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秋期総反撃は3・27三里塚をめぐる攻防において中核派の内ゲバ恫喝にさらされ、まったく無防備・丸腰の状態にあったわが同盟が秋夏大攻勢の設定を通じ党の武装を強め、日帝国家権力に対する革命党の戦闘力、武装力が内ゲバ党派の存在に対してもそれを逆規定する関係に入りうることをつかみ切り、7・5ゲリラ・パルチザン戦闘を打ち抜き、7・31政治集会××××名の大衆動員を持って革命党としての政治的復活を図り、8・7パイプライン供用開始阻止闘争の戦略的領導において三里塚反対同盟熱田派の主力党派にのし上がる地平から開始された戦いである。
そこでは大きく言って中核派や第四インターに対する政治関係における戦略的防御の段階から対峙段階への移行が追及されたわけであり、三月大地共有化運動をめぐる政治的後退を盛り返し、昨年末11・14東富士闘争を打ち抜いた地平にまで党勢を復活させ、「連帯する会」系の動員的主力党派の位置から日本革命を担いうるボリシェヴィキ勢力の一翼にまでわが同盟を再度浮上させることが目指されたのである。
秋期総反撃の戦いは9・15三里塚闘争を皮切りに開始されたのであるが、当初的にはそうした我々の意識性は必ずしも実現されるというには至らなかった。
それは9・15三里塚闘争の設定にあたり、中核派の9・15粉砕・脱落派粉砕の呼号に対し、9・15闘争と三里塚反対同盟の防衛を掲げて決起を貫徹しぬこうとしたことによって、大衆運動上の課題を結果的には闘争防衛に限定させてしまい、戦略的××××名動員には失敗することからもたらされた。つまり大衆運動構築上の我々のオルグ内容は、中核派の内ゲバ恫喝に屈せず、闘争破壊から三里塚闘争と反対同盟を守れという内容に限定されてしまい、内ゲバに己を動員することを強要する形となり、運動上の課題性と広がりを作り上げることができなかったのである。9・15の××××名動員は、ゆえに82年11・14闘争××××名動員とほぼ同数の、党派的打ち固めに基づく結集であり、動員的にいえば成功したとは言えぬ闘いであった。
だが、われわれ戦旗・共産同と戦旗派革命勢力は革命運動のスターリン主義的歪曲の克服を掲げ、内ゲバ主義の内在的止揚を課題とし、安保-日韓闘争と日帝国家権力との正面切った対峙、全人民的政治闘争の戦略的領導を目的意識として伸張してきたのであるから、ここでの後退はいわばやむを得ないことともいえるのである。
それはわが同盟が革命勢力のセクト的打ち固めに未だ弱いということを必ずしも意味せず、9・15における闘いの正義性、大義性を戦略的に打ち出しきれない不充分性の結果として受け止めるべき性格のものである。
別の言い方をすれば、三里塚闘争の党派的ヘゲモニーをめぐり中核派と角突きあわせたところで、それ自体としては革命の展望は何も満たされるわけではないということは当為であり、中核派のように脱落派粉砕を掲げて大衆結集を図ろうとするほうが本質的に入って誤っているのである。わが同盟の9・15での発展の欠落は大局的にみて否定的ということにはならないのであり、革命運動の全人民的普遍性を10年間の対カクマル戦争を通じ歪め続けてきた中核派の矮小な9・15粉砕の方に問題の非は求められるということなのだ。
もっともそうはいっても、だからといって動員が停滞したままでいいということにはならないわけであり、70年代を通じ主力党派であった革共同両派により歪曲された日本プロレタリア革命運動の大義、人民の正義を取り戻す闘いを作り上げるべくわが同盟は11・6から9のレーガン来日阻止、中曽根ファシスト政権打倒闘争を設定しようとした。
つまりヨーロッパ反戦反核決起の大爆発、250万人民決起をひきつぎ、戦域核ミサイル極東配備に道をひらくレーガン来日、レーガン・中曽根会談を、安保-日韓体制打倒の戦略的総決起として戦い抜き、社共・総評の闘争放棄を乗り越えて進む日本人民の反帝・反侵略闘争を作り上げるべく、わが同盟は11・6から9の総決起を企図したのである。
11・6の大衆的××××名決起と11・9の六派共闘(戦旗・インター・プロ青・革労協労対派・赫旗・青共同)の領導により、そうした我々の政治的獲得目標は、ことごとく達成されたと言わねばならない。この連続闘争を担いぬくことにおいてわが同盟は、9・15三里塚闘争をめぐる組織化の失敗を克服しきり、なおかつ大衆的実力闘争と結合したゲリラ・パルチザン戦闘の戦略的正当性を実証しぬいたのである。
アメリカ帝国主義のグレナダ侵攻、中米ニカラグア・エルサルバドル革命への反革命介入、中東パレスチナ人民解放闘争の圧殺策動に抗議し、人民の大義を守り抜き、レーガン来日に痛打を浴びせたのは、この日本に地においては実際上11・6常盤橋戦闘以外にはなかったのであり、ここにおいて我々は再び日本革命のボリシェヴイキ勢力としての戦略的領導性をその掌中におさめたと言わねばならない。
たしかに中核派は関西においてゲリラ戦を展開はしたが、それは全くのアリバイ的な安全ゲリラの印象をぬぐえない性格のものであり、主観的にはともかく客観的には人民の共感をかちえた等とは決していえないものである。そこでむしろ突き出されたのは中核派の部隊温存主義、大衆的実力闘争からの召還の図式である。
もちろんわれわれとしても11・6常盤橋戦闘の実践をつうじ、当日共闘関係にあった日市連グループの一定の批判をあびるといったこともあったわけであるが、しかしながらプロレタリア日本革命を人民の大義にもとづき遂行しうるスターリン主義的歪曲を排した政治勢力としてのわが同盟の位置は、11・6を通じ完全に刻印されるに至ったのである。
12・18労学総決起集会は以上の政治的位置性の取戻しのうちに打ちぬかれたものであり、そこで確認されるべきことは、安保-日韓体制打倒潮流としてのわれわれにおける戦略的××××名動員の定着化とその発展の現実である。
つまり内ゲバ主義、他党派解体主義に実践上はおちこみ、セクト的なこり固まりが革命的なことなのだとボリシェヴィズムをはきちがえて理解している現在の中核派系列に対し、人民の革命への熱情、そこで体現すべき革命の正義性、人間解放の本質的あり方を対置する形で、この三月以降われわれは政治的実践を遂行してきたのであるが、その正しさが闘う日本人民に受け入れられ、三里塚闘争の分裂回避のためになした戦旗派の対処は革命的なものである、むしろ秋期総反撃の実現をつうじすべての負債は償還されたという了解として、十一・六から十二・一八での政治的結集と革命党としてのわが同盟の伸張、動員の定着化は生み出されたと理解されるべきである。
われわれの党建設の軌跡は、この秋の過程を闘い抜くことによって戦略的××××名動員を可能とする地平にまで復活し、78年開港阻止決戦で第四インターが獲得した政治的信頼と革命党としての威信をもつかみとるまでに伸張をとげるに至った。
総じて秋期総反撃の完遂においてわが同盟は、三里塚農民に対しても、三月三里塚攻防過程での政治的負債を償還しきり、独自の戦争の論理を駆使する革命党としての自立と主体性を獲得したのであり、日本革命を担うボリシエヴィキ勢力としての八四年階級闘争への戦略的踊り込みがめざされるべき位置に達したのである。
秋期総反撃のこうした政治過程上の敷衍にもとづき、そこで政治的組織的に獲得したものを抽出するならば、次のようなことがいえる。
すなわち第一には、7・5ゲリラ・パルチザン戦闘をひきつぐ11・6大衆的実力闘争の常盤橋戦闘をつうじての貫徹により、武装し闘う革命党への接近を、公然-非公然闘争の重層的展開の構造を明確化し、実践しぬく中で原基的に作りあげたということである。
7・5ゲリラ・パルチザン戦闘と11・6常盤橋戦闘という二つの戦闘形態の実践でわれわれが実現したものは、単なる大衆運動主義的なカンパ二アのみの大衆結集党派から、必要に応じいつでも日帝国家権力とわたりあうことができる本格的な武装革命党への前進であり、内的な意志統一の強化、党的構えの構築におけるサークルから党への脱皮である。つまり武装へむけての組織の主体的成熟度を高めあげたという点にこそ最大の意義はあるのである。
ここでわれわれが注目すべきことは、少数の決意を固めた先進的部分の代行的決起により実現が可能なゲリラ・パルチザン戦闘の実践より、大衆的実力闘争=11・6決起のような全人民的戦闘のほうがけるかに構築が困難だという問題である。
何故ならば、われわれが組織する末端のレベルにおいてまでの政治的・組織的・軍事的な質が問われるのが日帝国家力と公然とわたりあう大衆的実力闘争であり、ゲリラ・パルチザン戦闘はそれに比せば先端的部分の革命性、戦闘性に直接依拠しうるだけ、構築が容易といえるからである。ゲリラ・パルチザン戦闘の遂行にあたって求められるのは戦闘指導部の決意性と計画の綿密さであるが、大衆的実力闘争の計画的組織化にあってはもっと普遍的な意志統一と戦略的領導性が必要とされる。
この点でわが同盟は党が決意さえすれば遂行可能ともいえるゲリラ・パルチザン戦闘より、大衆的実力闘争の全人民的構築に困難性を求め、後者が前者を規定する関係性をしっかりとつかみとってきたのであり、11・6の爆発は7・5をしのぐ政治的性格を有するものであることがおさえられなけれげならない。
繰返して言うが、三月三里塚闘争をめぐる攻防において中核派の内ゲバどう喝にさらされたわれわれが対象化したことは、対抗的な内ケバ部隊、糾察隊のようなものをつくり、指導部が地下にもぐって対処することが政治的勝利の道ではなく、全く逆に、内ゲバ党派の客観的な存在に対し、日帝国家権力との攻防の力を高めあげ、権力弾圧に抗しぬく革命党としての本質的武装力を構築しぬくことが内ゲバ党派を逆規定しぬく関係性の創出なのだということであった。
いわばわれわれは革命党としての戦略的総路線の遂行が必ず内包する必然性として、「党の武装」をとらえかえし、アジト生活の徹底化、マジック、カモフラージュ、パトロールの実施、ウォッチの励行、戦闘武器の開発などをこの間なしてきたのである。
つまりわれわれは、全くの市民主義的な党的実存と意識性のまま丁度第四インターが七八年開港阻止決戦にむかったように、みずからにとって余りある急進主義的な戦術展開として武装決起を実現しても、結局それは誇るべき何の組織的蓄積にもならないエピソードの創出でしかないのだということを見すえ、それとは全く別個の地平にたつものとしての革命党の本質的在り方としての武装を追求し、武装闘争を生きぬく覚悟と決意、その意識性の主体内部での創出に心血を注いできたのである。
まさにそれは未来における全人民武装と武装民兵の創出に結節点を有するような蜂起・内戦への切り拓きの闘いとしての政治的・組織的・軍事的な武装の追求であった。そのためにもわれわれは戦術左翼主義におち込むことを厳にいましめ、あくまでも戦争を生きぬく主体性の構築に範を定めて武装を推進してきたわけである。そしてその成果が実り、党に結集する誰もが己を戦争に動員し武器をとり闘うことを決意した、その意識の内在的高まりがつくり出した成果として十一・六戦闘の勝利の意義はおさえられなければならない。
実情的にいえば、こうした内在的観点の創出において、われわれは地区党レベルではほぼ原基的な意志統一の完了をなし、学生レベルなどでは未だ末端まではその内容性を貫徹しきれぬ位置性にあるものといえる。つまり十一・六弾圧への被逮捕者の対決性などからいえば、地区は耐えたが一部をのぞき学生は崩れたわけであり、当然末端に至るまでの武装の完了などとはいいきれないのである。しかしながらわれわれ戦旗・共産同はこの十年間革命党としての骨格の形成を現揚労働者を中心とした地区党建設にそそぎ、それに比して学生戦線は八○年以降の着手にすぎないのであるから、地区党労働者の勝利を革命党としての骨格的勝利として対象化することは全く可能なのである。
こうした革命党としての武装の推進と十一・六戦闘遂行の意義をふまえ、それでは今後さらにわれわれが軍事を主体化するための内容把握上の整理を深めねばならない点は何か、それはカクマルや中核といった現下の内ゲバ党派の存存がそうであるような。みずからが反革命と規定したそれ自体普遍性を有しているとは、言い切れない内ゲバ相手への対抗を基軸とした考え方、日帝国家権力との攻防をネグレクトし、革命運動の戦略的領導を放棄したまま他党派解体のための武装を推進する軍事のもてあそびに対し、ブルジョア階級打倒のための人民の武装を強めていく思想を徹底して実践しぬく必要性である。
すなわちプロレタリア日本革命の戦略的領導の必然性において、蜂起・内戦を切り拓く革命党としての武装を強化する主動性=能動性を敵階級に対し持つという根本命題を完全に主体化する必要があるということである。
そもそもがわれわれにおいても、八三年になって中核派への対抗上急に武闘派宣言を発し、急進化してゲリラ・パルチザン戦闘にはしった等ということでは断じてないのである。しかるに革共同両派にあっては、武器の使用にあっても、テロリズムの駆使においても、敵権力に対しては行使しないものを内ゲバにおいては行使するという自滅的逆転を構造化させている。これに対しわが同盟の武装は闘うアジア人民に学び、安保-日韓体制打倒の闘いを韓国民衆の光州蜂起的聖戦と連動して形成するために構築してきたものであり、その位相を異ならせているものである。
党が人民の暴力を解放のためにとき放ち、戦争遂行の意志統一の下に革命党としての正義を体現しぬく、それが本質的な意味での革命党と革命勢力の武装である。ということは、敵階級の打倒後の階級の死滅、武器の止揚さえも目的意識性とした政治性に貫かれた人民の武装の推進の位置において、大衆的実力闘争と連動したゲリラ・パルチザン戦闘が遂行されるのでなくて、は広範な大衆的支持と共感にもとづき人民の海をおよぐ蜂起・内戦の道は絶対に切り拓かれないのであり、現在の中核派などはこの本質性を全くゆがめきっているのである。そのために革命的左翼は六〇年代後半に有したような全人民的支持の道を歩めず、わが同盟を除き低迷しつづけているといえるのだ。
従ってわれわれが対象化を深めていくべきことは、敵階級の打倒という人民の正義の駆使としての武装の推准と革命運動の大義の把握であり、この考え方を徹底して主体化することである。
人民内部の矛盾の処理にあっては、自己抑制的=防衛的であることが原則であり、内ゲバのための武装は歪曲された形態でしかなく、人民の解放の手段とはなりえないものなのだ。この歴然たる政治性をつかみとることによってのみわれわれは更なる人民の支持を得、共感をあつめることに成功できるのであり、それがわれわれの「独自の戦争の論理」の主軸をなす考え方であること、これを是非とも確認してもらいたい。
こうした毛沢東などが再三にわたり提起した革命党における根本問題をネグレクトし、全く主観的な心情としての対カクマル戦争の正義性に拘泥しつづけ、プロレタリア革命運動を矮小化させ、ひいては己自身の存在を次第に人民の敵対者におとしこめているのが、かつてはボリシェヴィキの位置にたっていた中核派なのであり、わが同盟はこの陥穽をのりこえ、勝利する革命党としての前進を切り拓いていきたい。これが秋期総反撃を打ちぬいたわれわれが対象化しぬくべき、第一の政治的組織的観点である。