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三里塚闘争

「小説三里塚」第三章 闘争(後半)

戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる

第25話 「ヤソ」の戸田

 富里村両国のすぐ近くに、葉山開拓部落があった。やはり、戦後、三里塚の御料牧場の解放でできたもので、武治の木の根部落と同じ頃の入植だった。戦前、満蒙開拓団として渡満した人たちが敗戦で引揚げ、葉山開拓部落を作った。部落は六〇戸余りだった。

 東京神学大学教授のフランクリンは当初、その開拓部落の一隅に、アメリカからもってきたトレーラーバスを据え付けて、夫人とその中に佗び住まいしていた。彼はバスの中にベッドと台所を作り、長身を二つに折って眠った。日曜日ごとに彼の教える神学生が五、六人やってきて、彼の伝道を助けていた。今の富里教会の牧師、佐藤一雄もその一人だった。

 クリスマスにはフランクリンがアメリカのララ救援物資を入植者らにプレゼントした。部落の殆どの人が、群をなして集まった。フランクリンの聖書の話よりも、プレゼントを貰う方が嬉しかったらしい。物で釣る伝道ということでもあるまいが、その頃は何一つない不自由な時だから、子供たちはチョコレート一つ、主婦たちは石鹸一つ貰うことにも、無上の魅力を覚えたに違いない。
 当時、部落民は襤褸を纏い、すぐ近くの根木名新田や近隣に物乞いのように食料漁りに行っていた。
 その頃だった。クリスマスには部落民が、石井満開拓組合長はじめ挙って集団洗礼を受けた。フランクリンの喜びは、並大抵でなかった。

 やがて、フランクリンは東京に帰り、佐藤一雄がその後を任されることになった。その後、佐藤は葉山開拓を去り、フランクリンの援助で、富里村両国に教会を建てた。
 間もなく空港問題が起き、富里の農家は右往左往して混乱した。
 そのときである。戸田が弟の義弘らと、富里の空港反対運動に参加したのは……。戸田は早速千葉県下の教会やその他に檄を発し、空港反対の署名を求めた。千葉県内には日本キリスト教団所属の教会だけでも三一あったが、佐倉教会の石川きく牧師を除いて殆ど全部が梨の飛礫(つぶて)だった。
 中でも戸田が唖然としたものは、富里教会の佐藤一雄だった。彼は戸田の檄と署名文の封筒を開封もせずして、そのまま返送してきたのである。

 一九六六年の一月三日、佐倉教会で、北総地区の九つの教会の牧師、信徒が集まって、新年合同礼拝があった。それが終って親睦会になった。その席上、戸田はいった。
「今、富里に作られようとしている空港は、農民にとって死活問題です。農民が生産の基盤である農地を無法にも国家権カによって奪われる――これは教会の問題でもあると思います。連日、農民は陳情に抗議にと動いています。教会はただこれを黙視していていいでしょうか」

 戸田の発言に対して集まった五〇人近くの牧師と信徒は誰一人パクリとも口を開こうとしなかった。暫く沈黙が続いた後で、富里教会の牧師佐藤一雄が物柔らかな口調でいい出した。
「それは今日この場ではなく、各個教会の役員会で慎重に判断すべきでしょう。特にこれは政治問題であって、カソリックの政治介入によるかつての弊害などをかえりみて、よく検討すべきでしょう」
 何か発言しようとする気配の者もあったが、その言葉で抑えられてしまった形になった。
 佐藤の富里教会は空港反対運動の、真只中にあった。佐藤はこれに対して、二年半、全く沈黙を守り続けてきた。彼は牧師として中立的立場をとるというよりも、敢えてこれを避けて過ぎようとする態度だった。

 一方、葉山開拓部落では模範的なコミューンを形成し、その頃、周辺の開拓部落の注目の的となっていた。土地、労カ、経済までも半ば共有化し、脱落者を防ぐという共同体組織をもっていた。彼等は満蒙開拓団として敗戦後、ソ連に抑留され辛酸を嘗め、死の苦しみを通して日本に辿り着いたという一団だから、他に比してどこよりも同志愛が強かった。その関係か、どこにも見られない共同体を形成するに至ったのであろう。
 フランクリンはキリスト教社会倫理を説く神学者だから、こうした葉山開拓の農民の生き方に、魅カを感じて入ってきたと思う。

 一九六三年六月四目、池田内閣は新空港建設案を立てると、その予定地に富里が挙げられた。その年の九月二三日には早くも富里に八街を加えて「空港反対同盟」が結成され、その会長に八街町住野の野沢清一が会長に選ばれた。反対運動は町村ぐるみとなり、七月一八日には八街町を中心として反対の血判署名運動が起こった。それが一日に四〇〇名も集められた。そして、千葉県庁に抗議、陳情のデモが、毎日のように続いた。それにつれて富里村、八街町、芝山町の各議会は空港反対の決議をした。
 一九六六年一月九日には、富里中学校の体育館で、二〇〇〇名を集めて総決起集会を開くまでになった。そしてその年の六月二二日、富里から三里塚に忽然として空港が飛火したのだ。

 この直後から富里村内に対する農地買収の手が、密かに延ばされていた。開拓部落として成功したと見られた葉山開拓が、まず崩れ始めた。ついに六〇世帯のうち五世帯を残して、農地を手放してしまった。これは「県」の買収によるもので、空港敷地から追い出されていく、三里塚農民の代替地のためのものだった。この手はますます延びて、悪質不動産屋の跳梁する場となった。佐藤の富里教会の周辺などは、挙って代替地の草苅場となった。

 戸田はよく富里方面にいく。その都度、村内の地形が一変し、新築家屋が立ち並ぶのを見た。農地は弊履(へいり)のように、手放されていった。農地を手放した農民たちはとみれば、出稼ぎに、あるいは転業者となって離散していった。その離農者に対する補償金が、三里塚の空港敷地内で反当り一四〇万なのに、代替地では反当り六〇万という安値である。目と鼻のところで、反当り八〇万も違うのだ。県はそれを造成したからといって、反当り九〇万以上で売り飛ばしている。これをみても県や公団は、悪徳不動産業者よりもなお悪質だということがわかるであろう。

 ある日のこと、吉川総一が戸田に「私はこの間、佐藤牧師にいってやりましたよ。あんたの農村開拓伝道は、富里農民の土地売却の奨励ですか、と……。それに対して彼はパクリともいわなかった」と、いうのだった。
 吉川はその頃、富里教会の役員をしていた。何かその後きくと、吉川はプッツリ教会に出なくなったという。たしかに佐藤の言動からみて、吉川の提言は当たっている。彼の思惑は代替地に人家が増えて都市化すれば、彼の経営する教会や保育園が、商売繁昌するかのようだ。彼の言動はたしかに空港公団や不動産業者の後盾となって、それを支える援護となっている。だから吉川に面と向かってそういわれても、ぐうもすうも出なかったのは当然であろう。

 一方、三里塚教会はとみれば、裏通りに面し、戸田の家の後側に当たっていた。反対同盟が集会をやる第二公園からは、その教会堂の十字架がよく見えた。四〇〇〇メーター滑走路の側面で、もし飛行機が飛んだら一二〇ホーンの騒音下だ。三里塚の町全体が、猫の子一匹住めないところになるのだ。すでに教会の近くの三里塚小学校は、公団の手で第一級の防音校舎に建てかえられた。

 三里塚教会の牧師には鶴川農村伝道神学校を出た川野征行がいた。彼も富里の佐藤同様で、三里塚闘争の真只中にありながら、これに触れようともしなかった。そんな経緯で戸田とは意見が合わず、ついに戸田は教会を去るに至った。川野は公団からの補償で、他に幼稚園の園舎を建てようとしている。佐藤も川野も、ともに反動だった。

 戸田は三代目のキリスト者だった。彼を育んだものは良かれ悪しかれ、キリスト教とその教会である。もとより三里塚教会は古い由来をもつもので、その創立は明治一八年、アメリカのメソジスト教会の宣教師ジュリアス・ソーバルや小方仙之助らの開拓伝道の結果だった。戸田自身、三里塚教会の役員、教会学校の教師を長い間奉仕してきた。

 ところが空港問題で農民闘争にかかわりを持つ中で、キリスト教の体質に大きな欠陥のあることに気づいた。むしろその欠陥とは教会というよりも教会の牧師にあることを知った。いくつかの地元教会を見ても、その教会の牧師たちが、富里や三里塚の農業・農民問題に無知であるばかりか、三里塚闘争に対する反動であり、阻害者であることを知らされた。だから教会そのものが、自分だけの信仰エゴで凝り固まり、教会の周囲で何が起きようが、寄らず触らずの教会形成となって現われたのである。

 これを知った戸田は幾度かこのことについて牧師たちと話し合ったが、彼等は戸田の盲動は非教会的であるといって非難した。だが三里塚闘争の中で読む聖書は、かつてなく戸田を励まし、彼にとって革命的なエネルギーの源泉となった。そこでもう一度新しくキリストの息吹きに触れた。そしてナザレの大工、イエス・キリストの流した十字架の血潮の何であるかを、改めて知らされたのである。

補足 「ララ救援物資」とは?

 アメリカの日系人が設立したLARA(アジア救援公認団体)が提供・寄付した日本向けの援助物資のこと。当時は輸送に長期間を要したため、脱脂粉乳など長期保存が可能なものに限られた。
 しかしGHQはこれが日系人からの寄付であることを秘匿し、単に「アメリカからの救援物資」と宣伝して日本人に配付した。今でも「当時、アメリカから日本の子供たちに粉ミルクなどが配給がされた」などと記憶している人も多い。確かにそれは「嘘」ではないが……。

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