戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
傍には櫓(やぐら)が建ち、武治の書いた、天を衝くような幟旗が空に翻っていた。毎日、交替で部落の者がかわるがわる日直当番に当たっていた。
今日は武治の日直だった。彼の家と団結小屋は目と鼻のところで、歩いてものの五分とかからなかった。武治の例の几帳面な性格もあって、彼は朝飯をすますとそれを噛みかみ、団結小屋にやってきた。窓辺の机で一心に、立木売買契約の名札書をしていた。彼は五〇〇〇本の立木に、名札を取り付けるのが念願だった。それもブリキ鉄板に白ラッカーを塗り、その上に黒ラッカーで書いていくのだから、大変な仕事だった。
彼は「農地死守」の目的を遂げんとする情熱と執念で、それらの労苦はものの数でもないかのように見えた。
ガラガラと玄関のガラス戸が開いた。彼は知ってか知らずか、振り向こうともしない。
「木川さん、ご苦労さま」
という声に初めてかえりみると、小野三郎が立っていた。小野は短いチョビ髭を口に蓄え、色艶もよく、六五という歳には見えず、若かった。
「木川さん、どうですか。この頃の動きは……」
「別にこれといって目立つ動きは……、今のところ……」
「それにこうやって毎日、見番をしていては、奴らだって、入れないだろう」
「先生ちょっと櫓に上って見て下さいよ。一望千里ですよ」
武治は立ち上ると、外に出た。櫓の下まで行って、上を見上げた。小野もそうした。すると向こうから棟領の高橋が、小脇に大工道具を抱えてこちらへ歩いてくるのが見えた。小野を発見した高橋は、今富里方面でしきりに代替地の買収がやられていることを報告した。小野の面に、暗いかげりが走った。
いつの間にか高橋の姿が見えないと思ったら、もう団結小屋の中で釘を打ちつける音が、バタバタと聞こえてきた。
「小野先生、この間、わしは茨城県の百里基地へ行ってきたんですが、あの一坪登記運動を是非やってみたいんですが……」
「うん、あれは効果覿面で、いまだに買収ができず、誘導路が迂回してる……」
「一坪登記ってあんなにカのあるものかと、驚きました。是非ともあれをここでやってみたいですね!」
「そりゃ、やればいいですよ」
「それともう一つ、敷地内にある約五、六〇〇〇本の立木の売買契約を実現したいんです」
と、武治は周辺ぐるりと指さした。
「それは面白い」
「社会党ではどのぐらい、買ってくれますかね」
「そりゃ全カを挙げて協カしますよ。木川さん」
「先生、その前に一坪登記だけは敵の攻撃前に何とかやりたいと思いますので、手続きの方法を調べてくれませんか」
小野は頷くと、待たしてあった車に乗って帰っていった。
それから一週間目に、役員会が木の根団結小屋で開かれた。その夜の議題は、武治が提案した一坪登記と立木売買契約の実施についてであった。小野三郎も弁護士の山本信夫も来た。この提案の主旨が全員に徹底されず、議事の進行は難行した。
山本弁護士はこれに説明を加えた。
「つまり、わかり易くいうと個人の権利だけよりも大勢の共有地となれば、それだけ収用手続が困難になるというのが一坪登記の狙いです。立木売買契約も同じで、たとえば最悪の場合、土地は売られても、立木は地権者以外の人が買って契約を結んでおると、すぐに伐ったり掘ったりできないという理屈ですよ」
「合法闘争だなー」と、誰かが後の方でいった。
しかし、この場合、たとえ、一坪といっても見ず知らずの他人の名義に自分の財産を書き変えるのだから、一抹の不安感がないでもなかった。
「事件が解決すれば、この契約は白紙還元するという但し書きがありますから、そのまま他人の所有権に移行するという心配は絶対にないのです」と、山本弁護士はつけ加えた。それでも、自分の屋敷内の立木や、畑の一部を他人に売り渡すのだから、いくら合法的手段といっても、農民にとっては全く新しい試みで、不安のあるのは当然だった。議事は紛糾した。
その時、岩山の岩沢吉雄が、すっくと立ち上がった。
「みなさん。これは百里基地でも事実効果を挙げている。これくらいのことができなくてどうしますか。それで空港阻止の闘いがどうしてできるか。これができなくてぐずぐずしているような同盟なら、もう負けだよ。それに木川武治君はこれをどうしてもやり遂げるんだと、意気込んでいる。私は何としても木川君の意志を遂げさせたい。同盟としてもこれが実現なくして、どうして空港阻止の闘いがあろうか」
岩沢は一段と声を高め、熱気を帯びて叫んだ。これがきっかけとなってか、一坪登記、立木売買契約の実施を同盟が率先して実現し、これを全国化運動にまで盛り上げることを、満場一致で議決した。
木内健、富野剛らが一坪登記で、立木売買が木川武治、岩沢吉雄らの担当となった。そして、社共や共闘する労働組合を通じ、全国に向かって一斉に契約書が配布された。その結果、両種合わせて申し込みの契約書は九〇〇〇通以上に上った。
登記の変更手続は、成田登記所に何度も足を運ばなければならない面倒な仕事だった。これを何百筆も作るのだから、事務的にも大変な仕事だった。立木売買は契約書を取りかわした人の名を書いて、その札を一本一本立木に結えつけていくのだから、これもまた人並ならぬ忍耐のいる仕事だった。ごれが軌道に乗り出すと、武治は団結小屋に籠りきりになった。
折よく農閑期だったので武治は、団結小屋で名簿帳首っぴきでせっせと契約者の名を書き続けていった。
同盟の中でも武治は筆が立つので、字を書くことを、自ら進んで引き受けた。
岩沢吉雄と協カして、次々と敷地内の立木に結えつけて回った。
ついに彼は三五〇〇本の立木に、名札を結えつけることに成功した。彼の書いた名札が夜目にも白く、暗い木立の陰に道しるべのように点々と連った。
木の根、古込、天浪、東峰、天神峰と敷地内至るところの木立が、彼の書いた名札で掩い尽された。
地味な彼の仕事を、あまり高く評価する者とてなかったが、彼は黙々として精魂の限りを尽した。日中いっぱい、団結小屋で書き続けてもなお足らず、家にまで名札板を抱え込んでいって、夜ふけまでも書き続けた。
一見、彼の姿には何かに憑かれたような異様なものが見えた。
彼は性格的に几帳面で自分のいったことには、責任を人一倍強く覚える男だった。その上反骨精神が旺盛だったから、絶えずその熱意を燃やしめたのであろう。
彼は長年軍隊で鍛え上げられたせいか、日常生活にもそれがよく反映して現われた。たとえば戸田の家で集会のあった場合など、必ず残ってあと片着けしていくのは、きまって、武治だった。
彼は集会などの挨拶で「千島は奪られ、樺太は失ない、朝鮮・台湾も奪られ、日本の国土は……」と、よく絶句した。
敗戦によって日本の国土が敵国に奪われたかとみれば、今度は農民の農地が日本の政府の手によって奪われるという二つの矛盾が、重なり合って彼の心に憤りの炎を燃やし続けていたのだ。
武治が空港に反対する端緒となった最大の要因は、生来の農民の持つ土着の思想からくるものだった。ごれが現在の彼を支える唯一の生命カだった。だから彼に寝食を忘れさせ、闘いに没頭させたのであろう。