組織活動におけるマニュアル化の意義

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組織防衛闘争におけるマニュアル化の意義

80年ベネチアサミット粉砕闘争

 具体的なマニュアル内容の検討に入るまえに、まず組織防衛闘争におけるマニュアル化の意義を再把握することから始めたい。ここでいうマニュアル化の意義とは、実際にマニュアルを決定し、励行していく場合における政治的観点、組織防衛マニュアルの実践における基本的考え方のことである。

 まず第一に確認すべきことは、マニュアルとは決して固定化された「必勝原理」なのではなく、現実の防衛に即して改編されることを前提とした当面もっとも良いと思われる方法の集大成であらねばならないという点である。
 このような観点の把握にむけては再度クラウゼヴィッツの『戦争論』の第二篇「戦争の理論について」などで論じられている諸内容が対象化されねばならない。

 周知のごとくクラウゼヴィッツは戦争の本性が「肉体的困苦と心労」とともに「不確実、偶然」にあることを明らかにしたうえで、「兵数の優勢」や「策源と作戦軍の角度」等をもって「必勝原理」を求めようとしたそれまでの戦争理論を「これらの試みは、いずれもその分析的な部分では真理の領域における進歩と見なされ得るにせよ、しかし綜合的な部分においては、即ち軍事的行動を律する指定や規則としては、まったく使用に堪えないものである」
 「これらの理論は、いずれも一定の量を求めることにこだわっている。しかし現実の戦争においては一切のものが不定であり、計算はもっぱら変数をもって行なわれねばならないのである」(『戦争論』第二篇第三章「戦争の理論について」)と批判した。

 またクラウゼヴィッツは同篇第四章「方法主義」の中で、戦争指導においては、「認識に関する方法の概念」だけでなく、「行動に関する法則の概念も用いることができない」それはなぜかというなら、「戦争指導においては、現象は絶えず変化しまた多種多様を極めるので法則の名に値するほどの普遍的規定はありえない」からだとも述べている。要するに戦争においては、絶対不変の法則など見いだせず、従って戦争を遂行するにあたっては、「必勝不敗の原理」を求めたり、それによりかかったりしてはならないというのがクラウゼヴィッツの主張していることである。

 かかる『戦争論』における考え方の根底にあるものは、戦争とは「わが方の意志を相手に強制する」ことを目的とし、「敵戦闘力の絶滅」ないし「敵の防御を無力ならしめる」ことを目標とした相互の「物理的強力行為」「闘争」であるという観点である。
 戦争がこうした目的と目標をもった相互の「闘争」である限り、一方が「必勝原理」をもって闘わんとすれば、他方もまたその「必勝原理」を用いようとし、さらにはそれを乗り越える新たな「原理」のもとに闘うといった相互媒介的な発展をとげていかざるをえない。

 たとえば敵情の情報収集ならば、探る側は何とか情報収集を察知されず、できるだけの情報を得ようとするが、探られる方はたえず情報収集を困難にし、あざむこうとする。かかる相互の関係性のもとでは戦争行動の具体的な内容を法則としてつかもうとすることはできず、又当然絶対に勝利する「行動原理」も存在しないということになる。戦争における「必勝原理」を見い出そうとするのは「矛盾」という言葉の語源となった中国の故事にある「世界で一番強い矛(ほこ)」で「世界で一番強い盾(たて)」をついたらどうなるかというたとえと同じく、まさしく「矛盾」した考えなのである。
 われわれが組織防衛闘争を行う場合にもこのような『戦争論』における観点が断固として貫かれていなければならない。

 われわれと日帝警備・公安警察との関係は文字通り非妥協的・非和解的な敵対関係である。彼らは隙あらばわれわれを弱体化し、根絶しようとする意志を、しかも持続的な意志をもって攻撃をしかけてくる。従ってわれわれが一定のマニュアルに沿って組織防衛闘争をやっていたとしても、時間の経過にしたがい、やがては彼らも又、これをいかにして粉砕できるかについてのマニュアルを作って対処してくることを当然の前提としなければならない。五・二七家宅捜索以来、必ず行なわれるようになった身体捜索強行はその顕著な例である。

 ゆえにわれわれが組織防衛マニュアルを固定化してしまい、永遠の「必勝原理」のごとく取り扱い、これを守っていさえすればよい、絶対大丈夫と思い込むことは極めて危険である。戦争に「必勝原理」がないのと同じように、どんな「マニュアル」もまた絶対的なものはないのである。敵の出方、攻撃の質に合わせて変わりうるものとしてマニュアルをとらえ、その上でマニュアルを決定し、遂行していってはじめてわれわれは組織防衛闘争をより高次化することができるのだ。

 そこでわれわれがもつべき観点とは、組織防衛上のマニュアルをあくまでも現実の権カとの攻防関係から実証的に明らかにし、最良の対処方法としてとらえたものを、遂行する立場に立ち切ること以外ではない。かかる観点は、クラウゼヴィツツが『戦争論』第二篇第四章で述べている「方法主義」という考え方と基本的に同一のものである。

 すなわちクラウゼヴィツツによれば、まず「方法」とは戦争において「若干の可能な手続きの中から、常に繰り返されるものとして選び出された手続き」のこととされている。従ってクラウゼヴィッツのいう「方法」とはわれわれにとってのマニュアルとほぼ同義のものと考えてよい。そしてクラウゼヴィツツはこの「方法」に沿って行動する「方法主義」の立場とは、「推論における一定の前提を根拠とするものではなくて、互いに重なり合う多くの事例の平均的確率に基づいて」おり、「平均的真実を確立する」ことに依拠しているというのである。

 つまりわれわれがマニュアル策定にあたって留意すべきことは、まさにここでクラウゼヴィツツがいっているように、狭い個人的な経験ではなく、又単なる推測や臆測にもよらずに、あくまでも、できるだけ多くの事例を基礎にし、その中から判断される最も有効なもの、最も確率の高い防御法としてのマニュアルを確立するようにしなければならないということだ。

 要するにマニュアルとは、それを決めること、細分化することそれ自体に何か意味があるわけではなく、決定し、遵守することによって敵の攻撃に有効に反撃することが、マニュアル化のもつ意義の核心なのである。だからその有効性を保持し続けるためにはこうした「方法主義」の立場、彼我の攻防についでの実証的な分析の立場による以外なく、個人的な思い込み、観念的な推論や臆測でもって判断したりしてはならないのである。

 われわれは、この間マニュアルの励行に努めてきたし、マニュアル遵守の度合いはかつてに比べれば飛躍的なものだといえるが、未だこのような実証的な立場に立ってマニュアルを検討する姿勢、最良のマニュアルを見い出す判断カといった点について弱さをもっている。そこから狭い個人的経験だけに頼り、「マニュアルを守っているから大丈夫」といった根拠のない楽観主義、マニュアル絶対主義も一部には濃厚に残存させているのである。

 戦争と同じく、組織防衛闘争においても、敵の出方は不定であり、得られる情報は不確定だし、情報そのものも得られない方が多い。それだからこそわれわれは所詮主観的原理でしかない「必勝原理」へとマニュアルをまつり上げることを排し、得られる限りの敵の弾圧の有様を知り、その中から最も有効な反撃の手段を求めるすべに熟達し、さらにその反撃の手段を繰り返し用いることによって、敵への反撃能カを高めていかなくてはならない。

 かかる最良のマニュアルを見い出せる判断カとそのマニュアルヘの熟達を行えば、われわれも又、クラウゼヴィツツがいうように「平均的真実でも、絶えず同じ仕方で適用されると、やがて機械的な熟練に類するものとなり、ついにはこの熟練が殆んど無意識に適用されても、常に正確にあたるほどになる」主体へと自らをおし上げることができるのだ。

 第二には、ゆえに決めたマニュアルは一切の個人的判断をまじえずに厳格に実行し、マニュアルがきちんと守られているかどうかだけでなく、本当に効果をあげているか、効果をあげるように遂行されているかを常に点検することが必要である。

 この場合のマニュアルが本当に効果あるものとして遂行されているかどうかの点検については、敵の攻撃を察知できているか、又は一旦敵の側に立って防御の方法が講じられているかどうかを最も重視しなくてはならない。組織防闘争においては、尾行、張り込み、盗聴など、敵が攻撃を仕かけていることを発見すれば、それだけで敵の意図の大半は粉砕される場合が数多い。このような場合には従って敵の攻撃、敵の存在を察知することが最大の課題となる。それ以外の場合、例えは、文書の秘匿といった、あらかじめ敵の攻撃への備えとして実行されねばならないマニュアルにおいても、常に敵の存在、敵はどのように攻撃してくるのかが念頭に置かれているかどうかが最大の点検事項である。

 往々にして陥りやすい誤りは、決めたときには敵の攻撃の実態などについて様々な事例を思い浮かべ考慮するのだが、繰り返しマニュアルを励行しているうちに、いつしか自己満足的なマニュアルの墨守になってしまうことだ。たえずマニュアルを決めたときの前提に立ち返り、敵の攻撃に対する反撃としての防御、敵の攻撃に対して最も有効なあらかじめの備えとしてマニュアルを遂行しているのかを何よりもまず点検しなくてはならない。その上でマニュアル自身の有効性を点検するようにしなければならないのである。

 第三に、最も有効で確実なマニュアルという場合、そこには、どんな敵の攻撃から、何を守るのかという問題、つまりマニュアルの政治目的が鮮明にならなくてはならず、敵の攻撃の変化ばかりでなく、政治目的によってもマニュアルの具体的内容は変更されるものと考えねばならない点である。

 例えばわれわれは「尾行は必ずまけ」ということを必須の課題としている。それはわれわれ一人ひとりが権カに自分の動静を察知されないためであると同時に、絶対に察知されてはならない行動をとっているものが誰なのかを敵権カに悟らせないという二重の政治目的をもっている。又公然闘争におけるカモフラージュ(注:マスク、帽子、サングラス等で顔を隠すこと)は権カに「面が割れて」いようがいまいが必ず励行することを旨としているが、それは公然闘争には右翼も敵対党派も、マスコミもいる、また私服でも素顔を知らない者もいる、その中で、できるだけ生の素顔を知る者を増やさないという目的が第一にある。又第二には、いつどのような時に権力との衝突が起きるかもしれないわけで、その時に顔をさらしていなければ、事後逮捕は困難になる(写真による特定が難しい)からである。

 このようにどんなマニュアルにも政治目的が存在するのであって、常にどんな敵の攻撃から何を守るためのマニュアルなのかが問題とされねばならないのである。その上でわれわれが公然・非公然の重層的展開をめざし、決して非公然一本やりで活動しているのでない以上、公然化してよいことと、あくまでも非公然にすべきものは政治目的を鮮明にして分類されていかねばならない。そうでなければ結局守るべきものも守れなくなるのだ。
 文書にしても秘匿すべきものとそうでないものは画然と区別しなくてはならないし、同一文書でも秘匿すべき時期とそうでない時期をもつ場合がある。事務所の秘匿にしてもそうだ。

 又、当面する政治攻防の中からも、マニュアルの政治目的は変えられ、マニュアル自体も変わる。これまでにもわれわれは、内ゲバ党派の攻撃からの防衛を主とする時期、権カ弾圧からの防衛を主とする時期、右翼の攻撃+権カの攻撃から自らを防衛する時期、それぞれにおいてマニュアルの重点を変えたり、マニュアルそのものを変えたりしてきた。
 つまり敵の動静、攻撃パターンが不定であることが、マニュアルが可変的であることの客観的要件であるとするなら、政治目的に沿ってマニュアルを決定するやり方は、マニュアルが可変的であることの主体的要件をなすのである。

 実際上はこの主客両面の要件を綜合的に判断するのであるが、マニュアルの決定については客観的状況だけでなく、主体的条件・主体的必要性に合わせることも又必要であるということを念頭におかねばならない。最も有効なマニュアルとは、客観的必要性からのみでなく主体的必要性からみても最も有効でなければならず、故に余りにも煩雑なものでなく、単純である方がより確率が高いという結論が、こうした政治目的の考慮の中から導き出されてくるわけである。
 以上が組織防衛のマニュアル化についての留意点である。

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