まず第一に、一国社会主義建設可能論にもとづくマルクス主義の修正に対する批判である。
これはそもそもレーニンが「一国における社会主義革命の完全な勝利は不可能であり、そのためには少くとも、いくつかの先進国の積極的な協力が必要とされる。そしてわがロシアをこの先進国の一つにかぞえることはできないのである」と1918年11月に提起していることを(全集28巻、P115)スターリンが1926年1月、『レーニン主義の基礎』の改訂をなすなかで、「一国での社会主義の勝利の可能性とはどういうことか?それはわが国の内部の力でプロレタリアートと農民とのあいだの矛盾を解決することができる、ということであり、また他の国々のプロレタリアたちの共感と支持をうけていれば、まえもって他の国々でプロレタリア革命が勝利しなくても、わが国でプロレタリアートが権力をにぎって、その権力を完全な社会主義社会の建設のために利用することができるということである」と、いわばなし崩し的に改ざんしていったことへの批判である。
これはさらに中国共産党に対する批判とも絡みあわされる形で、過渡期(プロ独期)と共産主義の第一段階としての社会主義社会が二重うつしにされており、マルクスの『ゴー夕綱領批判』の内容が修正されていること、社会主義社会であるなら国家は死滅しているはずであり、労働証書制が採用され、価値法則も止揚されているはずだといった、端的には対馬忠行の『マルクス主義とスターリン主義』にまとめられる内容として提起される。
つまりマルクス主義の原則的観点からのイデオロギー的逸脱に対する批判である。
[Sponsor Ad]
第二には世界革命の放棄が、ソ連一国防衛主義として1930年代スペイン革命の放棄、抑圧や、ドイツ革命の挫折をもたらし、中国革命に対してもコミンテルンの誤った指導として、国際共産主義運動の混迷をもたらしてきたこと等の批判である。
ソ連共産党20回大会における平和共存路線への移行以前から、1928年コミンテルン第9回拡大執行委での社会ファシズム批判や、1935年コミンテルン第7回大会でのディミトロフによる反ファッショ統一戦線の提起など、国際共産主義運動、各国革命に対する指導はまったくジグザグしており、結局は「社会主義の祖国ソ連を防衛せよ」という方針につらぬかれたものであった。
プロレタリア国際主義を内実としてもちあわせぬこの方針は、各国の闘う人民を孤立化させ、ファシスト共の餌食にさせてきたのであり、独ソ不可侵条約の締結などは、ヨーロッパにおける反ナチ・レジスタンスの方向性を喪失させ、ソ連に対する不信をつのらせるだけとなった。
毛沢東が中国人民解放軍をひきいて抗日民族統一戦線を構築し、独自の遊撃戦理論をつくりあげたのも、いわばこうしたコミンテルン指導の方針(オットー・ブラウンの堡塁戦、陣地戦)に対するアンチとしてである。スペイン革命にあってはPOUMに従ったジョージ・オーウエルが『力タロニア讃歌』においてフランコを助ける共産党指導部を糾弾しているし、中核派の野島三郎の『革共同の内戦論』は、どこでもかしこでもスターリン主義者が裏切ったと、それ自体全く正しい指摘だが裏切り史観でつらぬかれる形で書かれている。
第三にはブルジョア議会主義への埋没と二段階戦略の固定化が、ブルジョア体制内化=共存化してしまい、闘う前衛党としてのエトスを喪失させ、ひいては選挙で一票とる運動へと革命運動そのものを矮小化させていることに対する批判の系列である。
特にこれは日本共産党の現在、つまり日本におけるスターリニストの運動路線に対する批判として展開されてきたものであり、1961年綱領の採択以来、民族民主革命の実現にむけての民族民主統一戦線の形成をという政策要求、制度要求闘争路線が、闘う労働者階級人民と一切結合していないばかりか、むしろ常に体制の左足としての敵対者としてあらわれていることへの指摘といえる。
ラジカルに闘う者をすべてトロツキスト、暴力主義者の闘争破壊として糾弾し、反トロキャンペーンによって戦線から放逐しようとするそのやり方は、狭山差別裁判糾弾闘争や三里塚成田空港粉砕闘争において、闘う大衆団体(部落解放同盟や三里塚芝山連合空港反対同盟)から糾弾され、人民大衆が共産党から離反する結果をもたらしており、否、そればかりかそうした敵対者をすべて権力の手先よばわりしていく偏狭な体質は、革命的に闘おうとするものは唯一の前衛党であるはずの日本共産党には属しえないという皮肉な結果をもたらしている。
共産主義者同盟のスターリン主義批判の原点はいわばここにあり(=『われらの対立-共産主義者同盟と共産党』佐々木和雄著)、かつ依然として最重要の批判点として現在もある。
第四に党の官僚化、一党独裁によるプロレタリア独裁の歪曲が、複数主義を認めず、ソビエト(議会)の無力化と空洞化をもたらし、党が人民に君臨する専制支配を生み出してきたことへの批判である。
1920年代の左翼反対派が、書記局を牛耳るスターリンの専制に対する批判としてこれをなして以来、党的に少しでも疎外されたり、あるいは自己の権利運動として革命運動をとらえる部分は、すぐにこれを口にしたがるというように、一方ではブルジョア・アトミズムからのアプローチそのものでしかないアナーキイな傾向をも内包しつつ、しかし1930年代の血の粛清の如きスターリン主義の最も悪しき発現もここに見られるように、政治としてのスターリン主義に対する批判の原点を、これは形づくってきた。
党が自己の上に君臨し、専制的な官僚機構が国家をおおい、個人の自由な自己の発現が圧殺されるという印象を持つことは、ブルジョア的個人主義を価値判断の基礎にすえる限り、たしかにこの上ない苦痛であり、個人解放というブルジョア的原理にまっこうから反することであって、マルクス主義者はこの克服をめざす以外ない。
だが同時にこれは近代における機械体系への人間労働の従属だとか、巨大管理機構への個人の従属というブルジョア社会における基本的な社会=人間関係においても同様に問題とされてきたことであって、それとオーバーラップして「自由な個人」が組織を批判することとも絡みあう問題であり、特定の価値判断に立って一個の目的意識の体系をなす党活動においては、一面として排除される以外ない領域もふくまれている。
だから例えば『ソ連における少数意見』での、ロイ・メドヴエーデフの市民的自由の主張という正当な見解や、同じようなものとして見られがちのソルジエニーツインのギリシア正教の昔に帰れ、それがロシアの本来の姿だというような主張は、とても一緒くたには論じられないものである。
言い換えれば官僚主義批判だとか、個人の自由の圧殺とか、党的ヒエラルヒーの批判の内容において、如何なるものを持ちえているかこそが、スターリン主義批判の位相を決定しているのであり、従って政治としてのスターリン主義の克服の問題は、一番つよくこの領域に求められるものであるとわれわれは考える。
第五に民主主義の形骸化、基本的人権の無視、専制的官僚支配が文化的にも停滞をもたらし、スターリンイデオロギーの諸科学への押しつけとして、芸術や科学の自由な発展をもたらしてこなかったという第四の領域とも絡みあう内容での批判。
社会主義リアリズムへの批判だとか、言語は上部構造に属さないというスターリン言語論に対する批判、ルイゼンコ学説に対する批判など、イデオロギーや芸術などの分野におけるスターリン主義の克服は、トロツキーの『文学と革命』であるとか、黒田寛一、宇野弘蔵、武谷三男、吉本隆明、三浦つとむなど様々な領域の、様々な分野においてなされてきたし、これからもなされていくだろうと思われる。
以上の如き幾多の領域にわたる批判のつみ重ねの中から、日本において例えばスターリニスト・レジーム、スターリニスト革命、スターリニスト政治経済法則などの概念をつき出すことによって、〈反帝・反スタ〉を標榜する革共同や、反社帝のためには日米安保も承認すべきという中共派なども生み出されているわけであり、スターリン主義批判は明確に概念規定されぬまま日本革命的左翼の自明の課題であるかのような体をなしつつある。
われわれはわれわれの観点においてスターリン主義の克服を問題とする時、まずもって以上述べられてきたようなスターリン主義批判の内容は前提的にふまえられるべきことであり、かつ正当な批判の内容であることを確認しなければならない。
そのうえでわれわれにとり基軸的といえるものをとり出し、われわれ独自の方向性を確定していきたい。そのためにも次にスターリン主義の反人民性の最も卑劣な発現となったソビエト・ロシア1930年代の血の粛清に至る歴史的過程を俯瞰し、問題とすべき点を抽出していこう。
ごく大ざっぱに問題を見ていくならば、1924年1月のレーニンの死後、1924年5月の第12回党大会でまずトロツキー派が主要な党機関から排除され、つづいて1925年12月の第14回大会をメルクマールにぺトログラード党組織に依拠したジノヴィエフ反対派がスターリンに敗北し、27年9月のトロツキー、ジノヴィエフの最後の抵抗となった合同反対派政綱の提出に対しては、同年11月の中央統制委による両者の共産党からの除名、12月15回党大会での左翼反対派総体の党からの除名という具合に、いわゆる左翼反対派のスターリン・ブハーリンブロックとの党内闘争の歴史は進展する。
そしてトロツキーが1928年1月アルマ・アタヘ追放されてからのちスターリンの左転換がはじまり、急速なロシアの工業化がさけばれ、28年10月第一次五ヵ年計画(いわゆるゴスプラン計画)の開始にともない右翼反対派、ブハーリン、ルイコフなどが失脚するといった歴史過程を20年代ロシアはたどっている。
ジノヴィエフ、カーメネフなどは除名、シベリア流刑、復党をくり返すが、ドイツにおけるナチの勃興にともないクラーク追放、工業化、電化の達成が確認された、ボリシエヴィキ党の大同団結の大会としての第17回党大会が1934年1月ひらかれてのち、12月のキーロフ暗殺そして36年の第一次モスクワ裁判、ジノヴィエフ、カーメネフの処刑、38年の第三次モスクワ裁判、ブハーリン、ルイコフ処刑、39年独ソ不可侵条約の締結といった、坂をころげるようなスターリン専制の暴虐が、その後の1930年代を形づくっている。
こうした歴史過程を対象化しつつ、スターリン主義の誤謬につき問題をつきだしていこうとするならば、永続革命対一国社会主義、ロシアの工業化をめぐる分岐、そして農業集団化などのロシアにおける社会主義の建設問題が主要論争軸であることがわかる。そして例えば1920年代の論争においては、1917年ロシア革命の成果を防衛しきるという観点において、トロツキーではなくスターリンの方に、実際のロシアの労農大衆に対しては説得力をもった主張が多いということも、対象化されるのである。