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三里塚闘争

「小説三里塚」第三章 闘争(後半)

戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる

第23話 台風一過(2)

 「戸田さん、お茶が入ったよ」
 部厚な茅ぷきの屋根のある母屋の前には、綺麗に苅り込まれた風よけの樫の木が数本、廊下に並んで植え込まれていた。これは富里のどこの農家にも見られる風情だった。樫の木は風よけばかりか、夏の陽よけにもなった。戸田はその廊下に腰かけて、彼の女房の入れてくれたお茶をすすった。

 お茶はことのほか、うまかった。菅沼の祖父は埼玉の出身で、明治の初期に富里に移住してきた。その祖父の植えた畑のお茶で、一年分の茶が飲めて、その他は製茶屋に葉を売るということだった。

 菅沼の入口の前に立っている「空港反対」の幟旗が、空にへんぽんと翻って、バタバタと鳴る音が聞こえてきた。部屋の中には「農地死守、金は一時、土地は末代」と書いたステッカーが、数枚貼ってあるのが見えた。

「菅沼さん、今思い出しても壮観なのは去年の耕運機デモでしたね。今私は奥さんを乗せたあんたの運転する耕運機を見て、あの時を思い出したんだ」
「ああ、あれは抗議に行って県庁の玄関の大ガラスを割って青行隊の三人が逮捕された――あの翌日でしたね」
「むしろ旗を立てた耕運機が三百台も、千葉市内を長蛇の列を作って……」
「それが、耕運機でしょう。なんせ一〇キロぐらいしかスピードが出ないんだから、アハ……」
 菅沼の屈託ない笑いが、一際辺りに響いて静けさを破った。

「あれには千葉の交通巡査も手を上げたらしい」
「こっちはちゃんと富里から県庁まで、デモの許可をとってあるんだから、堂々と……」
「たしかにあれは独創的だ、宣伝効果も一〇〇パーセントだったな」
「第一、千葉市内の交通がまるっきり麻痺しちゃったんだからな……」という菅沼が急に表情を変え、声を一段と落として話し始めた。
「戸田さん、その富里も一たん空港が逃げたとなると、もう駄目なもんですね」
 といって、彼は戸田の眼を鋭く覗き込んだ。そして、またも続けた。

「空港反対もまるで火が消えたようですよ。二年半の空白を取り返せとばかりに、また、元の黙阿弥に還っちゃうんだからいやになっちゃう。だから指導者面していつもきていた社共の代議士先生にいってやったんだよ、お前らは胸に光るバッジをつけて、でっけえ顔していつも先生面で喋っていたって、一体、農民に何を指導したんだとね。奴等は俺にさえ何もいうことができねえんだから……」
 菅沼はやや興奮して、一気に喋りまくった。彼は満面、紅潮していた。

「彼等はやはり票田稼ぎだ。人気取りに過きなかったのか」
 戸田は菅沼の言葉に、痛く示唆されるものがあった。
「いま、想うと富里はまだ闘争にはなっていなかったんじゃないでしょうか。買収員の切り崩しもまだ入ってもこなかったし、陳情やデモで終ってしまった感じですね。戸田さん」
「いやそれにしても富里は大きな遺産と教訓を残してくれましたね」
「そうかね。昨日も野沢さんがいってたが、これがもう少し長引いたら、富里だってどうなったかわかりませんよ、戸田さん」
「やはり三里塚の農民が川向こうの火事を見るような気持で富里を眺めたと同じで、空港も一度、過ぎれば、やっぱり同じことになるのかな」

「そういえば戸田さんがクリスチャンとして不当逮捕の抗議文を出したあの頃は随分、運動も盛り上がっていましたね」
「夜の集会なども熱気溢れていましたね」
「丁度、戸田さんが夜、役場の公民館の集会で県警本部に対する抗議文を読んだ、あの頃が一番素晴らしかったな」
「やはり、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、人間の弱点ですね」
 豚舎から豚のキーキー喘く声が聞こえてきた。菅沼は豚が腹を減らしたのだといった。午後の餌付けの時間がきたのである。

 戸田は時間を見計らって、菅沼の家を辞した。
 県道に突き当たって左に折れて少し行くと、道を狭んで両側に、役場と富里中学校が建っていた。空港反対も晩期の頃だった。その中学校の体育館で、反対同盟主催の「空港粉砕総決起集会」が開かれた。社会党からは成田知巳や佐々木更三らが、東京からやってきた。
 「防共挺身隊」と書いた右翼の宣伝カーが、車に結えつけた旭日旗を風に靡かせ、軍艦マーチを掻き鳴らしながらやってきた。地元の派出所の巡査が、体育館の前の県道端に立って、右翼の自動車を眺めていた。

 体育館は富里農民でいっぱいで、熱気溢れていた。
 胸に光るバッジを着けた代議士先生が、安保問題やブルー14や軍事空港の話をした。代議士先生の話になると、農民も神妙になって傾聴した。
 体育館入口前には食物や飲料水を売る屋台店が出た。まるで秋日和の運動会のような賑やかさだった。
 その一ヵ月後に空港は、嵐のように過ぎて三里塚に去っていったのである。
 戸田は自動車を走らせながら、体育館をチラと横目で見た。入口の電柱に貼りついている「農地死守」のビラが一枚、彼の眼に飛び込んできた。

 彼はなおも車を走らせて七栄十字路から新木戸の方向に進んだ。道端の麦畑の中には赤くペンキで塗られたドラム罐とその衝棒が櫓の上に吊り下げられ、どこかの寺にある鐘衝場を思い出させた。
 そのすぐ傍には竹竿に掲げられた幟旗が立っていた。風にはためく旗の音が、遠くまで聞こえてきた。耕運機を操縦して行き交う農民の顔も、どことなくのんびりとしていて、今の戸田の気持にそぐわないものを感じた。たしかに緊張感はなくなっていた。
 だが、路傍に見る幟旗、ステッカー、ドラム罐など、みんな戸田の記憶にあるもので、空港が去った今でも健在でいるのを見て、彼は励ましを覚えるのだった。

 もし、怪しい者が部落のどこかに入ったら、誰でも見つけ次第いち早く連打するために建てられたものが警鐘のドラム罐だ。その警鐘は富里村内から八街の辻々、畑の中にも、無数に見られた。――だが、それらはついに一度も鳴ることなく、闘いは終りを告げてしまった。富里では、県庁や空港公団の暗躍と買収切り崩しが、村内に出没するまでにはならなかったのである。

 富里の切り崩しは、空港反対の終ったところから始まったのだ。政府公団の巧妙なしかも老獪な策謀は、農民にとって計り知れないものであった。それとは知らずにいる間に、すでに違った面からの切り崩しが始まっていたのだ。空港は三里塚に移ったものの、三里塚から追放する農民たちの代替地として、公団は富里にその土地を狙った。その手は着々と回っていたのである。
 「嵐は過ぎ去った」と胸を撫で下ろしたのも束の間で、眼に見えない陥穽が富里農民に用意されていたのだ。

 最近、富里村内で持ち上がった話題――三里塚に空港がくれば関連事業の誘致で地価の暴騰、人口の増加につれて、村の税収入の倍増で、空港の成田よりも関連事業施設の富里だというふれ込みだった。
 根木名の秋田秀一が、富里新村長になった。秋田は、開発遅れの富里を発展させるにはこのチャンスを逃してはまたとない。あらゆる面で国策に協力するのが村政であり、また地域開発であると考えた。富里開拓部落の葉山や両国、七栄にかけて、この頃しきりと見知らぬ男が現われ、農家を訪ねては畑や山林などを測量して歩くのが見られた。

 やがてどこからともなく、不動産屋や潜りの土地ブロー力ーまでが暗躍して、土地買い占めが行なわれ、村内の土地がいつとは知らずに、虫食い状態に荒されていた。
 新建材の大きな新築家屋がいつの間にか立ち並んだかと思うと、いずれも土地を売った金で建てた農民の住宅だった。中には得体の知れない土地周旋屋に騙されて、斡旋料を詐取されるという者もいた。また、空港関連事業の進出を当て込み、土地値上りに一攫千金を夢みる者もいた。
 これが一種の幻覚のようになって、農民の中に蔓延していく様は、あたかも伝染病の感染を見るようだった。

 幟旗は次第に風雨に曝され、千切れていった。ドラム罐や幟旗が横倒れになっても、誰も見向きもしなくなった。いつとはなしに一つ二つと、それが姿を消していく。――畑を塞ぎ作業にも邪魔になるからだった。いや、それよりも空港が去った以上、それはすでに無用の長物だと思ったからであろう。
 耕運機のエンジンの音が快調に響き、畑にはのどかに耕す農民の姿が見えて、何事もなかったかのようだ。ここにみる世相は明らかに、三里塚と富里の逆転を示すもののようであった。

 富里村の豹変振りに、戸田の心は閉ざされ、暗くなった。あんなに熱気溢れ、空港反対に熱中していた農民は、今はどこにいったのだろうか。空港が一度、富里を去って三里塚に行けばもはやそれは他人事で、無関係とでもいうのだろうか。
 否、無関係どころかむしろ三里塚に空港が行ったことによって、富里農民にはいっそう繁栄がもたらされると思っているのかもしれなかった。

補足 「ブルー14」とは?

 航空管制でいう航空路の一つで、首都圏から新潟に抜ける日本列島の中央部を横断する空域。戦後は一貫して米軍の管制下にあるため、原則として日本の飛行機はこの空域を飛行できない。しかしそれでは日本側にとってあまりにも不便なため、米軍はその空域の一部にトンネル状の空路を指定して日本側の飛行を認めている。つまり日本は戦後一貫して列島中枢の制空権を米軍に握られていることになる。羽田空港はこのブルー14を背にしている。

 また、当時はベトナム戦争に向かう米軍機が過密であったこともあり、成田空港とブルー14空域との関係性や、成田の軍事空港としての側面を指摘する声が多かった。実際、計画当事にベトナム侵略戦争への協力と安保条約がなければ、政府部内で「羽田にかわる新空港」構想が、少なくともこんなに拙速には持ち上がらなかったであろう。このような事情から空港建設阻止闘争は当初から「三里塚軍事空港反対」のスローガンを掲げる反戦・反安保・反侵略闘争として闘われていくことになる。

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