ。
どうやら自分の手で雨露を凌ぐ佗住いができあがった。そこで妻の説子と子供三人を引き連れて、辺田から木の根に移り住むことになった。
リヤカーに当座間に合うだけの諸道具を、山と積んだ。その上に一番下の二歳になる咲子を乗せ、武治がリヤカーのハンドルを握り、それを曳いて木の根に向かった。上では咲子が小さな手をバチバチ叩いて、喜んだ。それを見て二人の男の子たちも、「乗りたい」といって騒いだ。子供たちはどこか未知のところへでも、旅立つかのように、はしゃいでいた。
説子は背中に大風呂敷の包みを背負い込み、その後に従って歩いた。二人の男子たちは武治の曳くリヤカーの先頭に立って、われ先にと走った。春先の暖かい日だった。辺田の坂を上るときは親子でリヤカーの後押しをした。
木の根の小屋は「拝み」といって、三坪にも足りないものだった。柱がなく合掌造りだから、これを「拝み」という。小屋はすぐに、あちこちに建っていった。どこの小屋でも引っ越しに忙しかった。
やがて、その日も暮れた。木の根の夜は、暗くて淋しかった。あちこちの森では、頻りに梟(ふくろう)がホーホーと鳴き、子供たちは淋しがって、母親にしがみついた。武治は土間に焚火をして、光をとった。
これが武治一家の木の根入植の始まりだった。一九四六年の三月二五日である。
入口に吊るしたむしろ戸を押して外を見ると、各所の小屋で焚く火が篝火のように燃えるのが見えた。それが深閑とした暗夜の中に、鬼火のように映った。どごかで火のはぜる音が、夜のしじまを破って爆竹のように響いてきた。
武治は土間に腰かけて粗朶(そだ)をくべていると、小屋の傍に忍びよる微かな足音を感じた。武治はむしろ戸を押して、暗い外を覗いた。
途端に闇の中から声がした。
「武おっちゃーん」
闇を透してよく見ると本家の正夫が、手にランプをぶら下げてむしろ戸の傍に立っていた。武治は狐に鼻をつままれたように思った。こんな暗い闇の中に、まだ七歳の正夫が立っていたからである。
正夫は武治の甥で戦死した兄の長男だった。父の戦死のため正夫は村の小学校を卒えても、他の子供たちのように遊びもせず母親と一緒に野良仕事を手伝って、少年期を過ごしていた。歳には似合わず、殊勝な子供だった。
母親のとも子も正夫の境遇の不憫さを思ってか、いつも正夫の将来のことを考え続けていた。村人も母親を助けてよく働く正夫のことを、何かにつけて「正夫を見ろ」と、親孝行者の模範に見ていた。正夫は子供ながらもそれがいやで、耐えられなかった。
その正夫が辺田部落から近道を通っても一キロあろう暗い夜道を、ランプを届けに木の根の原までやってきたのである。木の根の原には電気もなく、まだ井戸もなかった。母親に「ランプを届けてこい」といわれて、それを持ってきたのだった。武治も、今、辺田まで取りに行こうかと思っていたところだった。
「正夫、一人できたのか――。よくきたな、こんな暗いのに……」
武治は正夫の手からランプをうけとった。見ると石油も入っていた。すぐに焚火の燃えさしをとって点火した。武治がつまみを回してしんを調節すると、暗い小屋の中がぱあーっと、見違えるように明るくなった。今日運んできた物がみんな眼に映った。武治はランプを右手に持って、高く捉げた。
「武おっちゃん、吊り手」
正夫が左手で差し出したものを見ると、ランプの吊り手だった。
武治は吊り手をうけ取り屋根の棟木にかけて、ランプを吊るした。子供たちはランプの周りに集まり、明りを見ては喜んで跳ね回った。
ふとみると、正夫の姿がもう見えない。
「正夫ー、正夫っ」
武治は外に飛び出し、闇の中に呼び続けた。正夫の姿はどこにも見えず、返事もなかった。いつの間にか、帰っていったらしい。
武治は腰かけたまま、焚木をくべ続けた。彼の横顔が焔の反射をうけて、赤不動のように見えた。焚木を折るぽきぽきという音が、夜のしじまを破って闇に響いた。
また、梟が鳴いた。
「あの梟の声を聞くと、たまらなぐ淋しくなるわ」
と、説子は武治をみつめていった。梟はなおも鳴き続けた。
「なんだか地獄の底でもひきずり込まれていくような……、私これから何年もこんなとこで暮すなんて……。本当に先が思われるわよ」
「今からそんな弱音を吐いたら、この俺だって気が挫けらあ……。切角これから……」
「そんなこといったって、電気も井戸もない真暗な原っぱの中でどうやって……」
説子は小樽の生まれだったから、辺田生まれの武治とは違って、その寂寥感はひとしお身に染みて心細く感じたのだろう。小樽は北海道でも随一の港街だった。
ただ、黙って虚ろに頂垂(うなだ)れている説子を見下して、武治はいった。
「今更街へ行ったって何になる。土地を持つ百姓ほど強い者はありゃしねえど」
武治の言葉は子供にでも、言いふくめるようだった。焚火が夫婦の顔を赤々と彩って燃えた。子供たちはいつしかむしろの上に寝そべって眠ってしまっていた。
「説子、風邪ひくぞ。早く蒲団しいてやれ」
蒲団の上に三人の子供たちを寝かせると、また焚火のはぜる音に交じって、ホーホーと物憂い梟の鳴く声が聞こえてきた。その声は子供たちの寝静まった小屋に染みとおり、説子の心を一層佗びしくさせた。
「梟は夜になれば鳴くにきまってらあ」武治は無心に粗朶をくべては、焚火を燃やし続けた。
梟の声はどこか奥深い洞窟で、得体の知れない魔者が竹笛でも吹くようで、不気味だった。それが単調で抑揚なく繰り返すから、なおさらである。何か暗い穴の底に、ひきずり込まれるような気がした。梟は、どこかの森で初め一羽が鳴き出すと、それに呼応して他の梟が、そちこちの森の葉陰で鳴く。その呼応する声はリズミカルで、説子の哀愁に比べてむしろ武治の心の無聊(ぶりょう)を慰めた。
梟は枝から枝へ移動するのか、一つの声も遠く近くなって聞こえてきた。昼間は葉陰にかくれて姿を見せない梟たちも、暗い夜が来るとわが世の春とばかりに跳梁する。梟は昼間は手掴みできるほどであるが、夜陰に乗じての視カは素晴らしく鋭く、夜は梟が餌を漁る独壇場だった。
武治はやおら腰を挙げた。右手がむしろ戸に伸びると、それを除けて、暗い外に出た。夜気が重くしっとりと肌に触れた。雑草に降りた冷たい夜露が、武治の足を伝わって流れ落ちた。
暗夜に点々と燃える篝火は、開拓者らが小屋で焚く火だ。闇夜の中にもどこに誰の小屋かあるか、火を見てすぐそれとわかった。
「ああ、あの火の下に仲間が生きているのだ」
そう思うと、武治は慰められて、心温まるものを覚えた。
夜空を仰げば北斗七星が中空にかかって美しかった。
武治は思わず深い息を吸い込んだ。そして、思いっきりその息を、闇の中に吐き出した。ヒューと口笛のような音が、迸り出た。よく澄んだ星の降るような晩であった。