戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
第68回 豪邸の中で(2)
その夜、直次は母の説子に訊いた。
「母ちゃん今日どこへ行った?」
一瞬、説子はためらった。
「うむ、三里塚の石川さんの母ちゃんにお茶に呼ばれて、行ってきたのだよ」
「父ちゃんの生きてるうちは、一度だって条件派のところへ行ったこともねえのに……」
説子は何か痛いところを突かれたような気持で、直次の顔を見た。しばらく親子の間に沈黙が統いた。
「母ちゃんもよ、話し相手もなくなくなっちゃたし、今までの木根の仲間だし、呼ばれたから行ったまでさ……」
「今さら父ちゃんを棄ててった条件派の家へ行くなんて、格好よくねえよ」
「行ったって、母ちゃんは別に……」
「別にって、母ちゃん、同盟に対しても――」
「知れたって別に条件派に鞍替えした訳じゃあるまいしよ……」
「だから母ちゃんはしょうがねえだよ。けじめがねえんだから……」
「でも母ちゃんはよ、石川さんの家さ行った効はあるよ、ゆき子さんから、木の根では聞くことのできない話をいっぱい聞かされたもの……」
「どんな話聞かされたんだ、母ちゃん」
「うん。どんな話ってやっぱりよ、学生がいつもいってる条件派の人らの話は本当だったよ。直次!」
「そんなこと、行かなくてもわかるじゃねえかよ」
今まで二人の話を黙って聴きながら編物をしていた静子が、その手を止めて口を挾んだ。
「でも直次さん、お母さんはね、行って初めて、自信がついたんだわよ」
「正夫さんのとこのご殿みたいな家を見た時は、たまげて門から入れなかったよ、母ちゃんは……」
「見かけだおしだよ。中身は穴っけつだ」と、直次は吐き棄てるようにして、いった。
「母ちゃんがいる時、ちょうど帰ってきたけどよ。あのご殿から辰夫さんは地下足袋履いて出稼きだよ」
「ざまあ見ろっていってやればいい」
「まさか直次、ざまあ見ろとはいえなかったけどよ。そんなもんかとつくづく考えさせられたよ」
「やはり、殻に閉じこもらないことだわね、直次さん」と、静子は直次の顔を見た。
「殻に閉じこもらない……」
「そうよ」
「往々にして実力派は自分の殻に閉じこもる癖があるのよ。だから孤立化していく……」
「敷地内の農民が孤立していくことは、おっかねえよな。そのために俺らは鉄塔を建てたんだ」
「木の根にいるとそれがよくわかるわよ」
「古込のたまさんの脱落だって、とどのつまりは一人取り残されたという感じだよな、静子!」
「これは今後、反対同盟の大きな課題だわ」
「それにしても農民はばらばらだな。団結、団結っていったって……」
「それは無理よ。現在の支配構造の中では――農民も労働者もばらばらに解体されているからよ」
「これで第二期工区内の農民が敷地外の農民と、本当に団結できるかが、問題だど――」
その時、説子は何を思ったか、ポツリといった。
「父ちゃんが生きてた頃からみると、木の根も随分変わっちゃったもんな」
「本当に――。お父さんが生き返ってきたとしたら、びっくりするでしょうね、お母さん」
と、静子がいうと説子の眼には何か白く光るものが見えた。説子は懐から、そっとハンカチを出して拭いた。それを見て直次も額に掌を当て、頭を垂れ瞑いに沈んだ。
実際に木の根は変わった。静子が一年半前、初めて木の根に武治を訪ねた頃からみると、地形まで一変し、まるでよその土地にでも行ったような感じになった。資材道賂を隔てて直次の家のすぐ側まで、空港の施設が延びてきていた。その鉄柵のある入口にはガードマンの見番所があって、昼夜立番をしていた。ガードマンには直次の顔見知りの、条件派の家の息子もいた。
管制塔だという工事中の鉄骨が、グロテスクな形で黒々と空に突き立っていた。四〇〇〇メーターを三二五〇メートルに縮めた滑走路が、北から南に延びつつあった。遮る物のなくなった目前には、いやでも空港施設が眼に飛ぴ込んできた。静子はそれを見るたびに、言葉に現わせない心の怒りを覚えてならなかった。
「静子、それにしてもこのままでは、木の根は孤立する――」という直次の眼光がキラリと光ると、一瞬直次と静子の視線がカチリと、ぶつかった。
「そうよ、反対同盟の重大な時よ」
「一体、周りの者は俺らの苦しみがわかってんのかよ。針の山に立たされたようなこの気持ち……」
「もちろん、周りの者の理解も大切だけど、闘いの中心になるのはどこまでも私たちよ、直次さん!」
その時、傍の説子が、口籠りながら、「天浪の墓地はあんなふうになっちゃって、父ちゃんに何か悪い気がして……」といった。その母の言葉に直次も静子も、何もいう言葉なく顔を見合わせた。
静子は何を思ったか、つと立ち上がって戸外に出た。庭から丘に上って見ると、工事現場には煌々と電気が燈って、真昼のように明るかった。どこか遠くの方からバイルを打ち込む音が、間断なく聞こえてくる。
鉄柵の下で蠢くものがいた。夜警のガードマンが、静子の様子を窺っていた。
静子は踵をひるがえして、木の根を見渡した。すぐ前には源二、はるか森陰には八郎の燈火が見えた。静子はホッとして、吐息を吐いた。あの燈火の下では今宵も生命は活き、生命は悩んでいるのだ。歯の抜けたようにポツネンと取り残されたのは、木川らの三世帯だった。
その時、闇の中に、一つの燈火が燈った。木の根団結小屋の燈火だ。援農に行った学生らが、今帰ったのか。たった今明りが燈ったところだった。
木の根の行末は誰にもわからない。しかし、敷地内に残る二四世帯は、最後まで闘うことは間違いないと、静子は心に思った。
パイルの打音の合間を縫って、どこからか秋の虫のすだく音が聞こえてくる。――静子は一人郷愁の念にそそられながらも、もう一度、この土地を農民の手に奪還するには、どうしたらいいだろうか、三里塚闘争にとっての、「コミューン」とは、と考えた時、戸口に立って「静子ーっ」と、呼ぷ直次の声がした。
「どこさ行ったんだ、静子」直次が近付いてきた。
「どこへも行かないわよ。ここにいるわよ。団結小屋では今しがた帰ったばかりらしいよ」
「うん、そういえば今日は辺田の四郎兵衛のとこさ援農に行くていってたっけ」
「よくやるわね。いくらかでも小屋の生活を経験した者には、厳しさがわかるわよ」
その夜、若い二人は蒲団の中で肌を摺り合わせ、何かしら今までにない喜びに浸り切るのだった。直次は静子に、静子は直次に自分を発見するという交歓だった。二人は仄々としたものに胸を充たされて、深い眠りに落ちていった。
それから三日目の日だった。
直次のところに東京と札幌から前後して二通の手紙が舞い込んできた。彼は納屋の中にひとり籠り、その手紙を繰り返しては読んだ。一つは札幌の兄の和年から、もう一つは東京の湯川へ縁づいた妹の咲子からのものだった。その内容はともに、遺産の分配を要求するものだった。和年は札幌郊外に土地を買ったので家を建てるから、そして咲子は夫の克正の経営する下請工場が不況で首が回らなくなったので、近いうちに相談にいくからという二通のものである。
直次には借金こそあれ、金はなかった。土地は分けていいが、それを換金するには空港敷地内の土地では、公団に売る以外に他に道はない。直次は絶対絶命の立場に立たされた。公団に土地を売ることは、今の直次にとっては絶対に不可能なことだ。
しかし、父の後継者として兄妹に遺産の分配の義務がある。今ここで土地を分ければ、公団にそれを売って金に換えるに違いない。彼等の要求に応えてそれをくい止めるには、どうしても金で処理すべきだと直次は思案したが、さてその金をどうやって作るかが問題だ。最近は農家収入が半分に減って、土地に代わる金額の捻出なんてどこにも見当たらない。
しかし、咲子の場合を考えると、釈然としないどころか、直次にとって憤慨に耐えないものがあった。咲子の義父・湯川雄二もかつては父と一緒に、木の根の開拓者同志だった。それが賭け事に身をやつし、農地を減らし、揚句の果ては父に敵対し、いち早く条件派に与し、農地を公団に売り払ったのだ。結局、湯川は武治のみか、反対同盟に弓を引く姿勢をとったのだ。咲子の夫・克正とはいえ、その湯川の息子に父の遺した血と汗の結晶たる土地を、分け与える義務がなんであるのか。直次はこの疑問に答える、何ものも持ち合わせなかった。
二次代執行直前の駒井野の清宮カや藤崎米吉らには、肉親兄第、知人をとおして、あの手この手の巧妙な切り崩し作戦がかけられ、ついに脱落した。――と聞いていたが、今の自分がそれと同じ境遇に置かれているのではないかと、直次は考えた。公団は実の兄妹をも使って、土地収奪をせんとしているのだ。
死んだ父の生活は俺たち兄妹を育てるにも、決して金に豊かなものでなかったらしい。それに公団とグルになった銀行からは、ビタ一文の金も借金しなかった。しかし、さぞかし父も喉から手の出るほど欲しかった金だったかも知れない。それに耐え抜き闘い半ばに斃れた父のことを懐えば、一坪たりとも土地は手放したくない心境だった。その父の遺した土地を彼等をとおして、公団に売らせるようなことがあったら、亡き父の霊はなんと歎くだろう。
直次は亡き父そのものになって、強い責任を覚えた。今までは同盟のためだとか、やれ条件派に後指をさされるとか、他人の思惑ばっかりで動かされてきたが、この期に遭遇した直次は、父の遺した闘いを、ようやく自己自身のものとして理解できるようになった。そして、一月一三日、父のいまわの際に遺した言葉の、なんであるかもわかってきた。
「直次さーん」と静子の呼ぶ声に彼がわれに帰ると、すでに一時間余りも納屋にいたことを知った。直次が急に見えなくなったので、静子が心配して呼んだのだ。
「そうだ、俺は静子と一緒なのだ!」と、直次は思うと、急に一条の光が射してきて、彼の心を閉していた雲霧を一ぺんに払い退けてくれた。
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