戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
あんなに足繁く桜台に通い続けた武治が、最近ぱったり跡絶えて顔を見せなくなった。心配になった東藤はある日のこと、久し振りで木の根に武治を訪ねた。武治はちょうど折よく家にいた。
彼はいつもと違って、浮かぬ表情だった。
「木川さん、貴方の努力が実ってようやく平和塔も落成式を迎えようとしています。ありがとうございます」
といって東藤は武治に向かって合掌したが、彼は関心を見せず、撫然としていい放った。
「先生、先生は実力闘争をどう思いますか」
「木川さん、私は仏教徒としてあくまでも平和を愛好するものとしての非暴カ主義者です」
「しかし、公団が特措法をもって強制代執行をかけ、つまり、暴カで土地を取り上げにきたらどうしますか」
「やはり、どんな時でも非暴カ不殺生で、あくまで無抵抗主義を貫かねばなりません」
「たとえばこの間、麻生さんの逮捕事件がありましたね」
「ああ、あの四月二二日の朝の……」
と、いって東藤は暗い面持ちで、顔を伏せるのだった。
「わしは無学で、おまけに信仰もねえし、非暴カといわれても……。つまり無抵抗で逮捕され、土足で百姓は踏みにじられろということですか?」
「私たちは権力に無闇に逆らっても無駄です。非暴力をもって、暴カに勝たなければたりません」
「そうすると……」武治は首を捻った。
「だから木川さん、私たちは今、降魔の法城を、建立しているではありませんか」
「そうすると平和塔があっては飛行機が飛べない。必ず公団はこれに強制代執行をかけてくる……。そのとき、先生はどうしますか」
武治は大上段に構えて一言一句東藤の頭上に、斬り込むように問い詰めていった。
「それは木川さん、いうまでもありません」
「すると先生はそこで血を流してまでも、土地を開け渡さず闘うというつもりですね」
「……もちろん」
「それなら結構です」
「しかし木川さん、先ほどもいったように国相手の闘いとなると、ただがむしゃらな暴カでは勝目がありません」
「そうすると……」
「勝つためには一発勝負では駄目なのです」
「同盟の実カ闘争は一発勝負ではありません」
「しかし最近の戸田委員長ら幹部の行動は、過激派学生と手を組んでその傾向が見える……。これは危険です」
「そうするとさっきの先生の血を流してもといった言葉とは違うようですね。どうも……」
「いや、木川さん、そこが大事なところです。闘いというものはただ血を流せばいいというものではない。犠牲を少なくして平和裡に事を進めていくことなのです」
「それは妥協という語し合いでしょう」
「いや妥協ではない……」
「なぜ……」
「勝つためには、どうしても非暴カでなければ駄目だからです。私は木川さんにだけでも、これが解ってもらいたいのです」
「とにかく、わしは先生の非暴カ主義に心惹かれて、今まで平和塔にも協カしてきたのですよ」
武治の言葉に東藤は、急に口元に笑みを浮かべて頷き合掌した。彼は武治の尽カがなかったら、平和塔もここまで進行しなかったことは、誰よりもよく呑み込んでいた。その当人からそういわれると、二の句も出なかった。
東藤は何といったらいいか言葉も見つからず、もじもじしていると、木川が彼の顔を下から覗き込むようにしていった。
「先生は四月二二日の朝は、どごで何をしていましたか」
「……」
木川は彼の口元を見守り、その返答を待ったが何の答も聞けなかった。なおも彼は、東藤の返事を待っていたが、ついに待ちあぐんでいった。
「私はあの朝、ドラム罐の音で眼を覚まし、木の根から麻生さんの家まで、駈けつけたんです」
「ああ、そうでしたか」
「ああそうでしたかって、私は先生の後姿を、あのとき見ましたよ」
「……」
武治のその言葉に、東藤は何か気まずい表情をして、顔を外らした。
「聞くところによれば先生はあの晩、麻生さんの家にお泊まりだったそうですね」
「そうでした。ちょうど、平和塔のことで……」
「麻生さんが逮捕されるとき、先生はどんな気持でした」
「……ええ、私はね、まず何よりもこれは、早く弁護士に相談しなければと思って、すぐ東京の法律事務所に駈けつけたのです」
一瞬、武治は東藤の顔をみつめて、首をかしげた。
「しかし先生、百姓が強盗に襲われたのを見て、法律事務所や警察へ駈けつけるというんですか」
「いや木川さん、眼先のことだけにこだわっては駄目です。そのため私たちは今、広範な民主勢カの拠点を桜台に求め、一切の不正邪悪をこの世界から除くために降魔の法域を築いているではありませんか」
「いくら降魔の法城とはいっても、権カ側には通じません。平和塔にだけ特措法をかけないなんて、政府はそんなに甘いものではないでしょう」
「……」
「その時だ、麻生さんのときみたいに東京の法律事務所に駈ける間に、やられっちゃうでしょう」
「だからそうさせないために、今から降魔の体制を築いているのです」
東藤は、いくらいってもわけのわからぬ奴だといった顔つきで、武治を横眼で睨んだ。
「空港を阻止するためには平和塔だって、最後はこの体を張り、実カで闘うときがきっとくる――」
武治は東藤の面前に胸をはだけると、右手で拳を固め、ドーンと打った。そして、東藤の眼にくい入るように睨んで、いった。
「いくら難攻不落の牙城だって、闘わなくては何のカもねえからな……」
「そのとおりです。だからといって過激派学生の暴力は許せません」
「先生も最近大分、共産党に近づいてきたようですが、きょう日の共産党はトロ排除ばかりで、援農といえばそっちのけで……。わしは共産党に疑問を持ち、……いやそればかりでなく平和塔もわけが解らなくなってきましたよ」
武治は淡々といった。東藤は聞くのみで、何一つ答えようともしなかった。なぜ武治の疑問に答えようとしないのか、武治には解らなかった。
武治は迷い、混乱し、悶々とした。
東藤が蛸入道か、海坊主に見えてきて、仕方なかった。自分は今まで彼に化かされ、踊らされてきたのではなかろうか。
武治はじっと眼を据えて、東藤の顔に見入った。蛸入道のような頭で、何を考えているのか。半眼に見開いた伏せ勝ちの眼は、何を見つめ何を思っているのだろうか。
たしかに武治にとっては、掴みどころのない、そして得体の知れない怪物に見えてきた。
とっさに武治は拳を振り拳げ、眼前の蛸入道の頭をカまかせに、撲りつけたい衝動にかられた。右手が思わず動きそうになったとき、ハッとしてわれに帰った。
いや、たとえ撲られても彼は微動だにせず、不動の姿勢を保つであろう。泰然自若として、なおも彼は「撲れ」と坊主頭を突き出すかも知れない。
そのとき、もう一度、彼を力いっばい撲りつける勇気があるだろうか。それを思うと、何か彼に恐ろしささえ感じるのだった。
ともかく、彼のいう非暴カとはどんなものか、雲を掴むような話で、試して見たくなったのである。彼の非暴カ無抵抗とは、目前で同志が官憲の土足に蹂躙され、逮捕される、それすら見棄てて逃げ去る行為をもって、非暴カというのだろうか。そうだとすれば武治のこれから闘わんとする農民闘争とは、全くチグハグなものであって、信じるに足りないものではなかろうか。
もし、そうだとすればこの蛸入道は農民闘争にとって、害毒を流す以外の何者でもない。東藤も平和塔も今のうちに徹底的にたたき潰さねば三里塚闘争にとって取り返しのつかない禍の基になる。
武治は東藤を前にして、さまざまなことを思い巡らすのだった。
武治もかつてはこの東藤に心酔し、断食のときなどのように、何くれと彼の身の回りの世話をやいたものだった。ところが彼の言動には、どう見ても不一致なものが見えてきた。彼は黄衣の下にもう一人の東藤を隠して、真の自己を決して語ろうとはしない。武治の疑問点に何一つ答えようともしないのだ。
武治は何か彼の答えが返ってくるかと待ったが、ついに一言も聞くことができなかった。武治はじーっと彼の顔を見つめた。
「七月七日は待望の落成式です。何はさておいても木川さん、必ず出て下さい」
木川が黙りこくっていると、催促するかのようにして、またいった。
「木川さんがお見えにならないと、落成式になりませんぞ」
東藤はそういって帰って行った。