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三里塚闘争

「小説三里塚」第七章 錯綜(前編)

戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる

第51話 咲子

 武治には三人の息子と三人の娘がいた。
 長女は嫁いでいたが、二女の咲子は成田高校を出ると池袋の西武デパートで働いていた。なかなか気の利いた器量のいい娘だった。

 最近、咲子には相愛の男性が現われた。相手は同郷の「湯川の克ちゃん」だった。お互いに行き来する睦じい仲となっていた。咲子は休日に木の根に帰り、その夜、母に打ち明けた。母の説子は自分だけの胸に納めて、武治には黙っていた。その後帰省するたびに咲子はその男性との結婚問題を、しきりに口にするようになった。たび重なる咲子の話に、説子もこれ以上、秘めておくことができなくなった。

 ある夜、このことを武治に打ち明けた。
「咲子も年頃だ、相手はどこの誰だい」と聞かれても、説子にはまともに答えられないものがあった。「湯川の克ちゃん」とは、武治のすぐ裏手に当たる一名「どじょうや」と呼ばれる湯川雄三の息子克正だった。
 雄三は三里塚に住んでいたが、御料地開放と同時に、木の根に武治らと入植した。若い頃警官を務めたというが、その後どじょう屋をやったとかで、俗に「どじょうや」で通っていた。口にチョビ髪を蓄え、小太りした赤面の男だった。武治とは開拓当初から同じ仲間だったが、空港問題が起きると同時に二人は交際を絶った。武治は空港反対、湯川は賛成に分かれたからである。そんな事情もあって、いくら娘のことでも、人一倍頑固な武治の前にはこの話だけは持ち出せなかったのだ。
 今宵、勇気を揮って切り出したものの、いざ「誰だ」と武治に訊かれてみると、卒直にそれだということができなかった。
「誰だい、咲子の相手は……。説子」
 武治が再び訊いたので、高鳴る胸を押さえるようにして、ここぞとばかりに「湯川の克ちゃん」といったが、その声ほ脅え震えていた。――一瞬、武治の顔面が引き攣った。一杯飲んで剽軽な表情が、俄然変わったのを見て、説子は慄いた。

 武治は今宵一杯呑んで、機嫌よく、説子を相手に、十八番の「成田音頭」を歌って寝たいと思っていた。その矢先、説子の持ち出した話で一大ショックをうけたのだ。彼の顔にはっきり、それが見えていた。まるで頭にガーンと一撃食らった思いである。彼は一ぺんに酔いが醒めてしまった。「これが本当だとすると、大変なことになるぞ」と、武治は心の焦りを覚えた。
 武治は末っ子の咲子を、心から可愛がっていた。一人東京へ出しておくのも、日頃心配でならなかった。目の中に入れても痛くない愛娘の咲子が、彼の厭み嫌う者の伜と相思の仲とは……。
 武治にしてみれば空港反対に日夜心血を注いでいる今日この頃――忽然として聞く説子の言葉に度胆を抜かれ、一瞬、亜然としたのも無理はなかった。彼は同志が脱落していく中で、せめても息子、娘だけは親の心境を理解し、心の支柱となってくれるものとばかり思っていた。

「この俺を何と見る、説子、俺の眼の黒いうちは承知しねえぞ」
 武治は説子をキッと睨んだ。説子は恐ろしくなって、思わず、視線を彼から外らし、ただ、黙ってうつ向いてしまった。武治は催促するようにしていった。
「説子、お前はどう思うだ」
「……」
「黙っていたって、わからねえ、どう考えてんだというのだよ!」
「そりゃ父ちゃんの気持もわかんねえではねえけどよ、空港の反対とこれとは話が違うでしょうよ……」
「違う?説子、どこが違うのかいってみろっ」
 武治が凄い剣幕で睨むので、説子はおどおどしてきて、口もまともにきけなくなった。武治は顎に手を当て、じーっと考え込んだままだったが、しばらくすると、やおら顔を上げた。いくらか気分を取り返したかという面持ちだった。説子は娘を思う母親としての愛情を、切々と夫の武治に訴えた。

「咲子の気持にもなって……。本人同士のことだからよ」
 といわれても、現在の武治の心境ではどうあっても説子の言葉は腑に落ちなかった。一応は説子の言葉にも一理のあるのを認めながらも、かたくななまでにそれを拒もうとするものが自分の内側にあるのを武治はどうすることもできなかった。理屈では何とも説明できない、感情の世界である。武治の「俺の気持ちがわからないのか」という言葉が、それだった。「この次の日曜日までには父ちゃんの承諾をもらっておいてくれ」との咲子の話だったが、その夜はそれで何の結論も出ないまま終わった。

 彼は農民を虫けら同様に蹂躙する者に対しては、人一倍の憤りを覚えた。この憤りを自分だけでなく、家族総ぐるみの、いや、部落総ぐるみの共有物としたかった。そこに初めて不屈な闘いが始まるのだと思っていた。そのためには骨身を割いても、生命を捨てても惜しくない。男一匹生命の捨て処だ。何としてもそのような闘いを創り上げなければ、空港阻止の闘いはありえないと、彼は日頃からそう考えていた。だから、家族だけは「この父親を理解し、従いてくるもの」と、固く信じていた。その矢先の話だったから、ことのほか、心外でならなかったのだ。
 その夜、蒲団に潜り込んでからも、そのことを考え続けて眠れなかった。暗闇をみつめて、彼の眼は光っていた。説子の安らかな寝息を聞いていると、柱時計が一時を打った。彼は寝返りを打って、改めて眠りにつこうとした。

 その時、微かに枕辺に伝わってくるものがある。武治は耳のせいかと思って、耳を澄ました。そして枕から頭を上げて、もう一度耳を澄ました。たしかに聞こえる。
 どこかで打つ半鐘の音だ。それは絶え間なく、伝わってくる。
 武治は夜具を蹴って、跳ね上がった。そのまま土間に駈け下り、下駄をつっかけると、雨戸を開けて庭に飛び出した。
 周りを見回したが、何の変化もない。静寂な夜更である。しかしたしかに鐘の音は鳴り響いている。しばらくすると彼の家の屋根の後の空が、仄かに明るんで見えてきた。
 彼の屋敷はやや低地にあったので、すぐ前の丘に駈け上って見た。
「火事だ」彼は呟くと夜更の火事に、一種不気味な悪感を覚えた。
 はるか向こうの天浪方向だ。――夜空に赤次と火の手の上がるのが見える。続いて火の子がパーツと吹き上がる。花火のように美しい。

 夜闇に人影のようなものが蠢いて、誰かが近づいてくる気配だ。闇に透してよく見れば、弟の源二らしい。
「兄貴か、火事はどこだ」
「源二か、火は天浪方向だ」
 武治は暗夜に燃え上がる火のカ向を指さした。
 源二は道端の火の見櫓に駈け上った。その黒く動く形が、何か獣のように見えた。
「兄貴、天浪の飯場だっ」
 天浪には空港工事のために、各地から集まった建設会社の、プレハブの飯場があった。夜闇に微かに伝わってくる遠くの人の喚き声――それに交って何かパチパチとはぜる爆竹音が、静けさを破って聞こてる。
 櫓から源二が降りてきた。
「兄貴、この火事は何だ?」
「襲撃か失火かどっちかだ。源二」
 その時、夜空を焦すように、火の手が高く燃えるのが見えた。武治と源二は闇の中に立ったまま、黙って火の手を眺めた。また一際、伝わってくる人の声――二人はその場を、石像のように動こうともしない。この夜更の火は武治にとって、何か険しい木の根の行く手を暗示するかのように見えてならなかった。

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