戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
第69話 農民を瞞したシルクコンビナート
一九六六年六月一八日、木原弘は信州大で養蚕研修を卒えて、郷里の東峰部落に帰ってきた。その日の新聞で彼は富里から成田市三里塚に、空港のくることを知って驚いた。
一九五四年、農林省は千葉県庁を通じ成田市遠山地区東峰、天神峯、十余三を中心とする一大シルクコンビナートの設立を計画した。すでに一戸二〇アールから三ヘクタールにわたって植え付けられた畑は、一面の桑園となっていた。これは政府の麦作転換政策の中で行なわれた、農林省の養蚕奨励で、その専業を志す農民も二、三現れてきていた。
木原弘は近くの多古町にある県立農業高校を出て、長野県立蚕糸専門学校に入り、なお信州大で研修した。彼は戦後の開拓者を父に持つ農村青年として、日本の農業の没落を感じとっていた。そして開拓農民の後継者の一人として、いかにこれを打開すべきかを日頃、真面目に考え続けていた一人だった。そうした中の養蚕奨励であったから、彼が心曳かれるのも無理がなかった。
一部には警戒して乗り気になれない者もいた。なぜなら政府の奨励する今までの養豚、養鶏、酪農の奨励政策に乗った者で誰一人成功したものがなかったからである。しかし、彼は日本農業の将来の希望を蚕業に託し、その専門的知識と技術を習得して帰郷した。
だがその時点で、木原弘の夢は一瞬に消え去り、希望の一切は絶たれたのだ。
シルクコンビナートが空港に転換することになった。早くも六月二四日には、農林省から正式にコンビナート廃止の通達がきた。木原弘のショックは大きかった。すでに天浪に稚蚕用、天神峯には壮蚕用飼育所が完成しつつあった。桑の苗木は伸びて一面の縁地帯と化していた。――が、それはもはや無用の長物となった。
六月の薫風は緑の桑園を靡いて美しかった。それを眺めて、農民は狐に化かされたような放心状態になってしまい、何も手がつかなった。呆然自失する農民たちの心は怒りに燃えながらも、なす術を知らなかった。
その後、一反歩六万円という、涙金ばかりの「暫定補償金」というものが配られ、農民は泣き寝入りしなければならなかった。一旦廃止になった以上、畑の桑を跳めて募らす理にはいかなかった。涙金で桑を抜き払い、元の畑に還すのは至難な技だった。でもそれなしには、今後の生活設計も立てられなかった。
木原弘の家も泣きの涙で、一家総動員の抜根作業に汗を流した。桑の根張りは土中深く広く喰い込み、抜根作業は労多く思うように渉らなかった。止むをえず、彼の家では、高い金を出して、非生産的なこの仕事のために抜根機を買った。父母とともに、せっかく育てた桑の根を抜く味気ない毎日が続いた。
日が暮れ夕食が済んでも、家族は誰一人口を利く者とてなく、死んだようになって蒲団の中に潜り込むばかりだった。彼の抱負も計画も、今や一切が水泡と帰したと思うと彼はいい尽せない屈辱感と憎悪心で、胸がはち切れんばかりだった。
一面緑に掩われた桑園もおいおいと姿を消して、表土を現してきた。抜いた後の土地は荒れていて、直ぐには畑にならなかった。元に還すには整地し、特に肥料を入れなければならない。しかし、時が過ぎるに従って、彼は徐々に冷静さを取り返していった。すると、彼の希望をむざむざと踏み躙った者への、限りない憎悪の念が再び彼の内側から湧き溢れるのを覚えた。と同時に何のためにシルクコンビナートを廃止してまでも、空港がここに作られるのかという疑問を持つようになった。
これを原点として木原弘は、空港阻止の闘いに卒先して身を投じていった。彼はコンビナートで辛酸を甞め尽していたから、二度と権カ者の手管には乗るまいと心に固く誓った。もしも再び権カ者のいいなりになりなるようなことがあったなら、農民はすべて日本から抹殺されてしまうのではなかろうか。
木原は子供の頃、祖母から聞いた話を思い出した。「死んだ童子が賽(さい)の河原でようやく石を積む。そして父母の名を呼んだところで、鬼が出てきてそれを衝き崩す。――これを繰り返しては童子は、地蔵菩薩の出現と救いを待つ」という、仏教の物語りだった。今の農民の姿が、全くこれと同じものではなかろうかと、つくずく木原は思った。すると木原の心は燃えて、権カに対して胸の血潮のたぎりを禁じえなかった。
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