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反戦反安保

歴史の瞬間に立って-60年安保闘争の記録より(年表付)

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60年安保闘争年表

1958年

9月11日
藤山外相、ワシントンでダレス米国務長官と会談。安保条約改定交渉開始の共同声明

10月4日
東京で安保改定交渉の会談はじまる

10月13日
警職法反対国民会議発足。警職法闘争で大衆勝つ

1959年

3月28日
安保闘争の統一団体である「安保改定阻止国民会議」(以下国民会議と略称)が結成さる。社会党・総評などが中心。共産党と、のちに安保闘争の主役となる全学連は、ともにオブザーバー資格での参加が認められた。

3月30日
東京地裁伊達裁判長「米軍駐留は憲法違反」と判決

4月15日
国民会議の呼びかけによる第一次安保阻止全国統一行動

6月25日
第三次全国統一行動。炭労、ストに突入。
東京で2万6000人が中央大会(日比谷)に参加

8月6日
第五次全国統一行動
全港湾労組時限スト。総評傘下各労組は職場大会。
東京で5万人の集会(後楽園)など、全国で400万人が統一行動に参加

9月15日
フルシチョフ・ソ連首相ワシントン着。米ソ首脳会談。
27日「国際問題の解決はカによらず、平和的方法で」と声明

9月16日
石橋湛山元首相、北京で周恩来中国総理と会談。
20日共同声明に調印。「政治と経済は切離せぬ」と強調

10月9日
文化人有志の「安保批判の会」発足

10月17日
学者の集り「安保問題研究会」が藤山外相あて公開質問状を出す

10月25日
社会党西尾派、社会民主クラブ(のちの民社党)を結成して分裂

11月25日
衆院外務委員会で政府・自民党が南ベトナム賠償協定の審議を打ち切ろうとしたため混乱。26日暁の本会議で賠償協定可決

11月27日
国民会議第八次統一行動
3万人のデモ隊国会を包囲。政府、自民党の暴挙に怒った大衆が国会構内に突入して抗議集会を開く。この日の行動により安保問題への関心が急速に高まり、安保反対闘争が全国民の課題となっていく

12月10日
第九次統一行動
炭労大手14社24時間スト、国鉄労組の職場大会など

12月14日
北朝鮮への帰国第一船が新潟から出航

12月16日
最高裁、砂川事件の「伊達判決」を破棄

1960年

1月16日
岸首相ら安保調印全権団、6000人の警官隊と700人の右翼暴力団に守られて羽田を出発。渡米阻止のため前夜から空港に集まっていた学生700人警官隊によって弾圧され、77人が逮捕さる

1月19日
ワシントンで新安保条約と新協定、附属文書が調印さる

1月27日
グロムイコ覚書「日米軍事同盟の締結はハボマイ、シコタンの日本への譲渡を不可能にする」と通告

2月1日
第34通常国会再開。11日衆院に日米安全保障等特別委員会を設く

2月25日
第十二次統一行動。官公労五割休暇闘争

2月26日
フルシチョフ、インドネシア議会で演説。「日米新安保は日本自体にとって危険なトバク行為だ」

3月19日
第十三次統一行動。全国600カ所で集会。500万人が参加

3月23日
社会党大会、浅沼氏を委員長に選出

3月28日
争議中の三井三池で、第一組合員久保清氏が暴力団員によって刺殺さる

4月10日
周恩来中国首相、人民代表大会の席上で「新安保は日本人民に災いをもたらし、中国、ソ連、東南ア諸国民の安全を脅かす」と発言

4月15日~26日
第十五次統一行動。合化労連が24時間スト。
16日東京で3000人の婦人が都心デモ。
法律家、学者、宗教家などの国会請願続く。
26日東京で10万人が国会に請願行動。
同日、韓国の李承晩が学生を中心とする反独裁・民主化デモの広がりに抗し切れず大統領辞任を声明。この「四月学生革命」は日本の学生をも大いに勇気づけた。

5月9日
第十六次統一行動始まる
中国の首都北京で、日本人民支援集会に100万人。
12日総評、中立労連傘下の労働者460万人が職場集会。
群馬県では商店が安保反対を表明して「商店スト」を実施。
14日東京では6万人が雨中の国会デモ

5月17日
米スパイ機(U2)のソ連領空侵犯が原因となってパリ首脳会談決裂す

5月18日
安保批判の会代表10人は岸首相と会見し、安保批准とりやめを要求。
翌日の国会会期切れを前に採決の目処は立たず国内情勢は緊迫。

5月19日
深夜10時25分、衆院安保特別委員会で自民党委員が新安保を突然の強行採決。

同11時07分、警察官500人を国会内に導入。抗議する社会党議員を警察が強制排除。

同11時48分、警察による野党議員排除後に衛視に囲まれて清瀬議長が本会議場議長席につく。会期50日延長を可決して5分間で散会。会期切れまであと7分だった。院外ではニュースを見て駈けつけた人々が深夜の雨の中で国会を包囲しはじめ、その数は3万人に達した。

5月20日
日付が変わった午前0時6分、自民党単独で衆院本会議開会して新安保を討論なしで可決。その間わずか12分間だった。社会、民社、共産の野党三党のほか、石橋、三木、河野、松村等の自民党反主流派議員も岸首相の強引なやり口に反発して採決に加わらなかった。

採決後ただちに野党三派が議決の無効、国会解散要求の声明を発表。さらに国会前に残った一万人の人々が未明の午前4時まで国会を包囲してすわり込み、抗議を続ける。国民会議が翌日からの統一行動をよびかけ。

夜が明けると早朝から怒った人々が国会、首相官邸に渦のように押し寄せ、そのまま怒りの抗議デモとなって包囲。その数は10万人に達した。この日から国会は群衆に包囲され完全なマヒ状態におちいる。

自民党のこの暴挙は世論から爆発的な批判を浴びる。国民の怒りはすさまじく、すでにかつてない巨大な高揚を見せていた反安保闘争はこの日以降、誰も予想できなかった「全国民的規模」の歴史的な大闘争に発展していく。

5月21日
岸首相は官邸で社会党代表と会見。内閣総辞職、解散要求を拒絶。
永田町の首相官邸、南平台の首相公邸が五万人のデモ隊にとり巻かれる。抗議デモはさらにひろがりアメリカ大使館にもデモ隊が押し寄せる

5月22日
首相官邸の石べいに高さ3メートルの鉄条網張られる
東京都立大の竹内好教授は「岸内閣の公務員としてとどまり得ない」と辞意を表明

5月24日
社会党浅沼委員長、マッカーサー米大使と会見、アイク(アイゼンハワー大統領)訪日延期を要望。両者卓を叩いて激論

5月26日
自民党と同志会だけで参院会期延長を議決。
17万人の国会請願デモ隊が包囲。そのため岸首相は午後2時から10時すぎまで院内にクギづけで動けず
群馬、茨城両県では三度目の商店スト

5月27日
トルコ陸軍、クーデターを起す

5月30日
若い日本の会300名が集会、「安保議決を無効にせよ」と声明。各界の声明あいつぐ

6月4日
6・4安保反対ストが、国民的支持のもと成功裡に決行される。国電は始発から午前7時までとまる。旅客、貨車の運休は全国で759、遅延は167本。全商連加盟の商店2万軒も時限または全日閉店スト。この日だけで560万人が集会やデモに参加した

6月7日
米上院外交委員会で安保審議を開始。
東久邇、片山、石橋の三元首相が岸首相に即時退陣を勧告

6月8日
総評臨時大会、満場一致でアイク訪日反対決議

6月10日
米大統領新聞係秘書ハガチー来日。羽田空港出口でデモ隊にとりまかれ、1時間10分立往生、ついにヘリコプターで脱出(ハガチー事件)

6月11日
第十八次統一行動。
全国350カ所、200万人が参加。東京では23万人が国会にデモ

6月13日
岸・西尾会談。民社はアイク歓迎に転換。議決休会案話題になる。
東京教育大、法政大学自治会、日本鋼管川崎労組がハガチー事件で不法捜索さる

6月14日
全労、アイク歓迎を声明。新聞も同調。ハガチー事件弾圧で動揺した総評も羽田沿道デモ中止を社共両党に申し入れる

6月15日
6・15反安保スト。6・4ストを上回る。全国で580万人が統一行動に参加。
午後からタ方にかけて国会請願デモ。11万人が国会周辺を埋める。
午後5時10分頃、国会第二通用門付近で右翼210人がデモ隊になぐりこむ。

午後5時45分頃、全学連のデモ隊7000人、国会南通用門を開き、同7時国会構内に入る。警官隊に襲われ負傷者数百名。この時東京大学学生樺美智子さんが警官に撲殺され、全国民の憤激はその頂点に達する。

6月16日
政府は臨時閣議でアイク訪日延期要請を決定。反安保闘争が全国民的な広がりを見せるにつれ、予想をはるかに凌駕する国民の反発に政府側の動揺が激しくなってくる。
国民会議の抗議デモ10万人をはじめ、各大学での虐殺抗議集会など、首相官邸、国会周辺には樺さんの死をいたみ、岸内閣に抗議するデモ隊が終日相続く。まさに国内情勢は騒然を極める状況。

6月17日
社会党河上丈太郎顧問、国会請願受付所で刺さる

6月18日
全学連らによる樺美智子さんの東大合同慰霊祭・抗議デモが開催さる。
デモには、労働者、学生、地方代表、沿道の一般市民などが次々と合流し、遂にそれまでで空前の規模となる33万人のデモ隊が国会周辺を完全に包囲した。

政府としてはもはや手の付けられない規模となり、デモの鎮圧どころか逆に機動隊側がバリケードを築いて官邸などに立てこもった。デモ隊の一部は夜を徹して国会周辺に抗議の坐りこみをおこない、岸首相はデモ隊に包囲されて一歩も動けず官邸に缶詰となる。

岸首相は自民党・川島正次郎幹事長を通じて、赤城宗徳防衛庁長官に、デモを鎮圧するため自衛隊の治安出動を要請。だが赤城長官は、「武器を持った自衛隊の出動で死者が出ればデモは革命的に全国に発展する。そうしたら収拾がつかなくなる」と岸首相の要請を拒否。閣僚が「革命」の可能性を意識せざるを得ない状況。
ここは危険ですので移動して下さいと密かに脱出することをすすめる側近に対して岸首相は「今の日本に私が安全な場所などあるのかね」と呟いたという。

6月19日
午前0時、参院で議決を経ないまま新安保「自然承認」。国民会議は直ちに「この条約は認めない」と条約の無効を声明

6月20日
参院自民党は単独での本会議開会を強行して新安保関係諸法案を一挙に可決成立。もはやここまできたら「毒喰らわば皿まで」ということであろうか。無法の連続

6月22日
第十九次統一行動。6・22スト。総評、中立労連の111単産、620万人が早朝ゼネストに突入

6月23日
藤山外相、マッカーサー米大使、外相公邸で日米新安保批准書をひそかに交換。
岸首相、臨時閣議で辞意を表明。
樺美智子さんの国民葬が行われる(日比谷)。2万人の労働者、学生、市民が参列

6月25日~7月2日
第二十次統一行動。
25日大阪で2万5000人が安保不承認決起大会に参加。
7.2全国50カ所で「新安保不承認、国会即時解散、不当弾圧反対、新条約締結責任者の追放」をめざす集会。参加者は東京の15万人をはじめ全国で200万人

7月10日
神奈川県厚木でU2機追放国民大会が開かれ、厚木米空軍基地に抗議デモ。参加者は2万人。

7月14日
自民党大会で岸総裁辞任。池田勇人を総裁に選ぶ。
首相官邸で岸首相、右翼暴漢に刺され負傷。官邸から惨めに退場。

7月19日
池田内閣成立

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