八〇年代主流派の道 戦旗派84年前半期総括

投稿者:草加 耕助

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一、84年3・25三里塚攻防をめぐる政治過程とわが同盟の闘い

1984.3.25 三里塚現地闘争 1984.3.25 三里塚現地闘争 横堀現闘本部前
竹槍街道をデモする戦旗派

 八四年春期攻防をわが同盟は勝利的に完遂したといえるのであるが、実際には緊張しきった熾烈な攻防を余儀なくされた、苦闘の産物としてこの勝利があることを確認しなければならない。

 わが同盟は83年末の「北西風が党を鍛える」論文の提起において、83年12・11革共同集会で「脱落派・第四インターらの粉砕こそ二期決戦勝利のたたかい」なる主張が中核派により突如打ち上げられ『前進』1166号(83年12月26日付)をもって「日帝・公団の攻撃のテコとなり、先兵になりさがっと脱落派をいまこそ粉砕・一掃するために決起する」なる戦争宣言が発せられるに至ったことを取りあげた。またこれへの対処のうちに3・25が闘い抜かれる以外ないことを喚起し、全党の組織防衛力の強化を推進せんとした。

 しかるにこうした事態の進展に対しても、第四インターなどは自分達がそのターゲットにされているにもかかわらず組織武装に真剣に取組もうとせず、いわんや活動家のアジト生活体制の構築さえネグレクトし。「どうせアドバルーンだ」などという全くおめでたい把握により、中核派による調査の進行に自ら手を貸すだけの全くもってのサークル的対処を続けたのである。

 その結果必然的にもたらされたちのが、それ自体は全く許すことのできない理不尽きわまるものであるが、1・9、1・10における広島・大阪・首都圈での中核派による第四インター活動家へのテロル攻撃である。ことここに至ってはじめて第四インターは事態の重大さにおどろき、K&S(旧けやき印刷)や新時代社にバリケードを築くという遅れた対処を、あわてて取りはじめるに至ったのであるが、それ自体全く楽観的すぎる対処の顛末であることをわれわれは見ないわけにはいかない。

 このテロ攻撃の進展に対しわが同盟は、熱田派反対同盟の動員源であり、主力党派でもある戦旗派革命勢力にも、三・二五横堀集会粉砕の目的意識性のうちに、テロ攻撃が加えられる以外ないことを確認し、全党の防衛体制の強化、追尾の振りきり、パトロール、ウォッチ、集団出勤などの体制を、昨年来の闘いをひきつぎ早急に確立することに尽力した。

 そしてわが同盟の予測どおり三・二五闘争の直前になって、中核派は「日向派の裏切りが発覚」などというセンセーショナルな予告(『前進』1177号)にはじまり、同1178号での「一坪共有運動をひそかに日向派が推進していた事実をつかんだ」とかいう再度のテロ宣言、党派戦争宣言を発するに至ったのである。

 しかしわが同盟戦旗・共産同は、ともかくも政治的組織的防御を固めていた。それゆえ全党の防衛体制を強化し、党の武装を推進しつつ、ゲリラ・パルチザン戦闘に打って出ることにより日帝権力との闘いこそが二期決戦勝利の核心であることを全人民に訴えるわれわれの攻勢、つまり二・一三 空港内ゲリラ・パルチザン戦闘の炸裂と、三・二五『戦旗』「『前進』1178号論文に全面的に反論する」論文での、内ゲバを回避することを目的とした事実関係のわれわれの側からの暴露により、中核派は直接的なその時点での口実を喪失してしまい、なおかつ一年有余の展開にもとづくわが同盟の防御の固さが攻撃の困難性を生ぜしめたこととも相まって、結局テロ攻撃を結果的には封殺する形で、わが同盟は三・二五 三里塚横堀現地に××××名の動員を貫徹し、八三年似たような情況下における九・二五集会で××××名しか動員できなかったわが同盟の組織的弱さを克服することに成功したのである。

 この過程は実にシヴィアな、何なくやりすごした等とはとてもいえない、強い緊張感にさらされた重苦しさの連続する苦闘の過程であった。

 ウォッチ、パトロール、集団出勤、そしてオルグ、情宣などのつみあげは、それ自体物理的にも全党全軍がなりふり構わず寝食を忘れて闘うこを要求したのであり、われわれは一致団結し、戦旗派にしがみつくことによって漸く収めえた勝利であることが確認されねばならない。

 ここでわが同盟がなしてきた意志統一を想起するならば、

1)「この過程における中核派の内ゲバ攻撃に決して屈せず、革命党としての組織武装力を高めあげ、軍事行動に習熟する」

2)「将来の日帝との攻防においても絶対に必要となる革命戦争を生きぬく主体性、実行住を現に闘う中米人民、パレスチナ・アラブ人民に学びつつ己がものとする」

3)「戦旗派の戦略的総路線の下に結果し、あらゆる誹謗、中傷、孤立を恐れず団結を堅持し、党的背骨をうち鍛える」といったものであったが、それ以上に政治思想的にはわが同盟は以下のような政治的内容性をつき出し、党性を保持せんとした。

 すなわち第一には、現在の中核派はスターリン主義的に歪められたレーニン教条主義、システム化、機構化だけの党に成り下がっており、プロレタリア日本革命を戦略的に領導しぬく思想的内実を完全に喪失している。わけても闘うアジア人民に学ぶといった作風は何ら有しておらず、政治の展開において中国共産党がなした抗日統一戦線の提起などの大衆的広がり、全人民的領導性がまるでなく、全くの教条的セクト主義でしかない。

 これに対しわれわれ戦旗・共産同は、革命党建設においては民主的中央集権制を基軸に問題を把握するが、権力奪取後の『左翼小児病』執筆におけるレーニンの政治展開、ブレスト講和の締結の意義からドイツの「左翼」共産主義者のはねあがりを批判するレーニンの視点を学ぶことを問題としている。のみならず近代個人主義、合理主義とは別個の地平でアジアではじめて共産主義革命を勝利させた毛沢東の政治展開、作風、党風のつくリ方に学び、ロシア革命やドイツ革命を直接日本に持ち込もうとするのではない、アジアで勝利した革命との結接環を持った独自のプロレタリア革命の内実をつくりあげるべく闘っているのだという点である。

 第二には、ロシア社会民主労働党第五回大会に対するレーニンの弁論(全集十二巻P427~)に見られるような「単一の党の党員の間ではゆるしえないことも、分裂した党の双方のあいたではゆるされるし、また義務になる。党の同志たちのことを書く場合に意見の一致しない人々に対して憎しみや、嫌悪や、軽蔑等々を労働者大衆のなかに系統的にうえつけるような言葉で書いてはならない。脱落した組織について書く場合には、まさにこのような言葉で書くことができるし、またそう書かなければならない。どうしてそうしなければならないのか。なぜなら分裂は、大衆を脱落した者の指導から奪いかえすことを義務づけるからである」といった提起をはっきりと対象化しきり、あくまでも組織的防御において攻防にうち勝つことを追求しつつも、中核派やカクマルなどがそこでのレーニンの観点の歪曲した理解にもとづき、わが同盟や熱田派に対し非難を加えることを見抜き、これにまどわされずに勝利をつかみとっていくこと、言い換えれば文字通り他党派との解体・絶滅戦に勝利しぬける主体の構えを作りあげることを課題としたのである。

 いうまでもなく中核派の『前進』1178号での暴露なるものは、何の事実関係に基くものでもなく、ただわれわれの隊列に動揺と混乱を与え、またどう喝を加えることによって動員をそぎ落とすことをねらったものである。これにすっかりのせられてしまい、いいように内部分解や動揺を深めたのではとても彼らに対抗し、桔抗していくことなどできない。

 だが、他党派批判などはむしろひかえ、明確な政治目的をかかげて大衆動員の勝利を中心に党勢の復活をはかってきた73年アダチ分派以降のわが同盟にあっては、その意味では他党派に対する「革命的解体の思想」といったものは未だ根付いているとはいえず、早急にその克服が図られればならない位置にわれわれはあるのである。ゆえにわが同盟はここでのレーニンの提起をとりあげ、組織武装力の強化の一環としてこれを学ぶことを追求し、活動家のセクト性の向上を真剣におしはからんと尽力したのである。

 第三には戦争に勝利し、これを領導することができる革命党への飛躍のためには、機構化、システム化、また与えられた部署で全力を尽くせるアマチュアリズムを克服した主体の構築は焦眉の課題であることをおさえきり、左翼サークル主義を克服する党の体制を構築することに全党を喚起し、殉革精神を共同主観として定着させ、同時に組織活動のマニュアル化を総力をあげて推進したことである。

 戦争での敗退は相手に暴力的、ゲバルト的に打倒されて崩壊するのではなく、組織が内部から、敗退や挫折を契機に亀裂を深め団結を風化させることによって生み出されるのがほとんどすべてである。明大生協問題をめぐる解放派(狭間派)との党派闘争過程での赫旗の三分解、あるいは三・二六管制塔占拠戦以後の低迷に対し、管制塔被告の救対をめぐるN問題の発生と、それを対象化しきれない中央指導部(白川派)への九州地方委のつきあげ、そして藤吉グループとしての離党にみられたプロ青の場合など、いずれもこの例であり、その根拠は革命主体の死生観=組織観のうすっぺらさにその原因をおくものである。勝利を収めるのは党であり人民であって、断じて個人ではないことを、幾度分裂を経験しても依然として赫旗やプロ青は、組織思想として対象化しきるに至っていないのである。

 わが同盟戦旗・共産同はこうした轍を絶対に踏まず、戦旗派建設をエピソードに帰してしまっては絶対にならないのであり、ゆえにわが同盟は組織思想の確立に全力を注ぎ全党全軍の団結を保持することに全党の注意を喚起しぬいてきた。

 それらの内的苦闘の成果として結実したものが、二・一三空港内ゲリラ・パルチザン戦闘の炸裂および三・二五での××××名動員の勝利だったのであり、それはまさしくわれわれ戦旗派革命勢力の一年有余の苦節における内的成熟、主体的階級的発展の成果としてもたらされたものである。

 しかしながら戦争が武器をもってする政治の継続であることに熟知し、なおかつ政治をもってする政治の継続であることを対象化しきるには、全体としての熱田派支援勢力は余りにも政治性が乏しく無定形な集団なのであった。理不尽な内ゲバ攻撃をかけ、「全人民的に孤立した」はずの中核派が三・二五において第一公園に××××名も結集させたのに対して、熱田派全体でも横堀にはその3分の2弱の××××名程の人民結集しか克ち取ることができなかったのである。

 熱田派は昨年3・27集会の××××名、9・15の××××名、84年3・25では××××名という具合に闘争のたびごとに人民が離反し、動員が落ち続けるという惨状をさらけ出している。これは「空港よりも緑の大地を」に示される地域エコロジー運動路線、成田用水問題は地権者あずかりで個人の財産権の問題という戦略的方向性のあいまい性、一坪共有運動から二期決戦を展望していくといったような、総体としての熱田派反対同盟の小ブルジョア的傾向(=もちろん現場的には戦闘性もあり、あれやこれやの戦術行使についてはがんばりもするが、構造的基軸的には雑炊性が強く、戦略問題を不断にあいまい化してしまう傾向)がもたらした結果というべきであり、ことここにいたっては、動員的主力党派としてのわが同盟戦旗・共産同は自分たちの政治的見解をはっきりと提起し、熱田派反対同盟を左から支えきる位置に立つ必然性、別の言いかたをすれば信義だけに振り回されるのでない、よりレーニン主義的な路線的かかわりの強化が問われることになった。

 ゆえにわが同盟は、三・二五『戦旗』において「一坪運動を凍結してきた」という組織内確認を大衆的に明らかにするにとどまらず、さらに「一坪運動の早期集約」「二期阻止全国署名運動への発展」「中核派の内ゲバの即時停止」「二期阻止全国全人民共闘の形成」などを骨子とする『戦旗』四八八号(84年5月5日付)海原忍論文を発表するに至ったのである。「連帯する会」系列の枠組にいつまでも拘泥し、協調・妥協によって路線的方向を不断にあいまい化させることはもはや許されず、戦旗派革命勢力の主体的階級的成熟に見合った形で、熱田派反対同盟の没落を左からくい止めるべきことを自らの使命と課すことによって、わが同盟は党的見解を提示したのである。

 ここではっきりと確認しなければならないことは、わが同盟の四八八号海原論文の提起は、中核派の内ゲバ攻撃を回避し、テロをやめさせるためなどという消極的、技術的理由によってなされたものでは断じてないことである。

 熱田派反対同盟の総体としてのエコロジー化、とくに成田用水八月着工に対する取組みの欠落に対し「9・16青行文書批判」(=82年10・1声明)での、「成田用水は敵の分断攻撃への屈服にしかならない」というわが同盟の積極的見解を守リぬき、第四インターの二期逃亡路線を粉砕しぬいていくという目的意識性の下にこれは決然と提起されたことが押さえられねばならないのだ。

 第四インターは今、「一坪共有者を原告にした土地収用権限不存在確認訴訟の提訴」をあらたな熱田派反対同盟の方針にさせようと画策している。しかも成田用水八月着工に対してはその態度をうやむやなものにし、事実上、IE氏などの用水推進派=投降派に屈服する役割りしか果たしていない。わが同盟はこれに対し「成田用水粉砕、二期決戦勝利現地行動隊」(第九次~十次)を派遣し、熱田派反対同盟が用水問題に対し不十分な対応策しかとらないことを左から批判し、実践的な二期決戦必勝の足がかりをつくりあげるべく全力で闘いぬいているのである。

 まさしく、3・25 三里塚闘争をめぐる攻防の過程はわれわれ戦旗派を含めた全三里塚闘争勢力、わけても熱田派反対同盟をふるいにかけた。

 わが同盟の3・25『戦旗』、および四八八号海原論文に対し、「連帯する会」代表の上坂喜美氏などは、これを反前衛・反セクトのエコロジー運動を防衛する観点において批判し、「違法・非合理・不経済の二期工事を断念せよ」(「三里塚空港・二期工事問題をどう考え、どう闘うか」パンフ)などと今まで誰も言わなかった内容にまで落とし込めて、「連帯する会」運動の枠づけを図らんとしている。

 だがもはや、わが同盟はこんな内容に振り回され、これを守るために闘う必要など全くないことを確認しなければならない。

 中核派の独断的セクト主義の陥穽を批判することを口実に「農地死守、空港廃港、実力闘争」の旗をかかげて闘いぬかれてきた18年間の不屈の三里塚闘争の戦闘性、歴史性、日帝権力との非和解性を換骨奪胎し、上坂氏や第四インターの思い描く市民運動、生活共同体闘争に衣がえさせていこうとする策謀を見過ごすことは、まさにわれわれの戦闘的レーニン主義者としての路線的後退を意味するだけである。ゆえにわが同盟はこうした傾向に対しては臆せず、屈せず、断固として節を曲げずに闘いぬく革命性を発揮しなければならない。

 3・25攻防にわれわれが基本的な勝利を収めることができたのは、苦しく困難な闘いではあるが党の武装を推進し、日帝権力との正面きった攻防の道を追求し、78年3・26管制塔占拠戦の意義を守りぬくことをわれわれが己れに課してきたからなのであってその逆なのではない。

 いまや孤立を恐れず、単独決起も辞さない覚悟を固めて熱田派反対同盟に左のインパクトを与え、エコロジー化をくい止めること、そのためには「連帯する会」からの脱退も辞さず独自の道を歩むこと、これがわれわれに残された道であることを、三・二五勝利の地平としてガッチリと把握しておこうではないか。

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