戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
「これ見たら父ちゃん、平和塔どころの騒ぎじゃああんめえよ」
「……」
「もういい加減にして、反対同盟からも身を引いてもらいてえよ、おらあよ……」
武治は説子に責められて、ますますしょげるばかりだった。
「坊主に騙されてよ、毎日毎日……」
「説子、いい加減にしろっ。向こうで聞いてるじゃねえか」
武治の言葉に説子が後をふり向くと、隣りの竜崎夫婦が里芋畑に立って、こちらの様子をそれとなく窺っていた。――が、説子のふり向いた途端、眼を外らしてしゃがんだ。武治は説子に責められるまでもなく、自分の責任を感じ、内心一人で悩んでいたが、どうすることもできなかった。つまり、平和塔との板挾みから抜けきれずにいたのだった。
まだいくらかましだと思われる里芋畑の草むしりに、今日は朝から二人で精を出していた。生い茂りはびこった雑草を丁寧に抜きとると、その間から里芋の葉と茎が現われてきた。雑草は獰猛な繁殖力をもって、作物の根をがんじがらめに締めつけていた。作物はその中に、小さくなって蹲っていた。作物は日光を遮られ、雑草に抑えつけられ、身動きもできない状態でいた。作物はみんな発育不全で、痩せ細って憐れに見えた。それでも雑草を取り除いてやると、その瞬間、日光の直射を浴ぴた作物は、こ躍りして喜ぶかのように、大空に向かって背伸びした。
「すまねえな!」
武治は呟くようにいうと、里芋の葉を一枚一枚丁寧に撫でて、謝罪するように頷いた。武治にとっては説子に対してよりも、作物に対する自分の怠慢が、悔まれてならなかった。
説子は「坊主に騙されて……」というが、自分は自分の所信にそって実行したまでのことであって、決して東藤に踊らされたものでも何でもないと思った。
あの四〇〇〇メーターのど真中に巨大な平和塔が空高く聳え立てば、飛行機は絶対に飛べないのだ。その拠点を建設するのだ。それがなぜ悪い。そのためには反対同盟副委員長として、あらゆる犠牲をも厭ってはならないのだ。今の自分の行為は、なすべき最大の責務をなしたまでだ。
だが、俺はそのため妻子に最大の犠牲を払わせ、畑を荒らし、そのためどうやら一年の収穫はゼロに近い。草むしりをしながら武治はそう考えると、頭の中を暗い影が走った。爪や指が、雑草の渋で、真黄色に染まった。土がつまって爪の先からは血が滲んできた。
説子をかえりみれば、せわしく両手を動かし、無心にバリバリと雑草の蔓を手繰り寄せては、根はがしにむしり取っていた。
武治は説子の動作を垣間みて、何か今の自分の心境にそぐわないものを発見し、一種のジレンマに捕われるのだった。それでも武治は妻の動作に合わせるようにして、蔓の根を手繰り寄せていった。
足下を、つと掠めて走り去る黒い影があった。――一匹の野鼠だった。
少し行くと一メートルもありそうな赤い斑のある山かがしが、里芋の茎の間を音もなく抜けていく――。雑草むしりの作業は退屈だ。これらの小動物との出会いは、武治の無聊を癒す唯一のものだった。
里芋の葉陰には、いつ作られたか小鳥の巣があった。巣の中には茶色の斑入りの小さな卵が五つ、寄り添ようにして入っていた。雲雀の卵だろうか。巣は馬のしっ尾のような毛などを集めて、巧みに作られていた。
武治はそーっと巣をとり上げて見た。「よくも蛇にも呑まれないで……」と思って、また元の位置に納めた。
野鼠、山かがし、小鳥の巣――みんな武治にとって、無二の親友に見えてならなかった。
すでに陽は西に傾き、先を見れば未だ雑草狩りは、里芋畑だけでも数日を要するだろう。
武治は小鳥の巣の傍に近づいて、また覗き込んだ。巣の五つの卵は寄り添うようにして元通りだった。さっきの山かがしがやってきて、一呑みにするかも知れぬ。このささやかな卵の中にも、あどけない小鳥の生命が宿っているのだと思うと、武治はいとおしい心でいっぱいになった「焼け野の雉、夜の鶴」という言葉のように、巧みに草葉の陰に隠され、母親の愛情一つで、今まで安全を保っていたのであろう。
夕方になれば母鳥がどこからか帰ってきて、卵を抱いて眠るのだ。畑の中に巣くい、卵まで産んで、今やそこを追いたてられようとしている空の鳥とその住家――武治は巣の中の卵を見つめ、やがて殻を破って生まれてくる小鳥たちと、その母親の運命について思った。武治は小鳥に託して、自分の運命を想っていたのである。
頼みもしない空港のために、木の根の部落が今や侵害されようとしているのだ。足下の小鳥の巣も、自分の住家も畑もみんな冷酷なコンクリー下の下敷にされるかも知れない。そう思うと一層、巣の中の卵がいじらしく、再び巣ごと取り上げて抱きしめてやりたい衝動にかられた、もし空港が作られたら、小鳥ばかりでなく、三里塚の野山に住む可憐な小動物たち――野鼠、蛇、土竜、野兎も皆一様に同じ境遇にさらされるであろう。
武治はむしり取った草を鷲掴みにすると、矢庭に立ち上がった。落陽が彼の顔を真赤に染めた。すでに陽は森の頂きに沈もうとしていた。烈火のように燃えさかった落陽は一日の終わりを告げるばかりか、武治の明日への新しい闘いを象徴するかのように爛々と燃えさかっていた。
「そうだ、俺は石に齧りついても、仮りに一人になっても、農地は死守するのだ。俺の死に場所は木の根の土だ。空港を許せばあの森この松林や畑ばかりではない。ごの俺までが完全にコンクリートの下敷になって、消え失せるのだ」
権カ者への新しい憎悪が込み上げてきて、武治は胸の血潮のたぎるのを押さえることができなかった。
次の日も武治は、桜台には行かなかった。畑にいるとバイクの音がして、桜台から学生がやってきた。 今日はいよいよ重い石の積み上げで人手がいるから、東藤先生が是非とも来てくれという伝言だった。 武治は一度は断ってみたものの、自分のやりかけた仕事の責任もあり思い直して行く気になった。身支度を整えるため、一旦家に掃ろうとした。矢庭に甲高い説子の声がかかった。
「父ちゃん、今日行かれたらどうするんだや。まだまだこの草だっぺ。そんなどころじゃあんめえよ!」 その声に武治は一歩踏み出した右足をハタと止め後をかえりみて学生にいい放った。
「平和塔やってる間にこのざまだよ。今日は行けねえと東藤さんにいってくれ」
学生はバイクに跨ったまま、呆気にとられた。あまりに武治の言葉がいつもと違って、突っけんどんだったからである。学生は諦め、バイクを飛ばして帰っていった。
説子は草をむしりながら、呟いた。
「何だや、あんなに援農をよこすっていっておきながら一人もよこさねえで……。来たかと思ったら、すぐけえっちゃってよ……」
畑の中から夫婦の草をむしる音だけが、バリバリと絶え間なく聞こえてくる。――両手を動かしながらも常に武治の脳裡を擦めて過ぎるものは、黄衣を纏っていつも合掌して微笑む東藤敬通の姿だった。
彼は一体、何者だろうか。果たして信頼するに足る僧侶だろうか。
彼は自分のことを語ることは好まなかった。――が、武治の耳元には東藤が東京のある未亡人の男妾で、そのマンションから法衣を着けて、三里塚にやってくるという風評さえ伝わってきた。
武治は先日、水戸の市民会館で開催された、「三里塚闘争支援集会」に呼ばれて行った。
その水戸市には長年教職をして最近停年で辞めた、岡本令子という年配の婦人がいた。彼女は常日頃東藤敬通を尊敬するあまり、退職金百万円余りを平和塔にカンパした――が、そのカンパの行方もうやむやで、最近、彼女も東藤に対して疑いの眼を見張っているということを聞かされた。
その他、各方面から東藤に対するあれやこれやの噂が伝わってきていた。いや、武治にはそれ以前から東藤の言動には、何やら不審なものが薄々感じられてならなかった。武治は最近ますます東藤の正体が掴めきれず、悶々としていた。
「だが、そうあってはならない。東藤先生は日本でも類例のない偉い僧侶だ」
と、武治は東藤に対する第一印象を取り返そうとしたが、そのイメージは遠く消え去って、再び返ってはこなかった。武治は幻滅し、悲哀を覚えるばかりだった。
「第六章 欺瞞(前編)」了 目次へもどる